恋の終わりは 【恋に焦がれて鳴く蝉よりも・番外編】
 父はやはり難色を示したが、目に入れても
痛くないほどの愛娘がどうしてもとせがめば、
首を縦に振らないわけがない。

 紫月の望み通り縁談の話は進み、晴れて婚約者
として彼との再会を果たした紫月は、天にも昇る
思いで目の前に座る榊一久、その人を見つめた。

 けれど間もなく、その瞳に自分が映っては
いないことを悟ってしまう。



-----彼の心は、他の誰かに奪われている。



 そう感じるのは、ふとした瞬間に遠くを見や
る、彼の眼差しだった。

 隙のない彼が時折見せる、()瀬無(せな)い表情。
 その表情を見るにつけ、自分に向けられる笑み
が、偽りの仮面であるのだと知らされてしまう。
 そうして、そんな彼と過ごす時間はあまりに
苦しく、好きだと思えば思うほど、自分がみじめ
になってしまう。

 だから紫月は、半ば縋るような思いでホテルの
部屋をキープし、彼に決断を迫ったのだった。

 「好きなんです。創立記念パーティーであなた
を見たときからずっと、わたしはあなたが好きで
した。だから、この結婚を政略結婚だと思ってい
るのはあなただけ。どちらにも、愛がないと思っ
ているのは、あなただけなんです」

 意を決して曝け出した、自分の想い。

 その想いに対して、差し出されたカードキー
を見つめる一久の表情は、追い詰められた鼠の
それで……

 さらに、追い打ちをかけるように「会社を守る
覚悟があるか?」と問い詰めると、彼は苦し気
に目を細めながら金箔でロゴが印字されたそれ
に、手を伸ばしたのだった。



-----だから、紫月はその手を止めた。



 これ以上彼を縛り付けることも、
 これ以上自分が傷つくことも、
耐えられなかった。

 結婚しても、彼の心は手に入らないのだ。

 そう悟ることができれば、彼に伝える言葉は、
ひとつだった。

 「お気持ちは、わかりました」

 そう口にした瞬間、彼と生きる未来は消えた。
 最後まで心を許してもらえなかった彼の幸せ
を願って、紫月は今までで一番やさしい頬笑を
浮かべた。







-----それが、ほんの数時間前のことだ。



 紫月は広い部屋のガラス窓に映る自分を見つめ
ながら、緩く結い上げていた髪を解き、小さく
首を振った。長い髪が少しくねった跡を残して
背中の中ほどで揺れる。

 もしかしたら、この部屋で彼と一夜を過ごすこ
とになるかも知れない。そう思って予約したデザ
イナーズスイートは予想以上にラグジュアリー
で、そんな可能性など万に一つもないと心の片隅
で思いながらも、夜景に映える淡色のワンピース
まで新調した自分が、ぽつりと立っている。
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