「そうくると思いましたよ」賢明の魔術師は、秀麗な騎士をはなしません。⇔蓮雨ライカ
意地と見栄は
最初の頃に比べたら随分とマシになったが、ここの湿気と臭いにはいつまでも慣れない。
地下牢に入る手前。
控室に使っている小さな部屋には、ふたりきりだった。他は聞き取りか休憩かで出払っているらしい。
アートは片腕に抱えたいくつかの中から必要なものを引き抜くと机に置いて、その上をぽんと叩く。
革製の簡易な包みの中には、緻密な紋様がびっちりと描かれた小さな紙片がまとまって入っていた。
『嘘を吐くと痛い紙』だ。
中身を確認するとスタンリーは口の端を片方だけ持ち上げ、短く笑い声を漏らす。
「……多いな」
「大奮発だよね」
「有り余ってるようで何より」
「八つ当たりの賜物」
「……なるほど」
「ローレルどうしてる?」
「…………あいつが聞いてこいって?」
「違うよ、俺が気になってるの」
「へぇ?」
「ホントだって……何かしようかって持ちかけても断られた」
「ほーん?」
「……たく。なんの意地なんだか……」
「ローレルならそれなりにやってるよ」
「そう……良かった。ちゃんと食べてる?」
「自分で確かめたらどうだ」
「俺が外郭まで出たら、会いに行ったのバレちゃうもん」
すぐに戻らないと、と眉の端を下げてアートは軽く肩を竦める。
そうかと笑ってスタンリーはローレルの居場所を気兼ねなく教える。ローレルとの約束はきちんと覚えているが、アートなら構わないだろうと考えた。
驚いた表情は一瞬だけ、なんなら見逃しそうな程で、すぐに呆れたといった顔になる。
その辺りの応変ぶりは師弟だなと可笑しくなってくる。
スタンリーはにやにやしながらリンフォードには内緒だぞと付け加えた。
「……ずっと? そんな近くに?」
「……だな」
「何で今まで黙ってるかな」
「あいつにも思うところがある」
「どんな?」
「俺から聞きたいか?」
「……今から行っても?」
「どうしても陽の高いうちはあいつがひとりになるんだよな。顔見せてやれ、喜ぶよ」
「うん。ありがと、スタンリー」
「こちらこそ、だ」
部屋を出て行く手前で、そうだとアートは振り返った。
「師匠からスタンリーに伝言があったんだ。『それでお願いします』って……言えば分かるって。分かった?」
「『おう』って伝えてくれ。言えば分かる」
「…………こそこそしてやな感じ」
「お子ちゃまだな」
「うるせーわ」
スタンリーに教えてもらった部屋の扉を叩くと、近くに居たのだろう、名を告げる間もなく内側から開かれた。
お互いの顔を見合わせて、同時にぱっと明るく表情を変える。
「あのおしゃべり野郎め」
「しかも聞く前に教えてくれたからね」
扉を大きく開いて、ローレルは笑顔で片腕を軽く持ち上げる。
アートもにっこり笑って、遠慮なく促されるままに部屋に入った。
「ローレル? 何で髪が?」
「ああ……風呂に行ってたんだ。今戻ったところだった」
「丁度だったんだ、良かった」
ローレルの肩には布がかかり、片側に寄せられた髪は濡れて束になっている。
ほのかな石鹸の香りに、アートは少し浮ついて落ち着かずにもぞもぞとする。
「そうだ、アートは乾かせるか?」
「え? いや、俺、分かんないんだよね」
「……魔術師なら誰でもじゃないのか?」
「……てか、できたとしても遠慮するけど」
「ひと言多いな」
「弟子なもんで」
アートは部屋をぐるりと見回して、窓辺の小さな卓に乗っている硝子球に、心がいくらか落ち着いた。
自分たちのことを忘れたとも、切り捨てられたとも、思いたくはなかったが、考えなくは無かった。
いつでも見える場所に我が師を感じる物を置いていてくれることが素直に嬉しい。
ローレルに向き直り、にやりと笑う。
「ここにずっと居たの?」
「そうだよ」
「教えてくれても良かったんじゃない?」
「筒抜けになるだろ?」
「俺は止めさえすれば口が固い男だよ?」
「何か隠してると顔に出る男の間違いだろ?」
「……気を付けるよ」
「そうしてくれ」
「ローレルと会えてほっとした。ちゃんと食べてる?」
「前よりはな」
「ならよろしい」
声を抑えるようにして笑っていると、ローレルはアートの枯茶のふわふわした髪を撫で回す。
撫でやすいように、アートも頭を傾けた。
「……俺もう行かなきゃ。また時間ができたら来ても良い?」
「もちろん。アートなら大歓迎だよ」
「ソニアのお菓子持ってきてあげるね」
「嬉しいけどそれは……」
「釘刺さなくて大丈夫」
「本当か?」
「口にも顔にも出さないよう気を付ける」
「あぁ……止めろ。意識するな……今から帰るまでの間に、私のことは考えるな。忘れるようにしろ」
「……分かった。やってみる」
アートはそれなりに上手くやれた。
ローレルの助言の通り、意識しないと意識するよりは、考えないと決めて考えないようにした方がいつもの通りを貫けた。
真っ先にスタンリーからの返事を伝える。
何気ない会話をいくつか済ませると、リンフォードから、グレアムに書簡を渡して別の信書を預かってくるようにと指示される。
もたもたしてボロが出る前に、アートはさっさと行動に移すことにした。
机の向かい側から紙の束を差し出される。
内容は見ないように、革の書類挟みにしまおうと開いて、信書を受け取っても手は離されない。
なんだと師の顔に目を向けると、リンフォードもこちらを同じような目で見ている。
「……なに」
「何でしょう……おかしいですね?」
「いや、聞かれても。いいから手、離してよ」
「このしっくりこない感じ、何ですかね…………うん? アート、良い匂いがしますね」
「……気持ち悪っ!」
「…………会ったんですか?」
「……怖っ!」
「会ったんですね? ローレルさんと……」
「師匠には内緒なんで」
「そうして欲しいと?」
「そうだよ」
「あ……そ……そうなんですね。……そうか」
大して生気が無いのに、さらにしおしおと萎びていくようなリンフォードを気の毒だと思う。
思うが、これ以上食い付いてこないことにアートはがっかりに近い感情を持った。
今度はするりと簡単に信書を引くことができた。受け取ってグレアム閣下の元へ行こうと出入り口に向かう。
「……じゃあ行ってくるけど。他に何かある?」
「いえ、特に」
「へぇ? 特に何も無いんだ?」
「…………アートのその様子で元気そうなのは分かりました」
「ああそう」
「行ってらっしゃい」
「……ねぇ、なんの意地?」
「意地なんかじゃないですよ」
「……その何でも分かったような顔」
「世の中は分からないことだらけだってことは理解しています」
「……ムカつく」
「でしょうね」
アートが部屋を出て行き、静かで無駄に広い中でひとりきりになると、リンフォードは両手で顔を覆って机に伏せた。
細い息を長く長く吐き出す。
「……張れる意地なんてないんですよ」
意地ではなく、見栄なのだ。
アートには知られたくないという、大人としての見栄。
その姿が見苦しいことは承知の上。
真っ直ぐな性格のアートは言葉の通り、本当にムカついているのも解っている。
自分でも自分に腹が立っているのだから尚更だ。
仕様が無かった。
初めはローレルのことを利用できるだけ利用しようとしか考えてなかった。
だからその様に接してきたし、それを口にも態度にも出した。
ある程度の信頼関係を築くことができれば、それ以上に気遣う必要がないと思っていた。
大間違いだと気が付いた時にはもう遅過ぎる。
ローレルに出会うより前の時点でもう間違っていたのだから。
今からどれだけ取り戻そうと考えたところで、過ぎた時は巻き戻らない。
それならこれからをどうするか、そちらに意識を向けるべきなのだ。
いくら考えようが、全てが駄目に思えてどうしようもなかろうが。
ローレルをあきらめるという選択だけはあり得ないのだから。
「……ないんですけど、ねぇ」
形振りを気にしている自分に嫌気がして重たい息を吐く。
こんなことをひとり考えること自体が間違っている。
叶うならふたりでふたりのことを考えたい。
けれどそれにはローレルの気持ちがこちらを向いてくれなくてはお話にならない。
自分のことばかりで相手の心情を思い遣れないのは、ローレルの最も嫌うあのクソクソのクソ男と同じに成り下がる。
巻き戻らない時を教訓にして、同じことを繰り返さないように注意を払うしかない。
「んんん…………ローレルさんんんん……」
机の上で悶えながらも、そんな自分を客観的に考えてみると気持ちが悪い。
気持ちが悪い上に寒気までしながらも、そんな自分の感情が御せない。
「アート……なんてうらやましいんでしょうか……」
いっそのこと今の気持ちを口に出せばすっきりするかと思ったけど、悔しさが増す一方だった。
ぎりぎりと奥歯を噛み締めて唸り声をあげている内に、そのままの格好、椅子に座り両手で顔を覆ったまま机に伏せた状態で、リンフォードは眠ってしまう。
もうなんだか諸々が限界に近かった。
リンフォードの野生の勘だかその後の名推理だかで、アートがローレルと会ったことは知れてしまったが、そのおかげで変に誤魔化す必要がなくなった。
きちんとローレルに会ってくると宣言したことで、アートはまとまった時間を確保できるようになる。
それが数日続いた後のこと。
アートは別の許可をリンフォードから取り付けようと目の前にふんぞりかえって腕を組んだ。
「……転移陣?」
「うん、使いたいんだけど」
「誰がですか?」
「俺が聞いてるんだから俺だよね」
「なんの為ですか?」
「ローレルの為に決まってるでしょ」
「どこの転移陣を?」
「隣の国までの……経由しないと俺には難しいから、えー……城下の拠点、国境の大きいやつ、それから酒場近くの拠点まで……良いよね?」
「……ローレルさんが隣国に?」
「……そうだよ」
「いつでしょう」
「師匠の許可が出て、都合がつけば明日でも」
「アートの魔力量だとふたりで行くには片道が精々……」
「行きだけふたり、帰りは俺だけだからまぁ、大丈夫でしょ? 魔力溜めてる石もあるし」
「…………はい?」
「聞こえてたし、話は分かってるでしょ。聞き返さないでよ」
「……そ……それは、誰が」
「は? 誰が行くか決めたってこと? ローレルの意思だってば」
「……そうですよね」
「ねぇ、転移陣。使って良いの? 駄目なの?」
「許可が出ないことは考えて無いんですか?」
「師匠が駄目なら、別の人から許可をもらうし」
「陛下から?」
「そういうこと。てか、ウェントワース陛下にはもう話をしてあるんだけどね」
「……周到ですね」
「最初ローレルは馬で行く気だったから、俺が送ってあげようかってなったの」
「そうですか……」
「使用許可は?」
「え……ええ。分かりました……」
「良いんだ? ほんとに?」
「……はい」
「止めないんだ?」
「どういう意味ですか?」
「別に……じゃあ、良いってローレルに伝えてくるね」
アートはリンフォードを睨むように見据えながら、腰の後ろに手を回す。
下げていた小さな鞄から取り出したものをゆっくりと丁寧にリンフォードの目の前に置いた。
「これ返すって。ありがとう、だってさ」
「……どうして」
「俺と一緒に練習したし、困らないくらいには魔力は繰れるようになったよ。これはもう必要ないね」
机の上には透明な球のおもちゃ。
ここでも光と影とで机に模様を描いている。
「……師匠?」
「…………はい?」
「言うことは?」
「まだ何か必要ですか?」
「………………別に。無いならいいけど」
じゃあねとアートは部屋を出ていった。
その翌日、アートとローレルのふたりは転移陣を使って隣国に渡り、アートひとりだけが帰ってくる。