あの子が空を見上げる理由
第一章 一枚板の看板とおかしな隣人
 「今日から高校二年生だ。人生の進路を決める大事な一年になるんだぞ。今までみたいにのほほんとしていたらだめだ。気を引き締めるように!」
 つばを飛ばしながら、担任教師渡部が息巻く。ワイシャツのボタン、腹部の辺りに横向きに引きつれるようなしわが入っている。今年一年この腹を毎日見ないといけないのか。そう思い、美葉(みよ )はため息をついた。

 担任の言葉が終わるか終わらないかのうちに、「きりーつ!」と健太(けんた )が声を上げた。日直ではないはずだったが、全員がだらだらと立ち上がり、「礼!」というかけ声とともに頭を下げる。担任は不服そうに口をへの字に曲げたが、黙って荷物をまとめて教室を後にした。

 「健太、ナイス強制終了!」
 (れん )が健太の首に腕を回す。ツーブロックの髪の頭頂部が不自然に盛り上がっている。健太はエラ張り顔ににんまりと笑みを浮かべた。ワックスで強制的に外ハネの束を作っている。ハリネズミみたいだと美葉は思う。
 「うっせーんだわ、わたべーの説教!つば飛ばしすぎだっつーの!」
 そう言って、ゲラゲラと豪快に笑う。健太も錬も、髪の色が奇妙に黒い。昨日までブリーチで金色に染めていた髪を、強引に黒く染め治したためだ。強制的に染めた黒は数日もすると色あせし、明るい茶色になる。そして必ず、風紀担当の教師に説教をされる。中学生の頃から、長い休みが明けるたびに繰り返されてきた光景だ。

 進歩しないな。
 美葉は二人にちらりと冷めた目を向け、鞄を持って立ち上がる。

 急いで帰らなければ。今日は始業式だけだから、手際よくノルマをこなせばその分勉強がはかどるはずだ。

 この一年がどれだけ重要なのか、この高校で理解しているのは自分だけなのだと思う。二年生の間にどれだけ偏差値を上げられるかで、手が届く大学の名が大きく変わる。

 『美葉は頭がいいのね。お母さんの自慢だわ。できたら大学に通わせてあげたいけど、家はお金がないから公立の大学しか行かせてあげられないの。頑張って勉強してね。』
 満点の答案を見せるたび、母が満面の笑顔を浮かべ、頭をなでてくれた。

 一昨年の選択が、母との約束を難しくさせることは分かっていた。でも、そうせざるを得なかった。だからといって、母の期待を裏切るのも嫌だ。だから、すべてを手際よくこなしていくしかない。

 教室のドアに向かって動かそうとした足を、のんびりとした声が引き留めた。
 「陽汰(ひなた)だけクラス分かれちゃったねー。」
 ぽっちゃりとした白い顔に人なつっこい笑顔を浮かべ、肩まで伸ばした天然のウェーブの髪を揺らして佳音( かのん)が美葉の隣に立つ。そうだね、と美葉は気持ちが乗らない返事を返した。
 「まじあいつついてねー。2クラスしかねぇのになー。」
 健太と錬が肩を組みながら歩み寄ってくる。
 「友達出来るといいけどな。」
 錬が、ふと真面目な顔をしていった。佳音は、錬と目を合わせて小さく頷く。
 「あ、噂すれば陽汰だ。おーい!」
 佳音が廊下側の窓に向かって手を上げると、前髪で両目を隠した小柄な少年が立ち止まる。

 この高校には普通科が二クラスしかない。普通科のほかには花卉栽培が盛んな町らしく園芸科が一クラスある。一学年三クラスしかない非常にコンパクトな高校なのだ。

 ここは札幌の隣町。北海道の一大都市札幌に隣接しているにもかかわらず田園風景と山林に囲まれた非常にのどかな町だ。そんなのどかな町の、進学校とはほど遠い町内唯一の高校に、美葉達は通っている。

 陽汰は、面倒くさそうに四人のもとへ歩いてくる。なんで声をかけるんだとでもいわんばかりの雰囲気を漂わせている。そんな陽汰の首を健太が無理矢理抱え込む。
 「陽汰ー、寂しかっただろー?。」
 「別に。」
 ぽつりと陽汰がつぶやく。

健太は背が高く、幼い頃から家業である農業の手伝いをしているだけあって体格がいい。錬は痩せ型でひょろりとしているが健太と同じくらい背丈がある。陽太の背丈は美葉や佳音よりも頭一つ低い。その三人が肩を組んでいるのはとてもアンバランスに見える。

 「さー、これから家来るベ?練習練習!今年は新人発掘オーディション系、総なめにすんぞー!!」
 健太が二人を引きずるように歩き出す。錬が「うぇーい!」と軽く自由な方の手を挙げた。

 三人はバンドでプロのミュージシャンを目指している。まだ無邪気に夢を追うのかと、よたよたと左右に揺れながら歩く後ろ姿を見送りながら美葉は思った。
 「私も帰るね。」
 軽く息をついて、佳音に告げると美葉は歩き出した。

 自転車置き場に向かう足が自然と早足になる。何人もの同級生の間をすり抜け、自転車置き場に着くと先に歩き出していたはずの健太たち三人と一緒になった。
 「美葉、足はやっ!」
 健太が茶化すようにいう。美葉は健太を一瞥したが、何も答えず自転車をこぎ出す。
 「美葉は忙しいからなー。」
 錬のいたわるようなつぶやきが耳に届いたが、風といっしょに受け流した。

 自転車をこぎながら、帰宅後の段取りを反芻する。
 洗濯物を取り込んで畳み、店の商品のチェックをして、必要なものを発注する。掃除をして陳列を直す。表の自動販売機の在庫確認と補充もしなくては。閉店後にレジを確認し、帳簿をつけると店の仕事は終了だ。店のことが一通り終わったら食事の準備。必要なものがあれば買い物に行かなければ。食事を済ませ、後片付けをして、風呂に入り、風呂の掃除をする。それらを段取りよくこなせば、今日はいつもより多く参考書を解くことが出来るだろう。
 自然と、ペダルをこぐ足に力が入る。

 四月の風はまだ冷たい。

 国道275号線を渡ると、突然田園風景に変わる。遮るものがないから、風は一層強くなる。麦畑の雪は融雪剤のおかげで解け、茶色い土が除いているが、道路の両脇にはまだ雪の山が残り、排気ガスで黒く汚れている。雪解けの田んぼには白鳥が群れをつくっている。くちばしを泥の中に突っ込み、しきりに何かを食べている。シベリアに渡る白鳥たちが、雪解けの頃こうやって羽を休めにやってくるのだ。白鳥の姿を見れば、春がやってきたのだと、辛い冬がやっと終わったのだとほっと息をつく。

 後ろから、健太たちの賑やかな声が聞こえる。どうやら、健太と錬が追いかけっこをしているようだ。帰り道が一緒だから、結局いつも一緒に帰ることになる。美葉は肩をすくめた。

 雪解け水がいくつも水たまりを作っている。水たまりは青く澄んだ空を映し出している。自転車の車輪に引き裂かれても、やがて何事もなかったように水面を平らに戻し、何食わぬ顔でまた空を映し出す。

 緩やかなカーブをいくつか超えると、信号のない交差点が見えてくる。平屋建ての校舎の赤い屋根が目に飛び込んでくる。美葉たちの母校だ。
 小学校には、人の気配がない。美葉達5人が卒業したと同時に、廃校になったのだ。

 小学校と道を挟み、寄り添うように四角い二階建ての建物が建っている。経年劣化でやや汚れた白い壁にオレンジ色のペンキで「谷口商店」と書かれている。商店の横にはツタが張り付いた古いサイロが建っている。そのサイロの横に美葉は自転車を止めた。
 「また明日!」
 口々にいい、健太と錬は小学校と商店の間の道を右に曲がり、佳音は左に曲がっていく。少し遅れて陽汰が小さく片手を上げて右に曲がって行った。

 四人と分かれると、途端に耳が静寂を感じる。どこかで白鳥の鳴く声がする。見かけによらず、鳴き声は美しくない。

 自転車のカゴから黒いリュックサックを取り、サイロを回って店の裏に向かう。洗濯物が干してあるのが見える。一瞬、雨にぬれている洗濯物のイメージが浮かぶ。振り払うように、片端から洗濯物を取り込んで抱え、商店の裏から中に入る。商店の裏は美葉の家の玄関となっているのだ。靴を脱いで中に入る。鍋が煮立ち、鍋からの蒸気が部屋を満たしているような気がする。頭を大きく振って幻想を打ち消し、絨毯の上に広げた洗濯物を畳んでいく。
 衣類をタンスにしまい、冷蔵庫の中身をチェックすると、店に向かう。居住スペースと店を仕切っている磨りガラスの戸を開ける。

 谷口商店は、この地区の唯一の商店として、食料品、日用品、文房具、衣料品などありとあらゆるものを置いている。簡易郵便局としての機能も有している。今は老人ホームで暮らす祖父母が切り盛りしていた時代は、日々の必需品を届ける重要な役割を担っていた。しかし、今では自転車でもいける距離にスーパーが出来、存在価値は薄れてしまった。

 「よー、美葉ちゃん!」
 レジのカウンターに肘をかけたまま、中年の男性が片手を挙げる。土汚れのついたカーキ色の作業着に身を包み、ニット帽をかぶっている。ニッと大きな口で笑うその顔は息子の健太とよく似ていた。
 レジのカウンターの奥に、力ない顔の父和夫(かずお)が座っている。その覇気の無い顔を見るたびにいらだちが募る。

 「美葉ちゃん、学校、今日はもう終わりかい?」
 「今日は、始業式だけだから。健太たちも、もう家に着いてるんじゃない?」
 美葉は菓子パンを並べ直しながら答える。健太の父伸也(しんや)の舌打ちが聞こえた。
 「っちゅうことは、またあのやかましいの始めるんだな。」
 伸也は、息子たちのバンド練習を快く思っていない。やめさせようとは思っていないが、彼らの音楽を「いいもの」とは認めていないようだ。この父子は顔だけではなく性格もよく似ていて、瞬間湯沸かし器のようにすぐかっとなる。おまけに喧嘩を始めると声が大きい。隣とはいえ歩いて5分はかかるのでさすがに怒鳴り声が聞こえることは滅多と無いが、反応して遠吠えをする番犬の鳴き声が聞こえてくる。

 菓子パンを並び終え、顔を上げると、伸也が手にしている回覧板の手提げ袋が目に入った。
 「回覧板、持って行くね。」
 美葉は、手提げ袋を指さした。誰かの手作りらしい、戦隊もののキャラクター柄の手提げ袋には、今年東京に就職した子の名前がマジックで書いてある。
 「今月から、回覧板を回す順番が変わるんだ。」
 手提げ袋を渡しながら、伸也が言う。
 「へぇ、めずらしい。」
 手提げ袋の中から、広報誌を取り出し、バインダーの中身をチェックしながら美葉が答える。転入出のほとんど無い地域だけに、回覧板を回す順番は物心ついたときから変わっていないと思う。

 「小学校の体育館に、男が引っ越してきたんだと。」
 「体育館に?」
 これにはさすがに、和夫も体を起こして関心を示した。
 「体育館に住むなんてできるの?」
 考えただけでも、寒くて凍えそうだと美葉は思った。
 「体育館の二階に宿直室があるだろ。そこに寝泊まりして、体育館で何か起業しようとしているらしい。先月からいるはずだけど、気がつかんかったかい?」

 そういえば、と美葉は思った。美葉の部屋は二階の、体育館を見下ろす場所にある。三月末、明かりがついていることが何度かあった。点検か何かだと思っていたが。
 「三月の初めにすごく吹雪いた日があったしょ。健太を迎えに車を出したらよ、猛吹雪の中人が歩いたんだわ。轢かれて死んじまうぞって声かけて、とりあえず乗っけてやったわけ。行き先を聞いたら、小学校っていうじゃねぇか。何しに行くのよ、って聞いたら、これから住むんだとぬかしやがる。しかも、なぜか後生大事に椅子を抱えてたんだよ。」
 ……椅子?」
 「そう、それも、立派な…。ダイニングチェアーとかいうやつかい?飯食う時に座る椅子。あれは安もんじゃねぇな。いい木を使った、重たい椅子だった。」
 「そんな椅子を持って、吹雪の中歩いてたの?」
 行動の意図がわからず、美葉の背筋はぞっと凍り付く。得体の知れない人物が、知らない間にすぐそばに住んでいたなんて。

 「だから、今月から回覧板は小学校の体育館に持って行くこと。」
 「え……。」
 美葉は手提げ袋を体から離して顔をしかめる。まるですでに手提げ袋の中におぞましいものがはいているようだ。ちらりと和夫の顔を見る。和夫は話を聞いていなかったようだ。相変わらず、上の空である。
 娘にそんな得体の知れない人のところへ行けというかな。普通。
 そう考えてから、ため息をつく。
 期待するのはやめたのだ。時間の無駄だ。さっさと終わらせて、やるべきことをこなしていかなければ。
 「なんなら健太に行かすかい?未来の旦那にさ。」
 健太の父の言葉に肩をすくめ、歩き出す。健太の嫁に、というのが伸也の口癖なのだ。
 「どこか引っかけられるとこにかけておくから大丈夫。」
 そう言い残し、店のドアを開けた。
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