二人の隠し事
 6月。雨がいっぱい振ってテンションが下がる6月。祝日がなくてテンションが下がる6月。5月の終わりに中間テストが終わったと思ったら、7月の始めにある期末テストの尻尾が見えてきてテンションの下がる6月。
 そんなテンションが下がる6月の6限目。数学の授業をBGMにして、私は窓越しの景色にため息をついた。傘を差すか迷う程度にパラパラと雨が降っている。神様の気まぐれですぐにでも晴れたり、土砂降りになったりしそうな天気に傘を持って来ていない私は肘をついて空を睨みつけた。
 周りについて行くだけで精いっぱいだった4月と5月が過ぎ、やっと高校生活にも慣れてきたところの雨生活だ。私は雨が強くなる前に授業が終わってくれないかと高校入学祝いに買ってもらった腕時計を確認した。6限目開始から10分しか経っていない。授業が始まってから外しか見ていない私は、まぁ、こんなものだろうとまた外の景色を眺めた。
 高校生になるまでは毎日腕時計をつけることなんかはなかった。別に腕時計をつけたからって時間を守れるようになるわけではなく、中学時代と同様に遅刻ギリギリの滑り込み登校を何回もしている。
 逆に高校生になって変わったなって思うこともある。高校生になってさっそくアルバイトを始める人がいたり、部活が中学までの遊び感覚では続けられなくなったり、ファッションやメイクなどにお金と時間をかけたり、大人へと近づいている感じがする。小学生の頃は走るのが早いだけで、人気者になれたしモテたけど、高校生になると人気者にはなれても、それだけでモテることはない。運動とは逆に勉強ができる人がモテるとまではいかないけど、カッコよくみえるのも高校生からだと思う。
 同級生の直樹(なおき)がそういうタイプだ。直樹とは小中高と同じ学校なのだが、友達同士でクラスメイトで誰がカッコイイとかいう話に一回も出てきたことが無い。それがこの前の中間テストが終わってから少しは会話に登場してくるようになった。
 直樹の見た目は普通だ。悪くないと思う。性格も悪くない。人の悪口とかも言わないし。勉強ができて、優しく教えてくれる。勉強ができること以外は良くも悪くも普通の奴だ。私の中での評価が普通でも、周りが言うと、私もつられて意識して見てしまう。
 かっこいいのか、あれが。
 私は少し離れた席の直樹の横顔をちらっと見て首を傾げた。私の視線には少しも気づかず、真面目に先生の話を聞く直樹は昔と変わらない直樹だ。
 直樹は勉強ができるから真面目というふうに思われがちだが、勉強から離れて遊びにいくときは、私よりも好奇心旺盛で活動的だ。
 小学1年生のころ、〈冒険ごっこ〉と称して、行ったことのない道を通り、家から遠いところ――校区の外で、今思えば、大したことのない距離だが、昔の私にとっては遠いところ――へ行き、満足したら帰ってくるだけの遊びを直樹とやっていた。
 知らない所に行く不安もあったが、親や先生から遊びに行くときは、遠いところに行っては行けないと言われていた私はバレたらどうしようという気持ちもあった。怒られないかなと聞いても、直樹は、
「そんなの隠れてやれば大丈夫だよ」
 というのだが、案の定、帰る時間が遅くなって怒られる。いっつも怒られる。怒られてもまたやってしまうのが子供で、直樹はいつものように「そんなの隠れてやれば大丈夫だよ」って。中学生のときに文化祭を勝手に抜け出してカラオケに行った――このときは二人きりではなく、友達もいた――ときも、箱ごと爆竹を燃やして遊んだときもだ。
 運動場で体育をしている2年生を窓越しに見ながら、直樹は普通だけど、面白い奴だと思い、誰にもばれない程度にふふっと笑った。
「じゃ、宮崎(みやざき)」
「あ、はい」
 先生になんで呼ばれたかはわからないが、とりあえず起立する。
「この問題だが、解くためにまず何から始めればいいと思う?」
 黒板には『問3』とだけ書かれている。どこの『問3』だよ、と机に置かれた教科書に目をやるが、そもそも開かれていない。ノートを見よう。うん、綺麗な白色だ。
「宮崎、どうした? まず初めにしなきゃいけないことは何だ?」
「はい。そうですね……まずは、落ち着いて深呼吸でもしましょうか」
 はははと教室中に笑いが起こる。
「もういい座れ。じゃあ、飯田(いいだ)」
 私はおとなしく座り、指名された直樹の方を見る。
「この問題はまず――」
 直樹は私には理解できないよく分からないこと――三角形がどうのこうのって言ってた気がする――を言い、先生を機嫌よく頷かせている。さすが直樹だと私も頷き、数学の授業をまたBGMにする。

 放課後。クラスメイト達が帰っていった教室で、選ばれし者たち(私を含めた5人の掃除当番)が箒を持ってせっせと掃いている。
「ねぇ、未希(みき)って飯田君と同じ中学だったんだよね」
「うん、そうだけど」
 と同じく掃除当番の真奈(まな)に返した。真奈は、
「中学のときからあんな感じだったの?」
「あんな感じって?」
「ほら、あの、寡黙でさ、男らしいっていうかさ」
 直樹の方をちらっと見て、最後の方は小声で本人には聞こえない様にささやいた。ははは、と私はつい笑ってしまった。
「ど、どうしたの?」
「ははは、ごめん、急に笑って。まぁ、中学のときと変わらないっちゃ変わらないんだけどさ、評価はだいぶ違うかな。決まった人としかあまり話さないだけで、寡黙で男らしいって言う人はいなかったよ」
「ふーん、そうなんだ」
 真奈は意外とも、当然とも、どちらでもない返事をして、また直樹の方をちらっと見る。通常の角度とはかなり違う角度で直樹は高校デビューをしたんだな、普通だけど変わった奴だ。
「好きな人とかいるのかな? 未希、ちょっと訊いてみてよ」
 えっ、と詰まり、今度は私が直樹の方を見た。
「そんなこと自分で訊いたらいいじゃん」
 ははは、と笑い飛ばした。真奈もつられて笑うと、掃除を再開した。
 私も掃除を再開し、箒で掃きながら、やっぱり、訊いてあげればよかったかなと後悔した。自分が意地悪したみたいだ。宿題を教えてもらうときみたいに気軽に話しかければよかったのに、私が訊かなかったのは、ただ、あのとき、胸のあたりがざわっとしたからだ。
 ずっと私だけが直樹を知っていたのに。どんどんみんなに知られていく。なんか嫌な感じ。自分のものじゃないけど、他人のものにしたくない。
 中間テストが終わってからずっと思っていたことだ。
「未希、ちりとり持って来て」
 直樹に呼ばれ、わかったと義務的な返事を返した。私たちは幼馴染だから、お互いを名前で呼んでいるが、他の人はだいたい名字で呼んでいる。変かもしれないが、今さら呼び方を変えるのはもっと変だ。
「この前のテスト良かったみたいだね」
「うん、よかった」
 謙遜をせず、嬉しそうに答える直樹からは嫌味を感じない。中学のときもテストが終わったあとは、よくこんな話をしていた。中学のときからテスト前には直樹に勉強を教えてもらっているのだが、私は中の下ぐらいだ。この前のテストも中の下だ。平均ちょい下。それでも、赤点がなかったから上出来だ。
「……」
「……」
 無言でゴミを集め、ゴミ箱へと捨てに行く。ちりとりをゴミ箱に当ててトントンと埃を落としながら、はぁとため息をついた。
 疲れた。変に意識をしてしまい、普段どんな感じで話していたかも忘れてしまった。喪失感を抱きながら、そっちからも少し話せよとイライラする。
 直樹はさっきの私をどう思っただろうか。話さないから機嫌が悪いとか、さっさと掃除を終わらせようとしているとか思ったかもしれないし、何とも思っていないかもしれない。

 掃除を終え、私は友達と少し話してから学校を出た。どんよりとした曇り空の下、私はまた直樹のことを考えていた。
 期末テストも付き合ってもらわないとな。さっきの授業のところがテストに出て来たら最悪だ。わからない上に、聞いていなかった。
 他人の恋愛よりも、自分のテストのことを考えていると、顔に冷たいものがあたった。上を見ると、雨がパラパラと降り始めている。私はこれくらいなら大丈夫と慌てずにゆっくり歩いて帰る。
 補修になると夏休み減っちゃうからな。次のテストは本気で頑張らないと……あ、ダメだ、走ろう。
 次第に雨が強くなってきたため、私は走った。カバンを抱え、運動不足の脚が絡まない様に息を切らせた。
「あっ」
 傘を差している直樹を見つけた。後姿だけでもわかる。この時間にこの道を通る、あの身長とあの歩き方の人間は一人しかいない。たぶん、絶対。差しているのは大きさ的に折り畳み傘だろう。
 ラッキーと思い、入れてもらおうか迷ったが、私は走って追い抜いた。

 直樹のことを意識し始めて、三週間――避けるようにほとんど何も話さなかった21日――が経った。そして、今日はテスト一週間前でもある。
 いつもより気合を入れてノートを写し、最後の授業を終えた。首を回しながら私は、高校生はいつもこんな大変なことをしているのかと感心した。
 担任の先生――優しそうな人で、たぶん夏休み前の三者面談は楽勝――が教室に戻り、テスト一週間前だから職員室には入らないようにと連絡し、さようならをした。
 テスト勉強を手伝ってもらおうと直樹の方を見ると、もうすでにクラスメイトに囲まれていた。私が誘おうと思っていたのに先を越されてしまった。
「ごめん、一人で集中したいから」
 そう言って、断る直樹を見て、私は誘わずに先に帰ることにした。中学のときからテストのときはいつも一緒に勉強してきたのだが、一人でやりたいのなら仕方がない。高校生になってから勉強も難しくなったし、他の人にかまってなんかいられないのだろう。
 直樹はもう、私みたいな普通の人が誘ってはいけない手の届かない所にいる気がする。周りにたくさん人がいて、話題に出てきて、好意を持つ女子もいて。いつから人気が出たのだ。本当に直樹と私は幼馴染なのか。
 劣等感よりも寂しさを感じながら、下駄箱の蓋を上げた。外の雨音と廊下からバタバタと迫ってくる足音が聞こえる。一本でも早い電車に乗ろうとしているせっかちな人がいるのだろう。
「未希!」
 呼ばれた方を振り向くと、薄く息を切らした直樹がいた。
「一緒にテスト勉強しようよ」
「なんで」
「なんでっていつもしてるじゃん」
 直樹はどうしてそんなことを聞くのという様子だ。
「だってさっき、一人で集中したいって」
「断るために適当に言ったんだよ」
 また当然のように答える。
「未希、僕が何のために勉強してきたと思う?」
 私は首を傾げた。
「さぁ? お医者さんとか弁護士とかになりたいの?」
 ううん、と首を横に振る。
「勉強さえできれば、未希と一緒にいられるからだよ」
「……あ、そう」
 気持ちを悟られたくないあまり、目を逸らしてそっけない返事をしてしまい、すぐに後悔した。
「未希が嫌なら僕は一人で――」
「いいよ、いつも通り図書館で」
 勉強がどうとか関係ない。これからも一緒にいたい。ただの独占欲かもしれないが、絶対に直樹を他の人に取られたくはない。当たり前のように近くで見ていてほしい。
「でも、誰かに見つかったらどうするの? 一人で集中したいとか言ってたのに」
 心配する私に直樹は悪戯っぽく笑い、そんなの、と顔を近づけ、ささやいた。
「隠れてやれば大丈夫だよ」
 クラスメイトの誰も知らない顔だ。私だけが知っている、ただ真面目なだけじゃない直樹の変わった性格。
「未希、早く帰ろうよ」
「え、一緒に?」
「どうせ傘持ってないんでしょ?」
 私は後ろを見て、強めに降る雨を確認した。走ってもびしょびしょになること間違いなしだ。
「また走って帰るの?」
「そんなわけないでしょ」
 相合傘なんかしていたら、きっと誰かに見つかるだろう。でも、気にしない。私たちは一緒にいたいのだから。
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