エリート脳外科医は契約妻を甘く溶かしてじっくり攻める
「あの?」
「僕は東郷って言います。天花寺と同じ外科医です」
「文……尚さんの?」

 危うく『文くん』って愛称で話すところだった。

 内心あたふたして返すと、彼はニッと笑う。

「天花寺の奥さん……なんですよね? いや、今朝から外科病棟はその話で持ち切りで……あっ、だけど搬送理由とか検査内容とか、そういうのは誰も知らないし、僕も知らないので」
「はあ」
「あ! 僕はその、同僚の奥さんがいるって聞いたから挨拶できたらと思って……。いや、すみません。実は半分興味本位で会いに来ました」

 初めは圧倒されたものの、なんだか徐々におかしくなってきて、ついクスッと笑いを零した。

「正直な方ですね。私、澪と言います。こちらこそ、いつも彼がお世話になってます」

 検査で疲れたのもひととき忘れ、東郷先生にお辞儀をした。

「いーえ。どちらかというと、僕の方がお世話になってるので。あいつは本当、元々知識も技術もあるのに、クソ真面目で努力家だから」
「そうなんですね」

 文くんを普段から間近で見ている人から聞く言葉はすごく興味深く、また、内容が褒められているものでうれしくなった。

 文くんが真面目で努力家なのは知っている。
 そういう部分を見て、知ってくれていて、笑ってサラッと教えてくれる彼は、第一印象は軽薄そうでもきっと根は優しい人。

 職場での文くんをほんの少し感じられて頬を緩ませていたら、東郷先生が言う。

「ええ。なもんで、天花寺の病院は向こう何十年は安泰だなあと思ってるんですよ」
「え……」
「まあ、大病院の次期院長である天花寺の妻って大変だと思うけど頑張ってください。って、初対面の人間が余計なお世話を言ったかな。すみません」

 東郷先生の何気ない激励に、心が凍てつく。

 そうだった。すっかり平和ボケしていて忘れていた。

 文くんは、将来が決まっている。
 彼もそれを受け入れていると感じるし、ほぼ間違いなく匠さんの後を継ぐ。

 どうしてそんな大切な現実を忘れて過ごしていたんだろう。

「澪さん? 体調悪いですか? すみません、長話しすぎました」

 東郷先生が心配そうに私の顔を覗き込む。
 私はハッとして、急いでこの場を取り繕う。

「いいえ。大丈夫です。どうもありがとうございます」

 どうにか笑顔でやり過ごし、重い足取りでロビーへ向かった。
< 116 / 138 >

この作品をシェア

pagetop