グリーゼのために ~登山家グリーゼとピアノ講師サラ・バーンズの恋愛~【短編】
第7話 拍手喝采
お店のなかは静まりかえっている。伝わらなかった? でも、これが今のわたしの精一杯だ。立ち上がり、だれに向けてというわけでなく、お辞儀した。
「Bravo!」
あの最初の男の子が立ち上がり叫んだ。それを機に、お店のなかの全ての人が立ち上がり拍手をした。
「マスター、マスター!」
男の子は拍手のなか、ジェフに向かって叫ぶ。
「彼女に飲み物を!」
ここでピアノを弾くようになって、酔っ払いから酒を勧められたことは何度もある。お客さんに飲み物をおごられたことはない。でも、今日はいいような気がした。マスターのジェフと目が合いうなずく。
男の子たちのテーブルに近づくと、そのうちの一人が急いで自分のイスをはずし、となりの席からイスを移動させてセッティングした。イスの背もたれを持ち、わたしを待つ。
若いからといって、子供扱いは失礼なようだ。わたしが座るのをエスコートしている。名前はたしかアンドレオだったかな。
「ありがとう」
わたしがイスに座る動作に合わせ、アンドレオはイスを押した。マスターのジェフがグラスに注がれた一杯の白ワインを持ってくる。
「ぼくらのための演奏に感謝します!」
男の子たちと乾杯し、ひとくち白ワインを飲んだ。あら? この白ワイン、お店のグラスワインで出す安物じゃない。ジェフを見ると、こっちを見てウインクした。なるほど、これはジェフからのご褒美らしい。
さきほどの演奏がいかにすごいか。男の子たちは口々に話した。そうね、専門用語なんで知らなくても、音楽の感想は言い合える。専門用語が必要なのは、批評家という肩書きの人たちだけだ。
大人になれば、あまり褒められるということもない。背中がくすぐったいような気もするけど、今日の白ワインは格別に美味しい。
「強さがちがうよなぁ!」
フレッドが言った。
「強さか。どうなんだろう、悦び、そんな感情にも思えた」
神経質そうなミックが眉を寄せて考えている。よかった。四人には伝わった。それにしても、いい子らね。最初に入ってきた印象をわたしは反省した。
「さきほど、皆と話したのですが……」
あらたまってキャップ帽のフレッドがわたしに向いた。
「ぼくらの会社は、いくつかのウェブサイトを運営しているのですが、この前、地元のラジオ局を買収したんです」
若い風貌の口から「買収」と言葉が出たのに驚いたが、ここはシアトル。IT関連の会社が多いのであり得る話だった。
「ラジオ局はウェブ配信ともからませていきたいのですが、肝心の中身がない。なにか面白い放送はないかと思ってたんです」
言われている意味はすぐにわかった。うそでしょ。わたしは自分を指さした。
「はい。リクエストを受けて即興のライブ。いや、ピアノだからリサイタル、ですかね?」
フレッドがわたしに聞いてきた。リサイタル。どちらでもいいけど、グリーゼもそう言っていた。
ラジオ局のライブ。わたしの子供ころはあった気がする。今ではそんな話はめったに聞かないけど、珍しいぶん、いいかもしれない。
「フレッド、それなら動画配信も同時だな」
気難しそうなミックが言った。
「配信か……」
思わずつぶやいてしまった。
「だめですか?」
フレッドが食い入るように見つめてくる。
「ああ、そうじゃないの。わたしなんかでよければ、なんでも」
「なにか、心配が?」
「心配じゃなくて、そうね、ちょうどいい機会だから教えて欲しいんだけど、配信の音って、なんであんなに艶がないの?」
四人が意味がわからない、といった感じで首をひねった。
「ラジオの音やレコードの音って、耳障りがいいでしょ。ストリーミングの音って、どんどん新しいのはできるけど、音は変わらないのよね」
ミックが眉を寄せた。
「それは、おかしいです。FMで流してるデータ量と、ストリーミングのデータ量は比べ物になりません。そもそもデジタル化して……」
そうか。けっこうこの話は「わかる!」という人もいれば、そうでない人もいる。やっぱり好みの問題だけかもしれない。
「待てよ、ミック」
フレッドがミックの言葉をさえぎった。
「プロのミュージシャンがそう言うんだ。そうかもしれない」
「そうか?」
「ミック、いつもどうやって音楽を聴く?」
「どうって、スマホで」
フレッドは、かぶっていたキャップ帽を取り頭をかいた。
「だろ、スマホからイヤホンだ。でも、アナログレコード集めてるやつとかいるだろ。そういうタイプは、ぜったいレコードだし、ハイブランドのスピーカーで聴く」
わたしに場所をゆずり、うしろで座っていたアンドレオが話に加わろうと身を乗りだした。
「ってことは、あれか。ラジオ電波で発し、ハイブランドのスピーカーから流した音をもう一回取りこんで……」
「そうなんだ、アンドレオ。音がラジオの音になる」
「それ、面白いかも!」
ミックは逆に、頭を抱えた。
「ぜったいラジオと配信でタイムラグ起きるよ、面倒臭そう」
「せっかくラジオ局が買えたんだ。やろうぜ。ラジオ局のほうにライブ室作って。あっ、待てよ……」
フレッドは立ち上がり、店のピアノを見つめた。
「ここからすればいいのか」
「ええっ? お客さんの声も入るわよ」
「それがまたいいよ。ラジオ中継と動画配信。ざわざわした空気感もあって」
「うわっ、おもしろそう。打倒ボイラールームだ!」
「ボイラー?」
なぜ湯沸かし器なのか、首をひねったらフレッドが説明してくれた。
「世界中のクラブからDJがやるライブ配信なんだ」
なるほど。テクノ界隈では、そんなことをやってるのね。クラシックが時代に取り残されるわけだわ。
「おれ、お店と話してくるよ」
アンドレオが席を立ち、カウンターのジェフのもとへ向かった。すごい行動力。ここシアトルで会社をやってるだけある。
「でも、さっきの話」
フレッドが話し始めた。
「ラジオと配信の違い。そういう専門家の話って面白いな。トークでもラジオに出てくれる?」
フレッドに聞かれ、もちろんうなずく。それと同時に、いたずらっぽい名案も生まれた。
「トークで言えば、もっと面白そうな人に会ったわよ」
「だれ?」
「さっき、カウンターにいた男性」
フレッドは宙を見て思い出そうとしていた。
「あのシャツを着た……」
「そう、単独登山の」
「グリーゼ、グリーゼロジャーだ!」
フレッドにもわかったらしい。どこかに電話をかけ始めた。
「ああ、ステフ? シアトルにグリーゼ・ロジャーがいるみたいなんだ。ラジオ番組に呼んでよ。ぼく、彼のファンなんだ」
やっぱりすごい行動力。あとで聞いたけど、電話口のステフっていうのは、ラジオ番組のディレクターらしい。
「連絡取ってみるってさ」
「そう、その日、わたしも行ってもいい?」
「もちろん、連絡するよ!」
フレッドと連絡先を交換して、わたしは席を立った。もう少し、ピアノを弾きたくなった。グリーゼとまた会う時、あのアルバムに入れた違う曲も聴かせたい。