彼女の居場所外伝 ~たんたんタヌキ~
それから社内にいるときでも史也さんが電話を受けていると耳を澄ませてしまうようになった。
気になり始めると、気になるもの。
冷たい無表情でいてくれた方が安心するなんて、どうかと思うけど。


「今日専務のお客様から秘書室のスタッフに南青山の有名なフレンチレストランのお弁当の差し入れをいただいたの。会食のお供は男性陣に任せて女性陣だけ休憩室で頂きましょう」

わあ。ラッキー。
秘書室にいると、たまにこんな上等の差し入れをいただけることがある。

「私、お茶の準備をしますね」
自分のデスクに個人的に常備している上等なお茶の葉を取り出し、給湯室に行く準備をする。

「ええ、お願いするわ。皆さんも行きましょうか」
ベテランの専務秘書の鶴の一声で女性陣は休憩室に向かう。


それぞれが自分の担当役員のスケジュールに合わせて行動しているから、秘書室の女性陣が揃うのは珍しい。
女性陣が揃うと当然のことながら賑やかで、ここぞとばかりに情報交換の場になる。

「康史副社長は今週もパーティーが入っているの?」
「そうなの。週末は会食かパーティー。あまりお休みになっていないから心配になるわ」
康ちゃんの秘書は佐伯さんという既婚の女子社員だ。彼女がパーティーのお供をすることは少ない。大抵は秘書室の男性スタッフが交代でお供している。
康ちゃんは今週も忙しいみたいだから愚痴電話はやめてメールだけにしておこうかな。

「そういえば、北海道から戻ってきた海外事業部の小林主任、まだ独身ですって」
「わあ、それは朗報ね。先月開発の萩原さんが結婚してイケメン独身社員が減ったもの」
「そうよ。企画グループの田村さんは婚約したって。近江さんはデキ婚しちゃったし。営業の高橋さんはタヌキの飼育係と付き合ってるって噂よね」
秘書室の一部の独身女性陣は非常に姦しい。

「え、タヌキの飼育係って谷口さんのことですよね」
配属二年目の小杉さんが首を傾げた。

「そうよ、いつも髪を一つでくくって地味なスーツを着てる冴えない営業部の女子社員ね。彼女って確か、小平さんの同期よね」
情報通の先輩に話を振られる。

「はい。谷口早希ですね。確かに見た目は地味な感じですけど、性格はからっとしていていい子ですよ」

それほど親しくはないけれど、何度か就職後の研修で同じグループになったことがある。
リーダーぶるわけでなくグループ内のバラバラな意見を嫌みなくするっとまとめ上げてしまう不思議な子だと思った。
入社以来ずっと神田部長の下で働いていて、振り回されつつもあの自由奔放な神田部長を押さえ込めるのは彼女しかいないと言われている。

そういえば彼女、暫く前の周年パーティーの賞品の受け取りのために社長室に来たことがあったっけ。

「わたしその谷口さん、高橋さんじゃなくてとうちの林さんが噂になってるって、営業の子に聞いたんですけど」
小杉さんは営業にいる同期の友人に聞いたのだという。

どういうこと?と室内がざわめく。

「あの林さんが、わざわざ営業部に足を運んで谷口さんに誘いを掛けてたって話です。同じフロアのスタッフがたくさん見ている中で”早希さん”なんて名前で呼んでたって言うし。昼休みに二人で出かけるところを見たって人もいるって。その時は大きな声で笑ったりとずいぶん表情豊かだったって・・・」

「ええっ、あの林さんが声を出して笑ったの?」
「営業部のフロアに押しかけた?」
皆驚きと興味で休憩室の中にどよめきが走った。

「そういえば、二人が地下駐車場にいるところを見たことがあります」
専務秘書が言い出した。

「専務の忘れ物に気がついて地下駐車場に追いかけたんですけど、その時に見かけたんですよね。あの時は社長と神田常務のお出かけのお見送りだろうなって勝手に考えてたから気にしてなかったんですけど、そうじゃなかったのかも」

私は、ひとり凍り付いていた。
最近見かけた表情豊かに電話している姿はまさにそれだったんじゃないのだろうか。

信じたくない気持ちとやっぱりなと思う気持ち。

無表情がデフォルトの社長秘書。くすりと笑みを浮かべることはあっても声を出して笑うところなんて社内で見たことはない。
それにあの堅苦しく真面目な史也さんがただの女性社員を下の名前で呼ぶなんて。

折角のお弁当も食べきることは出来ず、頭の中は真っ白になった。

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