グリーゼのために ~登山家グリーゼとピアノ講師サラ・バーンズの恋愛~【短編】
第3話 バー・ドルフィンダンス
「こりゃ、やっちまったな」
ジェフが腕組みをしてそう言う。
バー「ドルフィン・ダンス」のオーナー兼マスターだ。顔をしかめると、60近い顔のシワが深くなる。
メインストリートから一本はずれた、裏通りにあるバーだった。でも店は一階。表に面したガラス戸は夏になればフルオープンになる。そこからピアノを入れるのだから搬入は問題なかった。ただ、思ったより場所を取った。
「あそこの席は、死んだな」
壁ぎわのアップライト・ピアノを店から出し、その付近のテーブルを二つのけた。それでもグランドピアノの場所は思ったよりかさばり、ピアノのすぐ前にテーブル席が二つほどせまる。
「ごめんなさい、ジェフ」
言いだしたのはわたしだ。
「まあ、いいさ。テーブルが埋まることもないしな」
ジェフが肩をすくめ、おどけてみせる。
バーの名前「ドルフィン・ダンス」はハービーハンコックの曲名だ。ジャズピアニストの曲から店の名前をつけた通り、昔はジャズバーだった。
ジェフのお父さんが始めた店で、彼は二代目。お父さんのころは繁盛していたそうだけど、もう時代が変わった。
若い人はクラブに行って飲むし、年配の人もロック世代だ。ニューオリンズのようなジャズ好きが集まる街ならやっていけるけど、年々、お客さんは減る一方だと聞く。
カウンターにテーブル15席の小さな店だけど、昔はドラムのセットもあったらしい。店の売り上げが減り、ジャズのバンドを呼ぶのはやめ、ドラムも処分したと以前にジェフから聞いた。
「今日は月曜だ。給料は出ねえだろう。帰るか?」
わたしがこの店に来た一番最初は、客としてだった。店の奥で埋もれていたアップライト・ピアノが可哀想に思えた。弾いてもいい? そうカウンターにいたジェフに聞いたのだった。
なにが気に入ったのか、ジェフはわたしのピアノを気に入り、いつでも弾いていいと言われている。それに客の入りがよければ売上の一部からギャランティも払ってくれる。
ちなみに、この歩合制のお給料で100ドルを超えたことはない。
「せっかく調律師も呼んだのよ。弾いて帰るわ」
「なら、飯でも食っとくか。チキンバターのタコスがある」
このバーの仕事、お給料が出なくても続ける理由。ジェフの料理は美味しかった。