グリーゼのために ~登山家グリーゼとピアノ講師サラ・バーンズの恋愛~【短編】
第5話 丸めた紙
「やっぱり、きみのピアノはいいね」
グリーゼが笑顔をむけてくる。隣に座った。
「ぜんぜん。なるべく、昼間に聞いたものと遜色ないようにしようと思ったけど、だめね。正解がつかめないまま終わった」
彼が目を輝かせた。
「すごい、じゃあ、おれに聞かせるために弾いてくれたんだ」
「そうとも言えるわね」
「エリーゼのために、ならぬ、グリーゼのために」
彼は自分のジョークに笑ったけど、わたしは眉をひそめた。
「ちょっと、ベートーベンに失礼よ」
「コンサート、いや、リサイタルとかの予定は?」
わたしの注意は軽く流された。
「わたしは、ただのピアノ講師よ。コンサートなんてないわ」
「すればいいのに」
少しいらだった。世界にピアノ奏者が何人いると思っているのか。
「リサイタルできるようなピアニストは、ほんの一握り。有名なコンクールででも優勝しないと無理ね」
「きみなら優勝できるよ」
それは無神経だ。コンクールには数えきれないほど出た。二度や三度ならいい。ひたすらに落ち続け、やがて落ちても悲しくない自分に気付き、コンクールをやめた。
「そう簡単じゃないの。生活もしないといけないしね」
コンクールを受ける者は、生活の全てをコンクールに向けている。学生時代に取れなければ、ほぼ難しい。親に食べさせてもらいながら、一年中コンクールの準備だけをする相手には勝てない。
「そうか、そうなるとスポンサーが必要か」
無名のピアニストにスポンサーなんて聞いたことない。
だんだん、彼がうとましく思えてきた。普通の生活をしている気分はわからないだろう。彼は年に何回か、登山すればいいだけだ。
「あー、来週にゴジュンバカンに発つのだが、それまではこの街にいる。良かったら……」
彼はカウンターの端にあるロックグラスに入った紙切れを一枚取った。それはピアノのリクエストに使う物だ。
なにか番号を書いて、わたしに差し出した。彼の指に挟まれた紙切れを見つめる。
「それは、わたしが独身だから?」
「そういう意味では……」
ため息をひとつつき、言い返そうとした時、わたしのイスのうしろに人影が立った。
「今日はもう終わりですか?」
最初の男の子。まだいたんだ。
「いいわ、リクエスト持ってきて」
「はい! すでに弾いた曲でもいいですか?」
「もちろん」
男の子は駆けてもどった。わたしはグリーゼが持ったままの紙切れを取り、丸めて返す。
「登山家の休暇につきあうような気分じゃないの」
イスから立ち、カウンターを背にした。チームを組まない登山家。彼を書いた記事は面白く、何度か読んだ。でも、孤高な人かと思ったけど、軽い男だった。バカンスの相手にされたら、たまったものではない。