「そうくると思いましたよ」賢明の魔術師は、秀麗な騎士をはなしません。⇔蓮雨ライカ
瑠璃から出た白藍
「……(ただ今忙し過ぎて泣きそうです)」
陽は傾きはじめ、黄色が濃くなってきた。
数人が負傷して転移門を使い戦陣まで戻ったが、ここしばらくは静かなものだった。
アートのくたびれ方を見るに、回復にはもうしばらく時間が必要だろうと、リンフォードは天幕のある方に目をやる。
同時にローレルのことを考えそうになって頭を振った。
今はその時ではない。
気を取られると自分が役立たずになるのは明らかだ。ここに来て大義を見失う訳にはいかない。
土を踏む軽い足音に振り返る。
いつもの軽装と違い、見事に仕立てられた揃いの衣装のウェントワース王子がリンフォードに歩み寄る。
「……静かだねぇ」
「ええ、ご準備は?」
「準備は随分前からできているよ?」
にっこり笑顔のウェントワース王子が、左手で軽く腿を叩いている。
当たり前にあったものより、残ったものを数える方が早いほど、一度にたくさんを失った。
失くしたものは戻らないが、これ以上は無くさないと誓ったあの日から、ずっと準備し続けてきた。
「五年だよ? 待ちくたびれちゃった。ねえ、もう戻ったらどうかと思うんだけど」
「制圧完了の知らせがまだです」
「でも私が行けば早まるとは思わない?」
「……いろんな意味で一気に収束しそうではありますけどね」
「でしょう?……グレアム呼んでくるね」
「五年も待てたのですから、あと少しくらい待てるでしょう?」
「やーだねーだ」
くすくすと笑いながら王子は大きな天幕に向けて駆けていった。
今は自由に駆けていることに胸が締め付けられそうになる。
ウェントワースを死んだと見せかけられたのは、同行していた王子の影武者がいたからだ。
そして王子の大量の血。
落とされた左脚の膝下。
正統な王の血には魔力的な特徴があった。
遥か昔、国の興りに神的存在との制約の証とも謂れている。
その血は一子にしか顕れない。
その血を持つ者こそ王であるという明証。
それが親王派が命を掛けてまでも抗する理由となったのだが。
ごく一部にしか知られていない事実が、だからこそ死亡したのはウェントワースであると偽装できた。
義足で難なく駆け回るまでにはそれほど時をかけなかったが、艱難が無かったのではない。
心配をかけまいとする仕草や言葉、堪えようとする王子の顔を、いつでも思い起こせるのはグレアムも同じだろう。
王子に一番に厳しいのはグレアムとリンフォードなのだが、掛け値無しに一番に甘くもある。
結局は早まるな等の反対を押しきって、根負けしたような顔のグレアムを連れて戻ってくるのだろうと、それはリンフォードの予想の通りになった。
スタンリーは日没には知らせを寄越すと請け負ったが、実際は日没前にはウェントワースが玉座に登った。
王師団長及びその副長を欠いたこと。
長を失ったと知るや、戦況は早々と決した。城にいた騎士たちは死に物狂いで抗うほど、王弟への忠誠心の強い者は居なかった。
武器を取り上げて格上の騎士や文官たちを地下牢に詰め込み、その他の格下は見張りをつけて城の外郭に留め置く。
今後、個人ごとに沙汰を決定する方に時間が必要なのは明らかだ。
王弟を操っていた魔術師長ダルトワはあっさりと散った。リンフォードと対峙し、魔術を駆使して死力を尽くし……ということはなく、自らの作った破術の長剣を自らで受けてその命を落とした。
あらゆる事態を想定して準備していたリンフォードも、レアンドロに刺さっていた剣で、まさか怒りに任せた腕力でなどと思いもよらず、肩すかしを食らった気分を味わう。
ダルトワが目の前で倒れた時点で、王弟はすぐに投降し、潔く自らの首を差し出す。
急襲の知らせを受けた時から覚悟はしていたと虚を見ていた。いつかこうなると解っていたのだと力無く笑った。
憐れな操り人形だが同情には値しない。
己の奸悪さを理解していても、かといって赦されることはない。
敗れた者が去るのはこの世の定めだとお互いが認め合い、ウェントワースが叔父の首を落とした。
城に掲げられたのはこれまでの王の半旗と、新王が即位したと知らせる旗。
黒を溶かした赤紫、空を駆る金の竜の絵図。
正統な王が城に在り、その王の統べる国であるという旗。
夕刻、日暮れまでのわずかな時間にそれを見た民が、城下の町にあっという間にその話を広めた。
反応は様々にあったが、貴族を含めて後ろ暗い者ほど、王都を離れる支度を始めた。
王が変わって良いことはひとつもなかった。分かりやすい悪政は敷かなかったが、少しずつ人が、町が荒れ、病に侵されるように国が傾いていることは民の誰もが感じていた。
不満は溢れる手前まで溜まり、新たになった王に期待が寄せられる。
翌日の朝には城門の前に、噂を聞いた民たちがその御旗を確認しに、波のように押し引きしていた。
「……アート? ずいぶんと話を端折ってないか?」
「だって俺も一部始終見た訳じゃないし。ほとんど人から聞いた話だし」
「……そうだったか」
「俺は居残り組だもの」
「その場に居たかったか?」
「んーん。俺は転移門を維持するのと、負傷者の世話が役目だったから……それがまぁ、なんとかこなせたから、その場に居られなくても悔いはないかな」
「……そうか」
いくらローレルがごねても王子の部屋からの移動は許されなかったので、仕方なく豪勢な部屋で肩身を狭くしていた。
五年前からそのままに、使用されていなかった場所が、以前の王妃と王子の為の居室、その近辺しかなかった。
なら余計に自分ごときが居てはいけないだろうと言ったが、新王の勧めだと返されてはどうしようもない。
王子の部屋とその横に繋がった侍従の部屋を合わせた場所を、リンフォードとアートとソニア、ローレルで使っていた。
大きな窓は開け放たれて、そちらに向かってローレルは座っている。
寝台から離れるとみんなから怒られるので、その上で膝を抱えて外を見ていた。
といっても見えるのは露台と、その向こうの灰色しかない空と、透明な糸のような雨だった。
すぐ横にはアートが同じように座っている。
「……ここに戻って思い出したけど、よく降るねぇ」
「あっちは逆に滅多に雨の日が無かったな」
「だよね。からっとしてるのは良かったけど、空気が埃っぽかった」
「中間に住んだらちょうど良いだろうか」
「……それ国境の森の中ってこと?」
「……住めたもんじゃないな」
「だよ、色々いるし……そういえば、あの猿の魔獣ってローレルが括り付けたんだって?」
「私じゃない、お前の師だぞ」
「あ、そうなんだ?」
「それがどうした?」
「いやぁ、あの魔獣のこと、みんながローレルって呼んでて」
「なんでそうなるんだ。みんなって誰だ」
「師匠でしょ、あとスタンリーとジェイミーと王……」
指折り数えるのを、上から手を被せてやめさせた。
「もういい。誰が言い始めたのかは分かった」
「はは……俺は一度も言ってないから、半分に斬ったりしないでね」
「本当か?」
「誓ってほんとに」
頭をくしゃりと撫でると、アートは気持ち良さそうに目を閉じた。
撫でられることに関しては、アートはされるままだなとローレルの口の端が持ち上がる。
そのことを包み隠さず言葉にすると、アートは気恥ずかしそうに笑った。
「……俺さ。姉さんがいたんだ」
「いた?」
「うん……今はいない。だからなんていうか……いや、ローレルはひとつも似てないんだけど、えっと、撫でられると嬉しい……」
頬を染めて、ぐんにゃりとしたアートの頭をもう一度撫でておく。
「あの大粛清があった日、ローレルはどうしてた?」
「……野盗が出たと知らせがあって、王師の一部は城外に……謀られたと分かって戻った時にはもう何もかも終わった後だった」
粛清とは大義を言い訳にした、ただの虐殺だった。
当時はまだジェロームが師団長で、激しく抵抗しそうな親王派の騎士たちは、嘘の命令に従うべく遠方へ派遣された。
親王派の神官や、当時王城に詰めていた文官やその家族、反撃や抵抗の少ない者が犠牲になった。
「俺はたまたまその日に師匠の所にいて助かったんだ」
「そうだったか」
「家族はみんな殺された……父さまと母さま、姉さん……ちっちゃな弟のミック」
ローレルはアートの肩に腕を回してぎゅうと抱き寄せた。
かけられる言葉はあの時無くなった。
どんなに己を馬鹿だと責めて罵っても、どんなに詫び言を述べても、言い訳にしかならない。
自分の罪を軽くしようとしているようにしか思えない。
どれほど悔しかろうと歯をくいしばり、黙してその光景を見るしか無かった。
師であるジェロームこそがそうしていたから。
「辛かったな」
「……すごくね……でもあの頃はみんなそうだったんでしょ。俺だけじゃない……だから頑張れた」
「そうだな」
ひとりじゃない。
共に立ち向かう仲間がいる。
それがどれだけ心の拠り所になるのか、ローレルは最近になってやっと知ることができた。
また生きているのかと、絶望ではなく、鼻で笑って口の端が持ち上げられる。
「俺さ、家族の中でずば抜けて魔力があったんだよね。もう、家の中がめちゃくちゃ、暴れまくってた」
「そうだったのか?」
「誰も俺を止められないぜ! 俺最強!! くらいに思っててさ、やりたい放題だった」
「生意気くそ坊主だな」
「くそ坊主だよ〜……師匠に止められるまではね」
「止められた?」
「一瞬でね、拳骨一発」
アートは自分の拳を振り下ろし、小さな頃の自分の頭を殴る仕草をした。
ローレルの腕を除けて、真っ直ぐに座り直すと、大きく息を吸い込んで、姿勢を正した。
「生意気くそ坊主が、ただのくそ坊主になれたのは、師匠がいたからだよ」
「苦労をかけた自覚はあるんだな」
「その度に鉄拳制裁だったけどね」
「師匠の拳はなんであんなに硬くて重いんだろうな?」
「ローレルも生意気くそ坊主だったの?」
「私は周りの巻き添えを食らっただけだ」
「あー……スタンリーかぁ……」
「そう、そいつら」
「俺ね、今だから言えるけど。騎士って呼ばれる人たちが嫌いだった」
わかるでしょとアートは窓の外を見たまま苦笑いをしている。
肝心な時に弱い者を助けてくれない、守っているのは家族を殺せと命じた仇たちだ。
「だから師匠がローレルを雇うって言った時、何ふざけてんだこいつ、としか思えなかった」
「……うん」
「森から帰って来て、ローレルさんがああだった、ローレルさんがこんなだったって聞くたびに、腹が立ってしょうがなかった」
「……そうか」
「……でもね、ローレルに会ってみて、それからスタンリーやジェイミーに色々教えてもらって、ごちゃごちゃ考えるのはやめたんだ」
「ごちゃごちゃ?」
「悪いのは騎士たちじゃないって」
「そうか」
「それに分かったことがある」
「うん?」
「俺には剣が無いって」
「剣?」
「例えだよ……心の中に剣が無いって。戦って憎い相手を殺すための、一振りの強い剣……分かる?」
「剣……か」
「……辛いとか、憎いとか、どうして俺ばっかりって、俺の中には不満しかなくて、全部を誰かの所為にしてた」
「……でもアート。お前はその目的を果たすための努力を惜しまなかっただろう? 折れず曲がらず、ずっと持っていたものがあったから、今ここに居る。お前の言う剣とはそういう強い意志のことじゃないのか?」
「うーん……どうかな。かなりの不平不満がまだ腹の中にあるけど」
「それは私もそうだよ。……そして多分、みんなの中にもある。今もまだな」
「そうか……それがあったから今ここに居られるのかな」
「だと良いなと思う」
「……終わったら楽になると思ったんだけど」
「そうだな……逆に、楽になった時に終わるのかもな」
ああと息を吐き出して、アートはそのまま後ろに倒れた。
ふかふかの寝台でごろごろと転がる。
ぴたりと止まると、天蓋の天井にある青空と星空をじっと見つめた。
「……きっと理屈じゃないとこで、わかったのかも」
「何をだ?」
「ローレルや、スタンリーたちが俺の思ってた騎士とは違うんだって」
「アート……」
「物語や歌に出てくる、かっこいい騎士様とはちょっと違うけど、きっと、真っ直ぐ正しいことをしてくれるんだって」
「……アートにそう言ってもらえたら、奴らも喜ぶんじゃないか?」
「えー? 格好良いしかないだろ! って怒りそうじゃない?」
「はは……確かに」
両足を振り上げ、勢いをつけてアートは起き上がる。
横に顔を向けて、にっと笑った。
「あとついでにもうひとつ言うけど」
「うん?」
「師匠がローレルに顔真っ赤なのは複雑だった」
「……私の所為か?」
「うーん、どうかな。半分は?」
「そうか? 勝手にお前の師が……」
「いやでも、ローレルいい奴だし、美人だし。だから半分はローレルの所為」
「そうじゃなけりゃ良かったか?」
「分かんない。姉さんとはひとつも似てないからかと思うと余計に複雑」
「なぜそこでお前の姉上が出てくるんだ」
「師匠、姉さんの婚約者だったの」
「……あぁ……」
「かわいい感じだったし、大人しくて優しくて、間違っても大股で走ったり剣を振り回したりなんてしないもの」
「まぁ、ご令嬢とはそういったものだな」
「師匠ともなんかいい雰囲気だったし」
「……それを聞かされて、私はどうしろと」
「でも姉さんに真っ赤になってたのは見たことないんだ……」
「……アート」
「だからすんごい複雑……分かる?!」
「う……まぁ、そうだろうなとは思える」
「姉さんのこと、忘れたのかな……」
ぐと拳を握ると、ローレルはアートの頭の上に振りかざして、力を抜くと、とんと置いた。
「お前の師はそんな男か?」
「……違うけど」
魔術で傷はふさがっても、傷口を閉ざすだけのものだ。縫うよりは多少早く完治するだけのものが本来。
ローレルが受けたのは昔からある治療の術ではなく、新たなものを組み合わせて改良し、痛みや苦痛はあまり感じない。
回復もかなり早いから、今こうして起き上がって話ができている。
傷を負うことをリンフォードが極端に嫌っていたのも、ローレルの傷の治りが異様に早いのも、この話を聞いて腑に落ちた。
「私のこの傷を治した術、本当に使いたかった相手がいたと思うけどな?」
ローレルが寝巻きの首元を引っ張って中を覗くと、アートはくしゃくしゃの顔でそれを見ていた。
「……そうだと良いけど」
「聞けないか?」
「聞けないよ、こんなこと」
姉を忘れていれば辛いのはアート。
覚えていれば辛いのはリンフォード。
ぶつける相手はローレルしかいない。
「まぁ、そう難しく考えるな。お前が納得いく、お前の師の相手に相応しい誰かを探そう」
「え……ははは! まさかの展開だよ!!」