愛のない結婚のはずが、御曹司は懐妊妻に独占欲を放つ【憧れの溺愛シリーズ】
そんな中、突如として下された『帰郷命令』。

これまでも両親――特に母親からは、再三「帰って来てほしい」と言外に匂わされてきて、その度にわたしは、何かと理由をつけてそれをうやむやにしてきた。

そもそもロンドンで働くこと自体、家族の誰にも最後まで打ち明けなかったのだ。
万が一家族全員に反対されたら、それを振り切ってまで渡英する勇気がしぼんでしまうかも。だから『置き手紙』なんてものを生まれて初めてして、わたしは故郷(くに)をあとにしてきたのだった。


いやだ、帰りたくない。ここに居たい。

さっきからずっと、そればかりを考えている。

そんなことはもう無理。つい数時間前にミシェル園の人たちに別れを告げた。荷物も引き払ったし、雇用契約も解除してもらった。
ミシェル園の人たちはみんな、わたしとの別れを惜しんでくれて、近所の人を招いてお別れパーティまで開いてくれた。

そうしてわたしは今朝、三年勤めたハーブ農園をあとにしてロンドン市内に出てきたのだ。朝早い飛行機に間に合うよう、今夜はヒースロー空港にほど近い宿で最後の一夜を過ごすことになる。

いいかげん空港行きのバスに乗らなくちゃ。
いつまでもここにこうして居られるわけじゃない。

そう頭では分かっているのに、体が動かない。青々とした銀杏(いちょう)の樹の下で、ずっとベンチに座り込んだまま。

春も終わろうかというのに夕風は冷たく、あご下の毛先を揺らしながら頬を撫でていた。

冬はもちろん、春先や秋にもストールが手放せない。
二十年以上も黒髪おかっぱスタイルを続けているわたしにとってみたら、すっかり身に染み付いた習慣のはず。なのにこの時は、手に持っているストールを首に巻こうだなんて思いつきもしなかった。
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