エリート心臓外科医の囲われ花嫁~今宵も独占愛で乱される~
 お客としては素人だと彼は言ったが、やってみればよきアドバイザーだった。
 一回目は声が小さいと指摘されて、二回目はもっとゆっくり読めと注意された。

「背筋を伸ばせばいいんじゃないか。絵本はこうやって持って」

 後ろに回り込んで、優しく千春の姿勢を整える。

「こうすれば、少なくとも声は出るはずだ。この位置をキープして……」

 耳元から聞こえる低い声、スパイシーな彼の香りに包み込まれるような心地がして、千春の頬が熱くなる。
 いや今彼は真面目にアドバイスをしてくれているのだ、そんなことを考えている場合じゃないと千春は自分を叱咤するが、頬の火照りは治らなかった。

「わかったか?」

 清司郎はそう言って、千春を上から覗き込む。すぐ近くにある眼差しに、千春は思わず息を呑んだ。
 そんな千春に、清司郎も一瞬動きを止めて瞬きを二回三回。軽く咳払いをしてスッと目を逸らした。

「……このまま、何度も練習すれば絶対に上手になるはずだ。でも今日はもう遅いから、このくらいにしておけ。また聞いてやるから」

 そう言って立ちあがろうとする彼を、千春はほとんど無意識のうちに引き止めた。

「待って、清君」

 腕を取って、そのまま彼の肩に顔を埋める。スパイシーな香りが濃くなった。

「千春……?」

 本当は今夜、千春にはもうひとつ彼に頼みたいことがある。
 ありえない、無茶苦茶なお願いだ。
 突然の千春の行動に清司郎が戸惑っているのが空気を通して伝わってきた。
 額に感じるシャツ越しの彼の温もりに高鳴る胸の鼓動を感じながら、千春はしばらく逡巡する。
 きっと、こんなお願いをしたら呆れられる。
 でも……。
 唇を噛み目を閉じる。そして迷いを振り切るように小さくかぶりを振ってから、その言葉を口にした。

「キスを……してほしいの」

 本当に小さな声しか出なかったが、それで彼には伝わったようだ。
「千春……?」

 困惑したような彼の声に、腕に回した手が震えた。
 あの夜のキスは、彼にとっては取るに足らない出来事だった。経験豊富な彼の中では、もうなかったことになっているのだろう。
 それは仕方がないけれど、それでも千春にとってははじめてのキスだった。
 初恋の人との一生に一度の出来事を、なかったことにはしたくない。
 彼に、覚えていてほしかった。

「千春、……どうしたんだ?」
< 87 / 193 >

この作品をシェア

pagetop