グリーゼのために ~登山家グリーゼとピアノ講師サラ・バーンズの恋愛~【短編】
第2話 骨董屋で変なピアノ
19時からバーでの演奏があるが、それまで少し間がある。富裕層の多い住宅エリアから街に降りて、骨董屋に行くことにした。
世界に名だたる企業ビルが建ちならぶエリアではなく、昔からの店が残る西のエリアに目当ての店はあった。
「三匹の兎」
店名はかわいいけど、裏通りの骨董屋にかかげられた看板の兎は怖い。兎が三匹、前足を立てて会話をしている絵なのだが、悪だくみをしている三人にしか見えない。
店に入り、マグカップの棚を探した。昨日、うっかりマグカップを割ってしまった。100年以上前の本当のアンティークは手がでないけど、70年代のレトロなデザインの物などは、それほど新品のカップと値段は変わらない。
いつもレジに座っている髭モジャで巨漢のエドがいない。
店の奥、裏口の外でなにやら話し声がした。
裏口から出てみると、路地裏の狭い道路にコンテナトラックが入っていた。トラックは路地裏の幅ぎりぎり。コンテナの後部ドアは開けられ、いくつものダンボールが路地に降ろされていた。
「引っ越し?」
思わず発したわたしの言葉に、輸送業者と話していたエドが振り返った。
「よう、サラ」
「エド、ここ出ていっちゃうの?」
このあたりの家賃も高騰していると聞く。残念に思い顔をしかめた。
「ちがうちがう。知り合いの骨董屋が店をたたんだんでな。閉店セールの売れ残りをもらってきたのさ」
なんだ、そういうことね。
「ただ同然なんで、品も見ずに送ってもらったが、こりゃマイナスになるな」
「マイナス、無料なのに?」
エドは「あれだよ」とばかりに開け放たれたトラックのコンテナを指した。
コンテナのなかをのぞいてみる。
「グランドピアノ!」
「おうよ、さすがに店には入らねえ」
店に入らないどころか、ドアも通らない。マイナスの意味がわかった。これの処分代ね。
「見てもいい?」
エドが髭モジャの顔でうなずいた。
コンテナに入ると、夏はまだまだ先なのに蒸し暑かった。ピアノはコンテナいっぱいの幅で一番奥に残されている。
ピアノはメーカー名がなかった。スタインウェイでも、ベーゼンドルファーでもない。
それに珍しいことに塗装がなかった。黒でも茶色でもなく、木目がむき出しだ。表面をなでてみる。つるりと滑るので、コーティングはしてあるようだ。
鍵盤のふたを開け、Aのラを押してみる。音はAじゃなくAフラットに落ちていた。これは長年にわたって調律されてない。
CEGの三和音を押す。ここの調律も狂っている。もはや和音になってなかった。
「持って帰ってもいいぜ」
エドの声がうしろから聞こえた。コンテナの入口からのぞいている。
「かついで?」
「おう」
笑いながらEマイナーの三和音を押す。マイナー調の切ない音が響いた。
「ん?」
オクターブ上でもう一度。ああ、このピアノ、高音の抜けがやけに強い。
「どした?」
「変なピアノ。木目がむき出し。やさしそうな見た目に反して、高音は鋭い」
「なんだ、おめえみてえだな」
「なんで、わたしよ」
「そこそこの美人だが、中身は男だ」
むっとしたけど、ちょっと当たってる。料理とかもできない。そんなことを覚える前に、ピアノだけを弾いてきた。
「これ、もらってくれよ」
「無理よ、わたしのアパート狭いのよ、このピアノの下で寝ることになるわ」
「いいじゃねえか、ピアノのプロらしくて。そういや寝袋の中古があったな」
「けっこうです。ベッド以外では寝ません!」
「寝る相手もいねえのにベッドかよ」
にらみつけてやろうとしたら、エドは首をすくめてコンテナの入口から身をよけた。
わたしの家では無理だ。でも、わたしが夜に働いているバーなら入るかも。スマホを取りだしてマスターに電話をかけてみる。
「ジェフ? タダでピアノが手に入るんだけど。見た目がちょっと面白くて」
画像を送れと言うので、少し下がり全体を撮って送った。
店にはすでにピアノがある。壁ぎわに置いたアップライトのピアノだ。あの子を手放すのは惜しいけど、ペダルがもう壊れる寸前だった。
ジェフのメッセージが入った。メッセージを開けてみる。
「もらった!」
そう。なら、あとは輸送ね。
「エド!」
髭モジャの顔がひょいとあらわれた。
「もらってくわ」
「か、かついでか?」
「このまま送れるでしょ!」
「お、おう。よし、寝袋を……」
「職場! 家じゃないって」
業者に確認すると、まるまる一日分の費用をもらっているので別の場所への輸送も自由だそうだ。お店のほうのピアノも、別料金にはなるが処分できると。
店の住所を伝え、わたしはバスでむかう。
バスのドアが閉まった瞬間、思い出した。マグカップを買い忘れた。