おとぎ話を信じる年齢なんてとっくに過ぎました!~OLシンデレラと大人王子~
 「甘い一夜」、それに似合う時間を過ごした二人は朝を迎えていた。チェックアウトまではまだ時間があるが、寝起きの煙草を吸えていない章介はまだぼんやりとしている。代わりにと、千秋がルームサービスの朝食を受け取りにいこうとすると、その腕を掴んだ章介によってベッドに戻されてしまう。
 「千秋さんはここで待ってて――。」
 寝起きだと、普段の大人の余裕が少しだけ削れて独占欲というものが顔を出すらしく、小さく口づけを落としてから彼が応対することになった。この寝起きの一瞬というものが、千秋は好きだった。大人の余裕に覆い隠された、彼の本心はなかなか見ることが出来ないからである。にやけながら待っていると、相変わらずぼやりとしたままの章介がカートを引いて戻ってきた。ベッドサイドにそれを停めて、彼は再び千秋を抱き寄せる。彼のシャツを着た千秋の、少し見える首筋へ顔を埋めて唇を寄せたり好き放題だ。
 「章介さん、くすぐったい――先に食べましょう、チェックアウトの時間になっちゃう。」
 どうにか彼を引きはがすことに成功した千秋は簡単な朝食を食べ始める。やはりホテルのスイートルームとだけあって簡単ながら十分美味しいそれに舌鼓を打つ。章介は諦めてシャワーを浴びることにしたらしく、バスルームへ向かった。
 「でも、本当に良かったんですか?新婚旅行。」
 「良いんです。また別の機会に行けますし、今は章介さんと日常を過ごしたいもの。」
 シャワーを浴びて頭がどうにか起きたらしい章介が尋ねかけると、千秋は首を振って答えた。そろそろチェックアウトの時間だ。千秋は起きたときに、あの挙式は夢だったのではないかと思ったが隣で眠る章介と、いつもと違う光景に安堵を覚えたのは内緒である。

 それから数日間、二人は新婚生活に相応しい日々を過ごしていた。寝食を共にし、語り合い、笑い合う。この「おとぎ話」は、「二人はいつまでも幸せに暮らしました。」では終わらない日常なのだ。
 ダイニングテーブルには大きな薔薇の花束が花瓶に入れて飾られている。章介が昨夜、仕事の帰りに買ってきてくれたものだ。側へ寄ると薔薇の良い香りがする。それに合わせてか、彼は今朝ローズヒップティーを淹れてくれた。朝食も勿論彼の手製である。しかし、そろそろ千秋も何かしなくてはと思い始めている。全て彼の仕事では寿退社までした意味がなくなってしまう気がしてならなかった。
 「ああ、千秋さん、そうだ。明日から二日間ほど出張に行ってきます、今度はパリです。何か欲しいものはありますか?」
 いくら日本でのプロジェクトが進行中とはいえ、彼の出張は避けられないものである。だが二日間ならば耐えられるだろうと、千秋は小さく微笑みながら思案する。どうせなら二人で楽しめるものが良いだろうと提案することにした。
 「パリかあ……じゃあ本場のお菓子、章介さんが子供の頃おじいちゃんに貰っていたものが良いです。あとは、良い香りのする入浴剤。頼みすぎですか?」
 「いいえ、問題ないですよ。必ず買ってきましょう。」
 懐かしいな、などと呟く彼は何か子供の頃を思い出したのか、柔和な表情を更に和らげて思考の旅に出かけているようだ。千秋はその間に朝食を食べ終えた食器類を食洗器に丁寧に入れた。
 「さて、仕事に行ってきます。」
 「行ってらっしゃい。」
 そこいらの新婚さん宜しく、頬へのキスをして見送るのは挙式してからの彼らの流行になっている。バルコニーへ出て、彼のスポーツカーが消えていくのを手を振りながら見送った。
 翌日となり、章介は言っていた通りパリへと出張に出かけて行った。彼と一緒に居ない間の千秋は当然退屈である。何分、何か作ろうかと思っても二日間だけだからと彼が食事を全て保存容器に入れて用意していってくれている。洗濯物も自分の分だけならばすぐに終わってしまい、観ない間に女児向けアニメの「ゆめいっぱい!シンディーズ♡」への情熱も冷めてしまった。真智に連絡しようにも、今日は平日で彼女は仕事だ。仕方なく散歩にでも出かけることにして、少し厚着をし化粧をする。秋は深まってもう少しで冬になろうかというぐらいに寒いときもある時期だ。少し歩いたところでバス停からバスに乗った、連の居るカフェのことを思い出したからだった。彼には章介が体裁のために結婚しようとしていることを聞いたときや、先日の挙式の際にも世話になっている。一度顔を出しておくのも悪くはないだろう。連絡先は店の番号しか知らないので生憎と今から行く、などという連絡は出来ないが開いていれば入ろうぐらいの感覚だ。
 生憎とカフェの扉には「Clоsed」の文字。
 「――千秋ちゃん?」
 千秋が残念に思っていると後ろから声が掛けられた、店主の連である。これ幸いとばかりに互いに歩み寄る。
 「今日はどうしたの?」
 「いや、章介さんが出張に行ってしまったから……連くんのお店ならお話しも出来るかなと思って。」
 「今日は少し用事があって閉めてたんだよ、ごめんな。でも千秋ちゃんなら特別サービスで!お祝いも兼ねてってやつね。」
 言いながら連は店の鍵を開けて千秋を中へ案内した。勿論掛けられた「Clоsed」の文字はそのままだ。いつもと異なり、灯りのついていない店内はこれはこれで趣があるように思える。彼はカウンター周りだけ灯りを点けて、買い物してきたものを片付けている。
 「適当に座ってて。もう少ししたらコーヒー淹れるからさ。」
 優しく、年下ながら兄のような連に甘えることにして、千秋はいつものカウンター席へ腰を下ろす。この優しさが、人妻である千秋に対する連の恋心からくるものだということに彼女は気づかない。そしてすぐにコーヒーの良い匂いがしてくる。
 「今日の用事は、デザートの試作品用の買い出しだったんだ。だから時間を決めて開けても良かったんだけどね。あ!そうだ、連絡先聞こうと思ってたのを忘れてた。コード貸して!」
 千秋もちょうど彼の連絡先を聞こうとしていたので、これはちょうどいいとばかりにコードの画面を見せる。すぐに連絡先の交換が終わり、美味しそうなコーヒーがテーブルへと出された。
 「今日のデザートは……うーん、試作だけど食べてみる?」
 「いいの?」
 「俺だけの意見だとやっぱり独りよがりになりそうだから、寧ろ食べてくれた方が助かる!」
そう言って連は店の冷蔵庫からデザートを出してきた。ピスタチオのムースにチーズクリームが層になって、ココアパウダーが上に振りかけられている。何とも美味しそうだ。
 「ん、美味しい!これ、ナッツの香りがよくするし、チーズの酸味もプラスされて上にココアパウダーがかかってるから、甘すぎない。男でも女でも好きだと思う!」
 試作品だと言う割に完成度の高いお菓子に舌鼓を打って早口に言い切ると、連はにかっと笑った。
 「じゃあ商品化もありかなー。千秋ちゃんは何か家で作ったりするの?」
 「いや、章介さんが全部やってくれるの。料理も、他の家事も全部。私寿退社までしたのに、何もすることなくって。」
 「それで此処に来たわけだ、なるほど――そういえば松比良さん、披露宴のケーキ結構食べてたけど甘いものが好きなのかい?」
 よく人を観察するのは彼が若くして店主たる所以だろう。千秋はこくりと頷いて、残ったコーヒーを飲み干した。外を歩いて冷えた体がやっと温まって心地よい。
 「じゃあ、俺と一緒に少しお菓子作ってみない?まず簡単なやつから教えるよ。そうしたら少しやることも出来るだろ?」
 「ほんとに!?いいの?」
 食い気味に聞き返した千秋に連は楽しそうに笑った。時々、左手薬指に目がいくようだが見ないようにしているようだ。そして千秋の問い返しに頷いた連が、こっちへ来るようにと手招きしている。
 「わー、お店のカウンターの中ってこうなってるんだね。」
 「そうそう、案外物で溢れてるでしょ。」
 そう言う彼の言葉に、千秋は一人で住んでいた頃の家を思い出した。今は章介が全て片付けをしている上に、自分自身も汚さないよう気を付けているためあの状態になっていないだけだ。
 「そうだな、まずはベイクドチーズケーキなんてどう?混ぜて焼くだけ。でも冷やして食べると美味しいってやつ。」
 連は少し考えてから、クリームチーズや生クリーム、小麦粉などの材料を作業台の上へ全て取り出した。
 「材料はこれだけ。量って順番に混ぜて型に流し込んで焼く。手順もこれだけだし簡単でしょ。」
 千秋はこれなら自分でも出来そうだと、袖を捲った。何となく章介の「神経質」がうつり始めたのか、肘辺りまで丁寧に洗って連の指示を待つ。
 「先に材料を量ろう。レシピはこれを参考に。」
 出てきたノートは随分古いもので、このカフェに合うと言えば合っている。
 「よし、上出来。じゃあ、先にクリームチーズを練ってみよう。それから砂糖と混ぜて、小麦粉と卵、そして生クリームと合体だ。レモン汁はお好みで!俺は酸味のある方が好きだから少し多めにするけれどね。」
 連は話しながらだが、一方の千秋はレシピを覚えるため必死で返事をする余裕もない。大体混ざりきったところで、連が型を出してくる。
 「今日は試作品用にたまたまあるんだけど、型はこういう紙で出来たもので大丈夫。あとはオーブンをセットしてあるから、型に流し込んで焼くだけ。」
 言う通り、慎重に型へ液体を流し込んで数度台へ落とし気泡を抜く。それから天板に型ごと載せてオーブンへ入れた。あとは焼きあがるのを待つのみである。
 「ね?簡単だったでしょう?膨らまないから特に気を使う必要もないし。」
 「これなら私も出来そう。ありがとう、連くん。章介さんが日本に帰ってきたら作ってみるね。」
 横恋慕している連にとって千秋のその純粋な想いから出るそれは少し辛い言葉だったので、彼は話題を変えることにした。焼き上がりまではまだ30分ほどある。
 「焼きあがるまで暇だし、少し話を聞いてくれる?つまらないかもしれないけど。」
 笑いながら連が千秋に問いかけると、彼女はすぐに頷いた。「座ろう。」と言う連と共にカウンター席へ戻って腰を下ろす。
 「実はさっきのレシピノート、俺の母さんのなんだ。このカフェも母さんの夢でね。ああ、あまり重く考えないで欲しいんだけど母さんは健在だし別のところで店をやってる。だから、別に母さんの夢を継ぎたいとかそういう大層なものでもないんだよね。」
 それを念頭に置いてね、と連がウインクしたので頷いておく。てっきり、そういう話を想像した千秋は一瞬身構えたが本人曰く、違うらしいので内心安堵した。
 「この場所はさ、誰かの拠り所になるために生まれたんだって俺は勝手に思ってる。勿論、俺自身の居場所でもあるし、お客さん一人一人の居場所や拠り所であれば良いって勝手に思ってる。まあ、俺の自己満足だけど。ただコーヒーを飲んで、ただお菓子を食べるってことは、少しだけ心に余裕がないと出来ないことなんだ。だから、その誰かの少しの余裕をちょっとだけでも広げたり、寛いだなーって思える瞬間を作れることって凄いことだと思っててさ。だって、何か人に影響を与えることって、少なからずその人の人生の一部になるってことだろ?一瞬だけでも、このカフェが思い出になったり、そういう瞬間を作ったり出来たら凄いなって思ったわけ。煩わしい俗世からの逃げ場所にしても良いし、ちょっとだけ話したいから来てみた、とか、そういうのでもなんでも良いんだ。捉え方はそれぞれだけど、ってそろそろ焼けたね。」
 連の店に対する想いを聞いた千秋は感動を覚えていた。確かにそうである、誰かと関わることは誰かの人生の一頁になることだ。それに、彼の言う通り千秋自身もこの店を拠り所にしている帰来がある。そんな風に考えていると、チーズケーキの良い匂いがした。
 「上手に焼けましたー!なんてね。」
 とあるゲームの物真似を披露した連の声は明るい。深い想いを聞いた千秋は、ふふと小さく笑んだ。
 「これは一晩冷やした方が美味しいんだけど、千秋ちゃん明日も来られる?」
 「明日も章介さんはいないし、来られるよ!」
 連は「じゃあ待ってるね。」と言って笑った。
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