まき
変化
「真希ちゃん、本当にごめん」
次の日の朝、良の言った通り、家の前には昴がいた。
昴は私の顔を見るなり頭を下げて何度も謝ってきた。
今日から護衛をするらしい男。
はっきり言って、私はもう誰とも会話をしたくなかった。
だけどもそういう訳にはいかなくて、「大丈夫です」と繰り返し返事をした。
「無事で良かった、本当にごめん、もうこんな事は絶対に無いから」
無事?
泉に拉致られて、怖い思いをさせられて、
気持ち悪くてまだ感覚が体に残ってるのに。
それが無事だと言えるのだろうか。
晃貴がいなかったら……。
「もう大丈夫ですから、聖くんにもそう伝えてください」
昴は何か言いたそうな顔をしたけれど、私がもう思い出したくも無かったから、学校へと足を進めた。
良は今、何をしているんだろう。
あれから2週間が経つ頃には、晃貴が言った前の生活にほぼ戻ってきていた。
朝と放課後は昴が送り迎えをしてくれる。
学校では勉強をし、家でも頭が良くなるようにと勉強をしていた。勉強するのは前の生活と一緒。
もう呼び出しがない放課後。
「真希、顔色悪くない?大丈夫?」
お風呂上がりに塾帰りであろう玄関にいる姉ちゃんと鉢合わせし、私は「大丈夫だよ」とお姉ちゃんから逃げるように部屋へこもった。
────誰とも会話をしたくなかった。
“ほぼ”、前の生活に戻っている。
10月の上旬に、文化祭がある。
「昴さん」
学校に到着する頃、
毎日送り迎えをしてくれている昴に、声をかけた。私から声をかけるのは珍しいことで。
最近では「おはようございます」とか「ありがとうございました」とかの言葉にか口にしなかったから。
「え、なに?どうした?」
案の定、昴も私が話しかけてくるとは思わなかったのか、少し驚いた表情をしながら顔をこちらに向けた。
「今日のお迎えはいいです」
「いいって?」
「少し用事があるので、お迎えはいいです」
「用事って?」
どうして用事の内容を言わなくちゃいけないんだろう。
もう口を開きたくないのに。
「もうすぐ文化祭なので…」
「文化祭?」
「文化祭の買い出しをしなくちゃいけなくて…」
「買い出し?それぐらいならついて行くけど」
「学校の友達と一緒に行くので、その…」
「買い出し終わるの何時ぐらい?ってか帰る時間教えてくれたらそれぐらいに学校来るけど」
「買い出しが終わればそのまま学校に戻らないで直接帰るので、迎えはいいです。」
「いや、迎えにはくるから。どこで買い出し?繁華街の方?友達と別れてから連絡くれたら嬉しいんだけど」
「………」
前の生活に戻ったはずなのに、
私はまだ1人で出歩けない。
どうしてこうなってしまったんだろう。
文化祭の買い出しは昴の予想通り繁華街の方だった。クラスの子がここにしようと言うから、私は素直に従った。
学校の中でも誰とも話したくなくて、否定しなかった私と、男女含め4人のグループで繁華街へ買出し。
100円シリーズが並ぶ雑貨を選ぶ友達をしばらく見ていたけれど、トイレに行きたくなった私は友達に「ちょっとトイレに行ってくるね」とその場から離れた。
その店にはトイレは無く、駅の方に歩かないといけない。ボーッとしながらトイレに向かって歩いている時…
「おいっ、真希!」
突然、背後から声をかけられ
肩をおもいっきり叩かれ、
私は驚いて小さな悲鳴をあげた。
「あ、悪い」
心臓がバクバクとする。
ビクビクとする体をおさえながら、後ろを振り向くと、そこには清光の制服を着た…
「……こうじ?」
「お前なあ、また呼び捨てかよ」
康二は呆れたように笑った。
「さっきから呼んでんのに気づかねぇし」
呼んでた?
あたしを?
気づかなかった。
それよりもどうして康二がここに?
そう思って思い出す、ここが晃貴がいる溜まり場からそう遠くない事を。
康二と初めて会って溜まり場へ連れていかれたのも、ここの近くだった事を。
「ごめん…、考え事してて」
「まあ、いいけど、ってか久しぶりだな。最近どうなんだ?つーかここで何してんの」
久しぶり?
康二と最後に会ったのはいつだったっけ?
最近どうとは?
「文化祭の買い出し…」
「文化祭?は?1人で?」
「ううん、トイレに行こうと思って…」
「つーか、もう体大丈夫なのか?」
体?
康二の言っている意味が分からなくて、私は小さく「え?」と声を漏らした。すると康二は不思議そうな顔をして。
「あん時、薬入ってただろ?」
薬…。
「も、平気…大丈夫…」
康二が言っているのは泉に飲まされた薬のことだとすぐに分かった。だけどどうして康二が知ってるんだろう?記憶が無いから分からない。
あの場に康二もいたのだろうか?
「お前、晃貴さんに感謝しとけよ?」
「……」
「晃貴さんがいなけりゃお前マジでやられてたからな」
「……」
「徹さんもすげぇキレてたし」
「……」
徹?
あの場に徹もいたの?
黙ったまま康二の話を聞いていると、「つーか、お前、晃貴さんとどうなっての?」と、よく分からないことを言ってくる。
もう二度と関わらない晃貴と、どうなってるかなんて。
「…どうって?」
「どうって、は?付き合ってねぇの?」
「…誰が?」
「誰がって、お前と晃貴さんだよ。お前あれから溜まり場来ねぇけど、付き合ってんじゃねぇの?」
「……」
私はそんなはず無いと、首をふった。
晃貴と付き合ってるなんてこと、あるはずないのだから。どうして康二がそう思ってるのかも分からない。
すると康二は意味の分からない顔をして、
「んじゃ、なんでお前を泉から助けたんだ?」
そう呟いた。
「あの時の晃貴さん凄かったんだぞ。いつもキレたらすげぇ怖いけど、あん時は特に…思い出しただけでもチビりそうなぐらい。お前の姿見つけた途端顔色変えて───、俺、泉のやつ死んだなって思ったぐらいだし」
「……」
「まあ実際に死んだな、あれは。股間とか蹴りまくりで、歯も全部無くなってたし、指も全部…小指だけ無事みたいな。他のやつらもフルボッコ」
「……」
「お前のこと、ずっと名前呼んで、あんな晃貴さん初めて見た」
「……」
「だから、俺、付き合ってんだと思ったんだけど」
「……」
「違うのか?」
私は何も覚えてない。
泉に薬を飲まされて、気がついたら晃貴の家にいたから。
康二の言っている事は、嘘か本当か────・・・。
「そんなわけ無いでしょ、私と晃貴だよ、ありえないよ」
「けど晃貴さんを呼び捨てにする女、早々いねぇし」
「……」
「お前に手ぇ出すなって、あの後俺らにも言ってきたから。勘違いしてたわ。そうか、付き合ってねぇのか」
俺らにも?
晃貴は康二たちにもいったの?
ああ、そうか。
前の生活に戻すために…。
もう康二にも関わらないようにするために。
「付き合ってないよ、ごめん、もう行かなくちゃ…」
「あ?あー、買い出しだっけ?」
「…うん」
「つーか、お前さ?そんなに文化祭の用事って忙しいのか?」
「え?」
「目に隈出来てるぞ、ちゃんと寝ろよ」
目に隈?
隈とは────・・・。
「またな、真希」
もう会うことはないであろう康二は、手を軽くあげながら、その場から離れていった。
────ねぇ、晃貴、
前の生活って、なに?
まるで心がポッカリ穴が開いてしまったような感覚だった。
自分の心の中にある“ありえない感情”をおさえながら、これは勘違いだと、自分に言い聞かせて時間がある時はずっと勉強していた。
お姉ちゃんにも「勉強しすぎじゃない?寝てるの?」と心配されたりもして。
「市川さんってさ、彼氏いるの?」
買い出しへ行った日の2日後、文化祭の準備をしている最中、買い出しで一緒だった男の子が話しかけてきた。
偶然にもこの時は二人っきりで作業中だったから、暇つぶし的な感じで彼は話しかけてきたのだろう。
「いないけど…」
「そうなの?でも最近すごいイケメンの人と来てない?あれって彼氏じゃないの?」
それは昴のことを言っていた。
それもそうか、
私が良に護衛されている時、清光では良と私が付き合っているという噂が流れたぐらいだ。
だから護衛が変わった昴と付き合っていると言われてもおかしくはなくて。
「…ううん、付き合ってないよ」
「ふーん、そっか」
彼は少しだけ笑った。
「じゃあさ、文化祭一緒に俺と回らない?」
一緒に?
作業をする手を止めて、彼の方を見つめた。
「え?」
「俺、市川さんのこといいなって思ってて…」
「……」
「実は今も、二人っきりになるために他の奴らにも協力してもらってて」
顔を赤くしながら、彼は続ける。
「もう回る相手がいるなら、無理でいいんだけど…」
自分が告白されているってことに、しばらく経ってから気づいた。
少しあどけなさが残り、頭も良くて、友達もいる普通の男の子。もし、私が付き合うならこういう人なんだろうと思った。
こっち側の男の子。
晃貴が言った、「こっち側」じゃない男の子。
普通の男の子……。
「市川さん?」
ボーッとしていると、首を傾けてこちらを向いている彼にはっとした。
「…ちょっと、考えておくね」
「うん」
彼は作業に戻り、私も手を動かしながら、彼の事を考えていた。
ありえない感情…。
このありえない感情を解決したくて、私は図書室に通った。心理学の本を呼んだり、家のネットでも調べたりした。
だけどもピンくるものがなかった。
解決方法が無い。
どうすれば考えなくてすむのかが分からない。
誰に相談すればいいか分からなくて。
文化祭前日、家の中で勉強をしている私の携帯に1本の電話がかかってきた。それはあの日以来の電話だった。
『俺だけど』
電話越しから聞こえる低い声。
「良くん…」
『最近どうだ?』
どうとは?
「ん…、大丈夫だよ」
『そうか』
良の声を聞くのは久しぶりだった。
唯一、私とお姉ちゃんの関係を知っている存在。
晃貴と私がどんな関係だったか知っている存在。
『ならいい、何かあったらすぐに言ってこい』
「うん」
前の生活には、良は存在していなかった。
だけど今は良には嘘をつきたくないほど、良のことは信頼している。“完全に”前の生活に戻ってしまったら、もう良とも関わりを持つことが無くなるのだろうか。
…この感情も、無くなるのだろうか。
「ねぇ、良くん」
『あ?なに?』
「良くんって、どうしてお姉ちゃんを好きになったの?」
『はあ?なんだよいきなり』
良の声が、少し不機嫌に変わった。
「どうしてかなって、思っただけ…」
女嫌いの良が、どうしてお姉ちゃんを好きになったのか。
『……』
「嫌ならいいの、ごめん」
『…別に、大した事じゃねぇ』
「え?」
『マフラー貸してくれたんだよ、唯が』
「マフラー?」
『それだけ』
「……」
『それだけなんだよ、マジで。気ぃついたら好きになってた。ありえねぇだろ』
「そんなことないよ…」
『誰にも言うなよ』
言わないけど…。
私にだけ教えてくれた良が嬉しくて。
「もうひとつ、聞きたいことがあって」
『なんだよ?』
「お姉ちゃんを忘れないとって、思った事ある?」
『はあ?』
「ううん、ごめん…、やっぱりいい。ごめん」
私は何を聞いてるんだろう。
こんな事を聞いて良がどう思うか。
嫌に決まっている。
お姉ちゃんが聖くんと付き合っているから、どうしても諦めなきゃいけないのに…。
『あるよ』
良の声は落ち着いていた。
正直、こんな事を聞いて怒ってくるかとおもったから。冷静な良は、「そん時は片っ端から喧嘩してたな」と、小さく笑って。
「喧嘩?」
『そう、考えねぇために。ひたすら知らねぇやつにふっかけてた。でも結局は無理だった。諦めらんねぇよ』
考えないために。
私は目の前にある教科書を見つめた。
私は考えないために勉強をしている。
「どうすれば、忘れることができるのかな」
『さあな』
「忘れる方法って、あるのかな」
『なあ、真希』
「なに?」
『それって俺の事、聞いてるんだよな?』
「え?」
『お前の事じゃねぇよな?』
「……」
無意識に私はスマホを握りしめていた。
『…やめとけよ』
「良くん」
『あいつはやめとけ』
ねぇ、良、あいつって誰のこと?
『真希』
「じゃあどうしたらいいの?」
『お前────・・・』
「頭から離れないの…、忘れようとしても忘れられない。勉強しても意味はないっ、どうすればいいか分からない…!!」
『おい・・・』
「やめとけって何!? 私があの人のこと好きだって言いたいの!? 好きじゃないよっ、だってありえない、私、あの人にやられたんだよ!? 何回も…、それなのに…」
『……』
「ありえない…、好きになるはずなんかない」
『……』
「教えてよ、どうすればいいのっ。前の生活に戻れっていうなら、この気持ちの消し方も教えてよ!!」
『……』
「教えてよ…良くん…」
『…そんなの』
「……」
『俺が知りてぇよ』
聖くんの彼女であるお姉ちゃんを好きな良。
『時間が経つの待つしかねぇんじゃねぇか』
低くて冷静な声なのに、私にはそれが苦しそうに言ってるように聞こえて。
「時間が解決するの?」
『わかんね、でもそう思うしかねぇだろ』
「……」
『お前の気持ちは分かる、そういう気持ちがおさえられねぇのは…。俺もそうだからな』
「うん…」
『好きになるなって言われても、もう遅せぇよな』
「…ん…」
『まさかとは思ってたんだ』
「え?」
まさかとは?
『お前があいつを好きになるとかありえねぇって』
それは、予想していたような口ぶりだった。
まるでこうなる事を知っていたかのような。
『俺があいつの家に行った時、お前、唯の名前呼んでたって言ったの覚えてるか?』
「うん」
良は確か、あの時お姉ちゃんの名前を呼びながらずっと謝ってたって…。
『あん時言わなかったけど、お前、あいつの名前も呼んでたんだよ』
「え?」
『覚えてねぇだろうけど、夜中に気ぃついたお前がベットから落ちたんだよ。すぐにあいつがお前の事起こしたけど、そっからずっとそいつに向かって「助けて」って言ってた』
「そ、んなこと…」
『あいつもお前に気ぃあるって、すぐに分かった』
「良…」
『お前を泉から助けた時点で、普通に考えたらおかしいだろ』
「……」
『唯の妹のお前を…、あいつだって同じことしてたのに』
「……」
『穂高も、真希のこと好きなんだろ』
「……」
『そうなんだろ?真希』
「…わかんな…」
『普通は反対するべきなんだろうな』
「良くん…」
『俺は聖んとこの一員だし、穂高がどんな奴かってのもある程度分かってる。危ねぇやつだってのも、穂高が聖のことをよく思ってねぇのも知ってる。もしお前がアイツんとこに行けば、絶対に聖は反対する。つーか、総長の女の妹が、相手の男の女になること自体、普通だったらありえねぇ』
「…うん…」
良が言うのは、当たり前の事だった。
『女になったら、俺らが敵になるかもしんねぇし』
「良くん…」
『この前の時みてぇなことも無いとは限らねぇ』
「……」
『それ全部受け入れる覚悟あんのかよ』
「…良くん」
『お前に穂高の女になること出来るか?』
良が言っていることはものすごく分かってる。
私を心配してくれてるのも…。
出会った当初、あんなにも嫌だった良…。
『それでもいいなら…好きにしろよ』
「良くん」
『やっぱ、お前の気持ち知ってて、反対出来ねぇわ…』
良はその後、話を続けた。
聖には落ち着くまで言うな。
もちろん唯にも、昴にも。
何かあったらすぐに言え。
穂高のたまり場には行くなと。
あんなにも元の生活に戻りたかった。
あっち側の世界にもう二度と入りたくなかった。
それなのに、
今度は私から…自ら飛び込もうとしている。
良との電話を終えたあと、ベットに寝転びながら良との会話を思い出しながらしばらく考え込んでいた。
この気持ちは本物なのか。
瞼を閉じれば、晃貴の爽やかな顔がうつり、「真希…」
と幻聴が聞こえる。
晃貴に会いたい……。
もう外は暗くなっているけれど、我慢できなかった。
真夜中で、もう家族全員寝静まっているなか、私はそっと家を出た。
最寄り駅まで来たものの、もう終電を終え、電車が乗れないためロータリーに停まっていたタクシーに乗り込んだ。
胸がドキドキとする。
生まれて初めての感情に、自分自身どう落ち着かせればいいか分からなくて。
晃貴が住むマンションにつき、私はその場で小一時間ほど考え込んでいた。
本当にこれでいいのか。
もし、私が晃貴の方につけば────・・・
お姉ちゃんへの秘密が増えてしまうというのに。
お姉ちゃんに心配かけてしまうというのに。
嘘が増え続ける…。
だけども、我慢できなかった。
気がつけば、私の足は晃貴の玄関前まで来ていて。
指先は“ピンポーン”と、インターフォンを鳴らしていた。
────時刻は真夜中、2時を過ぎたばかりだった。
もし、晃貴が眠っていて、出てこなければ諦めようと思った。1度きりのチャンス。
出てきてほしい。
でも、出てこなければすんなりと諦められる。
だから出ないでほしい。
いろんな思いが交差する。
良と、敵になるかもしれない。
それなのにインターフォンを押してしまった。
私の行動は正しかったのか。
そうではないのか。
押した途端、頭の中は後悔でいっぱいになった。
だけども、
「お前…、なんで……」
扉の奥から出てきた晃貴の顔を見た瞬間、
私は晃貴を抱きしめていた。
次の日の朝、良の言った通り、家の前には昴がいた。
昴は私の顔を見るなり頭を下げて何度も謝ってきた。
今日から護衛をするらしい男。
はっきり言って、私はもう誰とも会話をしたくなかった。
だけどもそういう訳にはいかなくて、「大丈夫です」と繰り返し返事をした。
「無事で良かった、本当にごめん、もうこんな事は絶対に無いから」
無事?
泉に拉致られて、怖い思いをさせられて、
気持ち悪くてまだ感覚が体に残ってるのに。
それが無事だと言えるのだろうか。
晃貴がいなかったら……。
「もう大丈夫ですから、聖くんにもそう伝えてください」
昴は何か言いたそうな顔をしたけれど、私がもう思い出したくも無かったから、学校へと足を進めた。
良は今、何をしているんだろう。
あれから2週間が経つ頃には、晃貴が言った前の生活にほぼ戻ってきていた。
朝と放課後は昴が送り迎えをしてくれる。
学校では勉強をし、家でも頭が良くなるようにと勉強をしていた。勉強するのは前の生活と一緒。
もう呼び出しがない放課後。
「真希、顔色悪くない?大丈夫?」
お風呂上がりに塾帰りであろう玄関にいる姉ちゃんと鉢合わせし、私は「大丈夫だよ」とお姉ちゃんから逃げるように部屋へこもった。
────誰とも会話をしたくなかった。
“ほぼ”、前の生活に戻っている。
10月の上旬に、文化祭がある。
「昴さん」
学校に到着する頃、
毎日送り迎えをしてくれている昴に、声をかけた。私から声をかけるのは珍しいことで。
最近では「おはようございます」とか「ありがとうございました」とかの言葉にか口にしなかったから。
「え、なに?どうした?」
案の定、昴も私が話しかけてくるとは思わなかったのか、少し驚いた表情をしながら顔をこちらに向けた。
「今日のお迎えはいいです」
「いいって?」
「少し用事があるので、お迎えはいいです」
「用事って?」
どうして用事の内容を言わなくちゃいけないんだろう。
もう口を開きたくないのに。
「もうすぐ文化祭なので…」
「文化祭?」
「文化祭の買い出しをしなくちゃいけなくて…」
「買い出し?それぐらいならついて行くけど」
「学校の友達と一緒に行くので、その…」
「買い出し終わるの何時ぐらい?ってか帰る時間教えてくれたらそれぐらいに学校来るけど」
「買い出しが終わればそのまま学校に戻らないで直接帰るので、迎えはいいです。」
「いや、迎えにはくるから。どこで買い出し?繁華街の方?友達と別れてから連絡くれたら嬉しいんだけど」
「………」
前の生活に戻ったはずなのに、
私はまだ1人で出歩けない。
どうしてこうなってしまったんだろう。
文化祭の買い出しは昴の予想通り繁華街の方だった。クラスの子がここにしようと言うから、私は素直に従った。
学校の中でも誰とも話したくなくて、否定しなかった私と、男女含め4人のグループで繁華街へ買出し。
100円シリーズが並ぶ雑貨を選ぶ友達をしばらく見ていたけれど、トイレに行きたくなった私は友達に「ちょっとトイレに行ってくるね」とその場から離れた。
その店にはトイレは無く、駅の方に歩かないといけない。ボーッとしながらトイレに向かって歩いている時…
「おいっ、真希!」
突然、背後から声をかけられ
肩をおもいっきり叩かれ、
私は驚いて小さな悲鳴をあげた。
「あ、悪い」
心臓がバクバクとする。
ビクビクとする体をおさえながら、後ろを振り向くと、そこには清光の制服を着た…
「……こうじ?」
「お前なあ、また呼び捨てかよ」
康二は呆れたように笑った。
「さっきから呼んでんのに気づかねぇし」
呼んでた?
あたしを?
気づかなかった。
それよりもどうして康二がここに?
そう思って思い出す、ここが晃貴がいる溜まり場からそう遠くない事を。
康二と初めて会って溜まり場へ連れていかれたのも、ここの近くだった事を。
「ごめん…、考え事してて」
「まあ、いいけど、ってか久しぶりだな。最近どうなんだ?つーかここで何してんの」
久しぶり?
康二と最後に会ったのはいつだったっけ?
最近どうとは?
「文化祭の買い出し…」
「文化祭?は?1人で?」
「ううん、トイレに行こうと思って…」
「つーか、もう体大丈夫なのか?」
体?
康二の言っている意味が分からなくて、私は小さく「え?」と声を漏らした。すると康二は不思議そうな顔をして。
「あん時、薬入ってただろ?」
薬…。
「も、平気…大丈夫…」
康二が言っているのは泉に飲まされた薬のことだとすぐに分かった。だけどどうして康二が知ってるんだろう?記憶が無いから分からない。
あの場に康二もいたのだろうか?
「お前、晃貴さんに感謝しとけよ?」
「……」
「晃貴さんがいなけりゃお前マジでやられてたからな」
「……」
「徹さんもすげぇキレてたし」
「……」
徹?
あの場に徹もいたの?
黙ったまま康二の話を聞いていると、「つーか、お前、晃貴さんとどうなっての?」と、よく分からないことを言ってくる。
もう二度と関わらない晃貴と、どうなってるかなんて。
「…どうって?」
「どうって、は?付き合ってねぇの?」
「…誰が?」
「誰がって、お前と晃貴さんだよ。お前あれから溜まり場来ねぇけど、付き合ってんじゃねぇの?」
「……」
私はそんなはず無いと、首をふった。
晃貴と付き合ってるなんてこと、あるはずないのだから。どうして康二がそう思ってるのかも分からない。
すると康二は意味の分からない顔をして、
「んじゃ、なんでお前を泉から助けたんだ?」
そう呟いた。
「あの時の晃貴さん凄かったんだぞ。いつもキレたらすげぇ怖いけど、あん時は特に…思い出しただけでもチビりそうなぐらい。お前の姿見つけた途端顔色変えて───、俺、泉のやつ死んだなって思ったぐらいだし」
「……」
「まあ実際に死んだな、あれは。股間とか蹴りまくりで、歯も全部無くなってたし、指も全部…小指だけ無事みたいな。他のやつらもフルボッコ」
「……」
「お前のこと、ずっと名前呼んで、あんな晃貴さん初めて見た」
「……」
「だから、俺、付き合ってんだと思ったんだけど」
「……」
「違うのか?」
私は何も覚えてない。
泉に薬を飲まされて、気がついたら晃貴の家にいたから。
康二の言っている事は、嘘か本当か────・・・。
「そんなわけ無いでしょ、私と晃貴だよ、ありえないよ」
「けど晃貴さんを呼び捨てにする女、早々いねぇし」
「……」
「お前に手ぇ出すなって、あの後俺らにも言ってきたから。勘違いしてたわ。そうか、付き合ってねぇのか」
俺らにも?
晃貴は康二たちにもいったの?
ああ、そうか。
前の生活に戻すために…。
もう康二にも関わらないようにするために。
「付き合ってないよ、ごめん、もう行かなくちゃ…」
「あ?あー、買い出しだっけ?」
「…うん」
「つーか、お前さ?そんなに文化祭の用事って忙しいのか?」
「え?」
「目に隈出来てるぞ、ちゃんと寝ろよ」
目に隈?
隈とは────・・・。
「またな、真希」
もう会うことはないであろう康二は、手を軽くあげながら、その場から離れていった。
────ねぇ、晃貴、
前の生活って、なに?
まるで心がポッカリ穴が開いてしまったような感覚だった。
自分の心の中にある“ありえない感情”をおさえながら、これは勘違いだと、自分に言い聞かせて時間がある時はずっと勉強していた。
お姉ちゃんにも「勉強しすぎじゃない?寝てるの?」と心配されたりもして。
「市川さんってさ、彼氏いるの?」
買い出しへ行った日の2日後、文化祭の準備をしている最中、買い出しで一緒だった男の子が話しかけてきた。
偶然にもこの時は二人っきりで作業中だったから、暇つぶし的な感じで彼は話しかけてきたのだろう。
「いないけど…」
「そうなの?でも最近すごいイケメンの人と来てない?あれって彼氏じゃないの?」
それは昴のことを言っていた。
それもそうか、
私が良に護衛されている時、清光では良と私が付き合っているという噂が流れたぐらいだ。
だから護衛が変わった昴と付き合っていると言われてもおかしくはなくて。
「…ううん、付き合ってないよ」
「ふーん、そっか」
彼は少しだけ笑った。
「じゃあさ、文化祭一緒に俺と回らない?」
一緒に?
作業をする手を止めて、彼の方を見つめた。
「え?」
「俺、市川さんのこといいなって思ってて…」
「……」
「実は今も、二人っきりになるために他の奴らにも協力してもらってて」
顔を赤くしながら、彼は続ける。
「もう回る相手がいるなら、無理でいいんだけど…」
自分が告白されているってことに、しばらく経ってから気づいた。
少しあどけなさが残り、頭も良くて、友達もいる普通の男の子。もし、私が付き合うならこういう人なんだろうと思った。
こっち側の男の子。
晃貴が言った、「こっち側」じゃない男の子。
普通の男の子……。
「市川さん?」
ボーッとしていると、首を傾けてこちらを向いている彼にはっとした。
「…ちょっと、考えておくね」
「うん」
彼は作業に戻り、私も手を動かしながら、彼の事を考えていた。
ありえない感情…。
このありえない感情を解決したくて、私は図書室に通った。心理学の本を呼んだり、家のネットでも調べたりした。
だけどもピンくるものがなかった。
解決方法が無い。
どうすれば考えなくてすむのかが分からない。
誰に相談すればいいか分からなくて。
文化祭前日、家の中で勉強をしている私の携帯に1本の電話がかかってきた。それはあの日以来の電話だった。
『俺だけど』
電話越しから聞こえる低い声。
「良くん…」
『最近どうだ?』
どうとは?
「ん…、大丈夫だよ」
『そうか』
良の声を聞くのは久しぶりだった。
唯一、私とお姉ちゃんの関係を知っている存在。
晃貴と私がどんな関係だったか知っている存在。
『ならいい、何かあったらすぐに言ってこい』
「うん」
前の生活には、良は存在していなかった。
だけど今は良には嘘をつきたくないほど、良のことは信頼している。“完全に”前の生活に戻ってしまったら、もう良とも関わりを持つことが無くなるのだろうか。
…この感情も、無くなるのだろうか。
「ねぇ、良くん」
『あ?なに?』
「良くんって、どうしてお姉ちゃんを好きになったの?」
『はあ?なんだよいきなり』
良の声が、少し不機嫌に変わった。
「どうしてかなって、思っただけ…」
女嫌いの良が、どうしてお姉ちゃんを好きになったのか。
『……』
「嫌ならいいの、ごめん」
『…別に、大した事じゃねぇ』
「え?」
『マフラー貸してくれたんだよ、唯が』
「マフラー?」
『それだけ』
「……」
『それだけなんだよ、マジで。気ぃついたら好きになってた。ありえねぇだろ』
「そんなことないよ…」
『誰にも言うなよ』
言わないけど…。
私にだけ教えてくれた良が嬉しくて。
「もうひとつ、聞きたいことがあって」
『なんだよ?』
「お姉ちゃんを忘れないとって、思った事ある?」
『はあ?』
「ううん、ごめん…、やっぱりいい。ごめん」
私は何を聞いてるんだろう。
こんな事を聞いて良がどう思うか。
嫌に決まっている。
お姉ちゃんが聖くんと付き合っているから、どうしても諦めなきゃいけないのに…。
『あるよ』
良の声は落ち着いていた。
正直、こんな事を聞いて怒ってくるかとおもったから。冷静な良は、「そん時は片っ端から喧嘩してたな」と、小さく笑って。
「喧嘩?」
『そう、考えねぇために。ひたすら知らねぇやつにふっかけてた。でも結局は無理だった。諦めらんねぇよ』
考えないために。
私は目の前にある教科書を見つめた。
私は考えないために勉強をしている。
「どうすれば、忘れることができるのかな」
『さあな』
「忘れる方法って、あるのかな」
『なあ、真希』
「なに?」
『それって俺の事、聞いてるんだよな?』
「え?」
『お前の事じゃねぇよな?』
「……」
無意識に私はスマホを握りしめていた。
『…やめとけよ』
「良くん」
『あいつはやめとけ』
ねぇ、良、あいつって誰のこと?
『真希』
「じゃあどうしたらいいの?」
『お前────・・・』
「頭から離れないの…、忘れようとしても忘れられない。勉強しても意味はないっ、どうすればいいか分からない…!!」
『おい・・・』
「やめとけって何!? 私があの人のこと好きだって言いたいの!? 好きじゃないよっ、だってありえない、私、あの人にやられたんだよ!? 何回も…、それなのに…」
『……』
「ありえない…、好きになるはずなんかない」
『……』
「教えてよ、どうすればいいのっ。前の生活に戻れっていうなら、この気持ちの消し方も教えてよ!!」
『……』
「教えてよ…良くん…」
『…そんなの』
「……」
『俺が知りてぇよ』
聖くんの彼女であるお姉ちゃんを好きな良。
『時間が経つの待つしかねぇんじゃねぇか』
低くて冷静な声なのに、私にはそれが苦しそうに言ってるように聞こえて。
「時間が解決するの?」
『わかんね、でもそう思うしかねぇだろ』
「……」
『お前の気持ちは分かる、そういう気持ちがおさえられねぇのは…。俺もそうだからな』
「うん…」
『好きになるなって言われても、もう遅せぇよな』
「…ん…」
『まさかとは思ってたんだ』
「え?」
まさかとは?
『お前があいつを好きになるとかありえねぇって』
それは、予想していたような口ぶりだった。
まるでこうなる事を知っていたかのような。
『俺があいつの家に行った時、お前、唯の名前呼んでたって言ったの覚えてるか?』
「うん」
良は確か、あの時お姉ちゃんの名前を呼びながらずっと謝ってたって…。
『あん時言わなかったけど、お前、あいつの名前も呼んでたんだよ』
「え?」
『覚えてねぇだろうけど、夜中に気ぃついたお前がベットから落ちたんだよ。すぐにあいつがお前の事起こしたけど、そっからずっとそいつに向かって「助けて」って言ってた』
「そ、んなこと…」
『あいつもお前に気ぃあるって、すぐに分かった』
「良…」
『お前を泉から助けた時点で、普通に考えたらおかしいだろ』
「……」
『唯の妹のお前を…、あいつだって同じことしてたのに』
「……」
『穂高も、真希のこと好きなんだろ』
「……」
『そうなんだろ?真希』
「…わかんな…」
『普通は反対するべきなんだろうな』
「良くん…」
『俺は聖んとこの一員だし、穂高がどんな奴かってのもある程度分かってる。危ねぇやつだってのも、穂高が聖のことをよく思ってねぇのも知ってる。もしお前がアイツんとこに行けば、絶対に聖は反対する。つーか、総長の女の妹が、相手の男の女になること自体、普通だったらありえねぇ』
「…うん…」
良が言うのは、当たり前の事だった。
『女になったら、俺らが敵になるかもしんねぇし』
「良くん…」
『この前の時みてぇなことも無いとは限らねぇ』
「……」
『それ全部受け入れる覚悟あんのかよ』
「…良くん」
『お前に穂高の女になること出来るか?』
良が言っていることはものすごく分かってる。
私を心配してくれてるのも…。
出会った当初、あんなにも嫌だった良…。
『それでもいいなら…好きにしろよ』
「良くん」
『やっぱ、お前の気持ち知ってて、反対出来ねぇわ…』
良はその後、話を続けた。
聖には落ち着くまで言うな。
もちろん唯にも、昴にも。
何かあったらすぐに言え。
穂高のたまり場には行くなと。
あんなにも元の生活に戻りたかった。
あっち側の世界にもう二度と入りたくなかった。
それなのに、
今度は私から…自ら飛び込もうとしている。
良との電話を終えたあと、ベットに寝転びながら良との会話を思い出しながらしばらく考え込んでいた。
この気持ちは本物なのか。
瞼を閉じれば、晃貴の爽やかな顔がうつり、「真希…」
と幻聴が聞こえる。
晃貴に会いたい……。
もう外は暗くなっているけれど、我慢できなかった。
真夜中で、もう家族全員寝静まっているなか、私はそっと家を出た。
最寄り駅まで来たものの、もう終電を終え、電車が乗れないためロータリーに停まっていたタクシーに乗り込んだ。
胸がドキドキとする。
生まれて初めての感情に、自分自身どう落ち着かせればいいか分からなくて。
晃貴が住むマンションにつき、私はその場で小一時間ほど考え込んでいた。
本当にこれでいいのか。
もし、私が晃貴の方につけば────・・・
お姉ちゃんへの秘密が増えてしまうというのに。
お姉ちゃんに心配かけてしまうというのに。
嘘が増え続ける…。
だけども、我慢できなかった。
気がつけば、私の足は晃貴の玄関前まで来ていて。
指先は“ピンポーン”と、インターフォンを鳴らしていた。
────時刻は真夜中、2時を過ぎたばかりだった。
もし、晃貴が眠っていて、出てこなければ諦めようと思った。1度きりのチャンス。
出てきてほしい。
でも、出てこなければすんなりと諦められる。
だから出ないでほしい。
いろんな思いが交差する。
良と、敵になるかもしれない。
それなのにインターフォンを押してしまった。
私の行動は正しかったのか。
そうではないのか。
押した途端、頭の中は後悔でいっぱいになった。
だけども、
「お前…、なんで……」
扉の奥から出てきた晃貴の顔を見た瞬間、
私は晃貴を抱きしめていた。