グリーゼのために ~登山家グリーゼとピアノ講師サラ・バーンズの恋愛~【短編】
第4話 若者からのリクエスト曲
ジェフの予想通り、夜の9時まで人は来なかった。今日、初めての客は表の黒板メニューを見た男性の4人。20そこそこと思われる若い4人だ。店名で入ったきたとは思えない。お目当てはチキンバタータコスだと思う。
男の子の一団は、表通りに面したガラス戸すぐの席に座った。わたしはそれを、カウンターに座って眺めていた。
お客さんから弾いてと言われない限り弾かない。それは、わたしが決めたマナーだ。だれもが音楽を愛しているわけじゃない。実際、ピアノを弾き始めると帰るお客さんもいる。
「帰ってもいいぜ」
ジェフがそう言って、お皿に載ったティーカップをだした。
「22時まではいるわ。気になるリアリティショーもないし」
わたしは笑って答え、ティーカップを口にした。
「ハーブティーね。おいしい」
ジェフも笑った。白髪交じりのマスターだけど、食べ物と飲み物に関する気配りは細かい。ほんと、ジェフがもう20歳若かったら、わたしは彼の奥さんに立候補する。
「今日はノー・ステージですか?」
若い男がカウンターに来て言った。20歳を超えているが、キャップ帽を反対にかぶり、服はTシャツ。整えられたアゴ髭がなければ、ハイスクールに通えそうだ。
「ノー・ステージ?」
カウンターのジェフが首をひねって返したが、若い男はピアノを指した。ああ、そういう意味ね。あのピアノにしてよかった理由ができた。目立つ。
「わたしが、ここのピアニストなの」
若い男に体を向けて言った。
「あー、クラシック?」
女性のピアニストはクラシック。ありきたりなイメージだけど、当たってる。
「知ってる曲であれば、なんでも弾くわよ」
「わお、じゃあ、仲間に聞いてきます!」
「テーブルに紙があるから!」
男の子の背中にそう告げ、ピアノへと移動する。鍵盤のフタを開け、しばらく待った。キャップ帽の男の子はカウンターのジェフではなく、わたしに直接、紙切れを持ってきた。折りたたんでいたそれを開く。
" Sugar "
なるほど、マルーン5ね。
最初の和音を弾いて、思わず口を曲げてしまった。試し弾きしとけばよかった。調律師によって音程は合ってるけど、音の強弱はバラバラだ。
「これ、すごいクセがありますよ」
夕方に呼んだ調律師の人も、そう言ってたっけ。
弾きながら、男の子たちを見た。ビールの小瓶を片手に談笑している。乗りこなせないピアノに手こずりながらも、なんとか最後のフレーズを弾き終える。男の子は、もうひとつの紙を持ってきた。
「ごめん、もう一回、弾いていい?」
「あ、はい……」
ずいぶん中途半端な演奏になった。一度、低音から高音までを押していく。問題がありすぎる鍵盤が3つ。ここは使わないようにしよう。
目をつぶった。クセが強いので、ちょっと集中しないと曲が乗らない。
「うわっ……」
男の子が、何か言った気がする。目を開けると、テーブルに帰っていくところだった。気に入らなかったかな。でも、最後までは弾こう。
最後はテンポを落とした。こもっていた音が、少し皮が剥かれたような新鮮な音になった気がする。
まあ、こんなところかな。弾き終えて目を開けると、さきほどの男の子が立っていた。少しびっくりした。紙の切れ端を広げている。
” Girls Like You ”
それも、マルーン5の曲ね。わたしはうなずく。今度は少しテンポアップした。男の子のうしろから、ほかの三人もやってくる。四人はやがて歌い始めた。それもいいかも。学校の先生になった気分。
曲が終わると、男の子4人はハイタッチしあって喜んだ。気に入った? それはどうも。
マスターのジェフが紙切れを持ってやってくる。あれ? 店内を見ると、お客さんがもう2組ほど増えていた。そのうちのひとりが、わたしを見てロックグラスを持ちあげる。あの人がリクエストした人ね。中年の男性。
ジェフから紙切れを受けとり、開いてみる。
” Qeen ”
なるほど。あの中年男性は、間違いなくイギリス人ね。マルーン5はロックじゃない。きっと、そんなことを思ってる。
わたしはジャケットを脱ぎ、袖をめくった。クイーンか。曲の指定はない。でも、期待されてるのは、きっとアレ。
特徴的な最初の出だしを弾いた。
「Bohemian!」
中年の男性がさけんだ。そう、ボヘミアンラプソディ。ピアノでやるような曲じゃない。そうなんだけど、クイーンを好きな人はだいたいこの曲をやると喜ぶ。
バラードタッチの一楽章が終わり、変調。わたしはイスに浅く座りなおした。大合唱のパート。それを和音の連弾であらわす。拍手と指笛が聞こえた。
このピアノ、ほんとに高音の抜けがいい。暴力的に弾いてみよう。大丈夫。フレディだもん。
力強く大合唱のパートを弾き、ギターソロの部分はカットする。そして、最初のバラードタッチへ……
曲の終わりを示す和音をそっと置くように弾くと、場内にいた5組のお客さんから拍手を受けた。
そこから、何曲かロックやポップスのリクエストが来る。これは皮肉ね。弾きにくいピアノだから、集中して弾かないといけない。でも、お客さんは乗ってるみたい。
” Bagatelle No. 25 in A minor ”
あら? 何枚目からのリクエストが書かれた紙切れを開け、その文字を見て顔を上げた。
ベートーベン小作品25番のAマイナー。この名で呼ばれることは少ない。エリーゼのために。
カウンターにいた男と目が合った。昼間の彼。登山家のグリーゼ・ロジャー。わたしは少し考えた。昼間の彼が聞いた音は、10万ドルするスタインウェイのピアノだった。このピアノは、ただの拾ったピアノだ。
タンタンッと最初の二音を弾き、音のまずさがわかった。目を閉じる。クセのあるピアノだ。わざと引っかかるように弾いてみる。
この曲の第二楽章は、打って変わって曲調が明るくなる。力強く弾いてみた。これも違う。正解を探して探して、わからないまま曲は終わった。
鍵盤のフタを閉めて立ち上がる。ぱらぱらと拍手が聞こえ、手を振って返した。
カウンターに歩いていく。登山家のグリーゼは、ジーンズにシャツという出で立ちだった。雑誌などで見た姿は、すべてナイロン製の登山服だった。よくよく見ないとグリーゼだと気付かれないだろう。