エリート脳外科医は契約妻を甘く溶かしてじっくり攻める
 数時間後。
 太陽も沈みかけている中、私は大きなリュックを背負って黙々と歩いていた。

 あの後はダンボールを宅配業者に集荷に来てもらい、バタバタとマンションを飛び出した。
 行き先は実家と決まっているのに、まっすぐ足が向かない。

 代わりに目指すのは、先週末に文くんと訪れた庭園。
 あそこの雰囲気や景色がすごく気に入っていた。
 でも、それだけではなくて、最後に思い出の場所へ立ち寄ってから帰りたくなった。

 地下鉄に乗ってもよかったけれど、あの日ふたりで歩いた道を辿りたくて、一歩ずつ心に刻むようにして歩いていく。
 ようやく庭園の入り口まで到着した私は、看板を見て失笑した。

「あ……四時半まで……」

 入園時間を確認し、腕時計に目を落とすとたった今四時半を回った。

 とぼとぼとした足取りで、庭園の外壁沿いを進んで行く。
 視界が暗くなってきたそのうち、併設された公園を見つけてベンチに腰を下ろした。

 あっという間に日が暮れて、数日前新月を迎えたばかりの今夜も月明かりはあまりのぞめない。公園の外灯だけが頼りだった。

 もう早く帰らなきゃと思うのとは裏腹に、腰は重くてその場から動きたくなかった。

 その場でどのくらい滞在していたか、わからない。
 ただ時間を忘れて、これまでのことを反芻していた。

 コートのポケットから、文くんの部屋のキーを取り出した。

 ポストに入れようか迷った末に、紛失や盗難の可能性を考えて持って来てしまった。真美ちゃんにでも頼めば文くんに届けてもらえるよね。

 チャリ……と音を鳴らし、手の中で感触を確かめる。その間、引き出しにしまってあった婚姻届の行方も回想した。

 あの婚姻届はデスクの上にメモを添えて置いてきた。個人情報だし、簡単には捨てられなくて最後まで文くん頼りで託してきてしまった。

『何歳でも結婚するってなって心が浮き立つの、いいじゃないですか』

 ふいに自分が結城さんに掛けた言葉が頭に浮かんだ。

 本来結婚ってそういうものだと思う。人それぞれ事情はあるにせよ、私たちのはやっぱり違う。

 夜空を仰いで唇を引き結ぶ。

 一緒に選んだパズルみたいな彩られた雲でも見られたら元気になれたかもしれない。
 あのパズルをふたりで一緒にピースをひとつもはめることなく終わったのが、やけに私たちの関係にリンクしている気がして切なくなっていた。

 私はひとりで寂しく苦笑を零し、すっと立ち上がってキーをポケットにしまう。

 公園を出ようと歩き出すや否や、駆け寄ってくる足音がして一瞬にして強張った。
 恐怖心に襲われて顔を上げられずにいる間にも、その相手はこちらに近寄ってきている気がしてならない。
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