彼と彼女の好きなもの
「ごめんなさいね」
後方から声をかけられる。カップの取手に指が当たり、カチャンと音を立ててしまう。
「ああ、お母さん大丈夫だった?」
彼女は僕に微笑みながら席に戻る。
「ええ。大した事じゃなかったわ。母ったら探し物してたみたいで……。あら、アイス溶けちゃってる」
そう皿を見ながら言うと、半分溶けたバニラアイスのクリーム色の海に浸ったアップルパイを、器用に綺麗に口にする。
ふと、先程に比べて陽が傾いている気がした。腕時計に目をやると、まだ昼間といって良い時間ではあったが、秋は早く夕方を連れてくる。
「この後に観る映画だけど、前に話した恋愛ものでよかった?」
「ええ、もちろん。あなたの好きなものでいいのだけれど……。もしかして、時間が押してしまっているかしら?」
「そうだね、間に合わなかったらホラーの方に変えようか」
「え、それは」
彼女が視線を皿から僕に移す。可愛らしい丸っこい目がぱちぱち瞬きした。
僕はつい、笑いが溢れる。
「嘘だよ。ホラーなんて見ないさ。時間もまだ大丈夫。ゆっくり食べて」
彼女は、もうっ、と愛らしく不満を呟きながら、やはり笑顔を浮かべて紅茶を口にした。
そうして最後のパイに取り組む彼女を見ながら、僕は残った紅茶を飲もうとカップを手にする、が、口元まで持っていってそのまま飲まずにソーサーに戻した。
飲まれないままの透明なオレンジ色の液体がゆらゆら揺れる。
そうだな、夜、家に帰ったらコーヒーを入れよう。いつもと同じく自分一人のために。
僕は彼女の後方の大きな窓に目をやった。
窓の向こうは変わらず、青。
了