エリート脳外科医は契約妻を甘く溶かしてじっくり攻める
 いつもは美味しく食べるケーキとコーヒーさえも、味がわからないまま時間を過ごして帰路につく。
 車の中でぽつりと零した。

「ねえ。やっぱりさっきの話、急すぎない? 文くんと……ほら。一緒に住むとかどうとかって。普通はもっと慎重になるよね?」

 運転中の母の顔を窺う。母は特に表情を崩さずに答えた。

「そうよね。急な話よね。でも相手が文くんだから、いいんじゃないかなって自然と思えるのよねえ」

 いいんじゃないかって……。それはあくまでお母さんの考えであって、文くんの気持ちを汲んでないよ。

 この感情を頭の中でまとめて伝えようとしていたら、信号で車を止めた母に一瞥された。
 その瞳は優しい。母の柔らかな表情を目の当たりにして、考えていた言葉が消えた。

「それに、澪って昔から文くんのこと好きだったでしょ」
「え……」

 図星を突かれ、咄嗟にはなにも返せない。

 幼心ながらに、明るくどこか奔放な気質の母は私が文くんが好きだなんて知れば茶化してくる気がして、心の中に秘めていた。

 幼少期なら、そう思っていたところで表に感情が漏れ出ていたかもって思う。だけど、小学校高学年くらいにもなればうまく隠していたはずなのに。

 ばつが悪い顔をしていると、母は笑った。

「わかるわよ~。結構長いこと想ってるなあくらいに思ってたけど、まさか恋愛に発展するとはね。想像できなかったわ~。というか、文くんがOKしてくれたのが意外よね」
「そんなの……言われなくても私だってそう感じてる」

 膝の上の手をぎゅっと握り締める。
 本当の恋人ではなくても、偽装の恋人になってくれたこと自体不思議で仕方ない。

 母は前方に意識を戻し、アクセルを踏んだ。

「慎重になるのも大事だけど、結婚は勢いも必要よ? いいじゃない。長年慕ってた人と一緒になれるチャンスがあるなんて最高よ?」

 母の横顔を見つめる。

 確かに一理あるかもしれない。母が言うチャンスの意味とは少し解釈は違うけど、私が文くんのそばにいられるのはこれが最初で最後だ。

 文くんを巻き込んで申し訳ない思いはある。けれど私は、同じくらい彼とこれまで以上の繋がりを持てた現状に喜んでる。
 しかし、うちに挨拶に来てくれた日から一週間。彼から連絡があったのはあの日だけだった。

 その距離感が真実で、正しい関係なのだと突きつけられているようで、じくじくと胸が痛んでいた。

 私たちの関係は期間限定だとあらかじめ決まっている。
 だったら、少しだけ……。文くんの時間を、彼自身を欲しがってもいい……?

 ほんのひとときの思い出として。
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