グリーゼのために ~登山家グリーゼとピアノ講師サラ・バーンズの恋愛~【短編】
第6話 心をこめて
木目のピアノに座り、鍵盤のフタを開けた。
あの四人のリクエストを演奏して、今日は帰ろう。
入口から出ていくグリーゼのシャツ姿が見えた。
「いやあ、ひじょうに興味深いのが……」
男の子が笑いながらピアノに来る。
「いいわ、ちょうだい」
そう言って言葉をさえぎり、リクエストの紙をもらった。ピアノ用のイスが少し高く感じ、サイドのネジを回して調節する。
四枚の紙。とりあえず鍵盤の上に置いた。
" Elise "
" Elise "
" Elise "
" Elise "
4枚ともが同じ。どういうこと? 聞こうと思ったら、男の子はすでに席に帰っている。
ジェフがピアノの側に来た。ほかのお客さんのリクエストを持ってきたのだろう。
「ジェフ、4人のリクエストが同じだわ」
「おう、ありゃ、よく弾けてたからな」
冗談でしょ。エリーゼのためによ。だれにでも弾けるわ。
ジェフが4枚の紙切れの横に、もう1枚足した。
" Passion No8 "
そんな曲はない。曲はないが、なんの曲かはわかった。
「アルバムを出してたとはな。なんで言わねえ」
自費出版に近いCDだった。若いころの勢いだけで、タイトルを「情熱」とした。その8曲目。
彼がなぜ「Bagatelle No. 25 in A minor」と書いたのかがわかった。わたしのアルバムがそうだったからだ。
アルバムの最後の曲。ありふれた、この曲で締めようと思った。いつまでも初心を忘れないために。
「彼、わたしを知ってたのね」
「ああ、ファンだって言ってたぜ」
わたしは愚かだ。思わず天上を見つめる。
「これは彼が?」
「いや、俺だ」
「ジェフ?」
白髪交じりの初老マスターを見上げた。
「だれかのために弾くってな、気合いが入るだろ。その情熱ってアルバムは、言葉通り情熱にあふれたアルバムだったらしい。俺にも聞かせてくれや」
だれかのために弾く。気合いが入る。その通りだった。
わたしは昼間に教えたデボラを思い出した。いいピアノがあるから弾きなさい。違うわね。ママに聞かせるために弾かないと。
わたしはピアノから立ち、4枚の紙をつかんで男の子4人のテーブルに行った。
「あの、何か?」
「この紙に、名前を書いてもらっていい? あなたたちを思って弾きたいから」
ひとりが急いで、テーブルの上にあるロックグラスの中のペンを取った。
「光栄です!」
紙に名前を書いてペンを次にわたす。
「あの、名字と名前はどちらのほうが?」
眼鏡をかけた神経質そうな男の子が聞いた。
「どちらでも。あの、書きたくなかったら、ハンドルネームでもなんでもいいわよ」
神経質そうな子は宙を見て考えこんだ。
「……フルネームにします」
「ミックずるいぞ! ぼくもそうする!」
最初に書いた子がペンをもぎ取った。こんなに喜ばれるとは思わなかった。
名前の入った4枚を持って帰り、譜面台にならべる。それからジェフの紙も。ジェフのおじいちゃんな顔を浮かべると、アダージョ(ゆっくり)になりそう。チキンバターのタコスを思い浮かべることにする。
4人と1皿を思い浮かべ「エリーゼのために」ではなく「 Passion No8 」を弾こうと思う。情熱。なんてセンスのないタイトル。でもそれを弾く。拾ってきたようなピアノだけど、グランドピアノだ。パワーだけはある。
鍵盤の上に指をかまえ、目を閉じる。
始まり。有名すぎる「ミレミレミシレド」のメロディ。とにかくやさしく。ここでわたしは左手のアルペジオをほんの少し16分の1拍、遅らせる。アルバム「 Passion 」でやった弾き方だ。
左手が少しずれて追いかけることで、曲が途端に不安定になる。どこに行くんだろう、何をめざすのだろう、そんな気分にさせる。
そこから打って変わって明るいパートへ。だんだんと力強く。
ベートーベンの曲は、根底に流れるものが、とにかく明るい。難聴の作曲家、ハードな人生。それでも作る曲には憂鬱さの影も形もなかった。
フレッド、ミック、アンドレオ、ケビン。聞いてる? ベートーベンの曲が持つ「生きる悦び」それが伝わればいい。それにチキンバタータコス! あれこそ生きる悦びね!
軽快なパートから、もう一度、最初のメロディへ。ここからは左手の「遅れ」は使わない。なめらかに、かつ、力強く。
少しずつ、少しずつ、クライマックスへの予感。そうだ、このピアノは高音の抜けがいい。音の響き、それだけに集中してみよう。
物語は後半へ。この曲で一番激しいパート。左手の同音連打。激しさ増すばかりの指とは裏腹に、身体に染みこんだペダルの使いをさらに厳密に。
このピアノも乗ってきた。いいじゃない。いい音。わたしはそう思う。
気付けば、明日への夜明けを期待させるような最後のメインメロディを弾き、鍵盤の上で余韻とともに止まっていた。