おとぎ話を信じる年齢なんてとっくに過ぎました!~OLシンデレラと大人王子~
冬になった頃、彼らは無事に引っ越しを済ませていた。章介は殆ど出社せず、家で仕事をするようになったので千秋も一緒に居られることを喜んだ。ただ、「悪魔のようだ。」と比喩した秘書の言葉は強ち間違いではなかったらしく、彼の書斎から時折聞こえてくる声は普段の物腰柔らかな雰囲気とはまた違って、経営者そのものだ。千秋にとっては彼のそういった姿や声を聞くことは嫌いではなく、寧ろ好きだったが彼はその姿を見せるのを良くは思っていないらしい。あくまで優しい夫でありたいとのことだった。季節柄、寒くはなったが、暖炉に火を灯せばかなり暖かい。上から照らす照明は大体22時頃には消されて、間接照明が点灯する。そうすると、まったりとした雰囲気が醸し出されてこれまた心地よい。彼らが引っ越して良かったと思える瞬間だ。一緒にワインや洋酒を飲むこともあれば、ただ引っ付いて過ごすこともある、それが彼らの日常だった。
そして今日は章介が久々に出社する日だ。いつぞやしていたように頬へキスをして送り出すと、千秋は連に教えて貰ったレシピについて思い出した。食品の類は殆ど彼が管理しているが、実はこの日に合わせて足りない材料を宅配で頼んでいた彼女は彼にちょっとしたサプライズを仕掛けるつもりのようだ。
「えーと、生クリームは150mlね……。」
ぶつぶつと呟きながら、レシピ通りにお菓子作りを進めていく。オーブンレンジを温めながら、紙で出来た型へ液体を流し込んで教わった通りにそれを焼く。慣れない菓子作りとあってか、綺麗だったはずのキッチンが少し汚れてしまったので焼いている間に掃除を行うことにする。時折出る鼻歌は女児向けアニメのそれだが、彼女は無意識に歌っているのでそれに気づいてはいない。冷めても結局彼女はそれが好きだったらしい。焼き上がりに近づくにつれて、部屋中が甘い香りに包まれていく。この香りで帰ってくる章介にバレないかとは思うが、それはそれで良いかと無理やり納得して彼女はオーブンから天板ごとケーキを取り出した。連と作ったときと同じような焼き色がつき、あとは粗熱が取れるのを待って冷蔵庫で冷やすだけだ。
「でも待って……そのまま冷蔵庫に入れたら、すぐにバレそう?」
考えた彼女は、近くに100円均一があることを思い出した。そこでそれらしいケーキ箱を買えば買ってきたものと勘違いしてくれるかもしれないと考えたのである。思い立ったが吉日、とばかりに彼女はコートを着込んで外へ出た。吐く息は当然ながら白い。寒いので手をポケットに突っ込んで歩く。滅多に見ない隣人が居たので、挨拶がてら軽く会釈する。
目当てのものはすんなりと手に入り、さて帰ろうと思ったところに連絡がひとつ。
――会議が早く済んだので、これから帰ります。
章介からの連絡である。彼女は急いで帰路へつき、すぐに粗熱の取れたケーキを箱に入れて慎重に冷蔵庫へ仕舞った。食洗器に入れていた料理道具も元あった場所へ仕舞っていく。数センチずれただけでも気づきそうな彼のことなので、それもまた慎重にしなければならない。急いで換気扇を回して、ケーキの香りをとばそうを必死になる。彼の車の特徴的なエンジン音がして、すぐに換気扇を消し何事もなかったかのようにお気に入りとなったソファへ座っていたふりをして彼を迎えに出る。
「おかえりなさい、章介さん。」
「ただいま、千秋さん。今日のお土産。」
そう言って差し出されたのは、美しい百合の花束だ。彼は最近、仕事に出かける度に花束を買って帰ってくる。家具を買いに行った際に序でに買っておいた花瓶へそれを活け、ダイニングテーブルへ飾ると千秋は嬉しそうに微笑んだ。
「さて、夕食の準備を始めますから千秋さんは待っていてくださいね。」
章介は嬉しそうに花を飾る千秋の姿が見たくて、毎度花束を買ってきているのだがそれは一切伝えていない。キッチンへ入ると何かを作ったような形跡があるのにすぐ気が付いたが、待っている間お腹が減ったのだろうと片付けて料理を進める。今日の夕飯は帰りに買ってきたばかりのバゲットとラタトゥイユ、そしてフランスから取り寄せたチーズである。それに合うものもワインセラーから選んである。毎朝か前日の夜に、夕飯はどうするか考えるのは章介の習慣だ。大人しく待つことが出来なかった千秋は結局、アイランドキッチンに近寄って手慣れた様子で切られていく野菜を眺めながら感嘆の声を上げる。
「流石ですね――素敵、章介さん。」
「はは、野菜を切っているだけですから大袈裟ですよ。でもありがとう、千秋さん。」
同じやり取りを何度も繰り返しながら良い香りのしてきた鍋を彼女がそっと覗いた。
「カトラリーとグラスをお願いできますか?」
はじめの頃こそ本当に一切何もやらせてくれなかった彼だが、最近はこういった子供でも出来そうなことを頼んでくれるようになった。それが嬉しくて、「ルンルン」なんて効果音の付きそうな様子で彼女はダイニングテーブルを整え始めた。そこへ彼拘りの皿へ盛り付けられた料理達が並ぶ。
「今日は出勤日だったので、少しサボってしまいました。」
「章介さんのお料理、いつも美味しいから好きです。幸せ太りしたんですよー?」
「んー、最近触り心地が良いのはそのせいかな。」
「章介さんのせいですからねー!」
口調こそ文句があるようだが、二人は楽しげに言い合っている。ワインセラーから一本、今日の料理に合うものを持ってきた章介がこれまた手慣れたように封を切った。注がれるワインはロゼである、メインのラタトゥイユに合わせたようだ。それぞれ向かい合って席についた彼らは手を合わせてから食事を始めた。
「んー、美味しいです。流石です、シェフ。」
もぐもぐと食べながら感想を述べる千秋が可愛らしく章介は、ふふと笑んだ。今日の仕事の話を聞きながら食事は進み、大体食べ終えたところで千秋が思い立ったように立ち上がった。
「千秋さん、どうしたんです?」
「ちょっと待ってくださいね。」
質問の答えははぐらかして、冷蔵庫から例のケーキ箱を取り出してきた彼女に章介はデザートがあるのかと内心喜んだ。
「ちょっと不格好ですけど、笑わないでくださいね。」
「ん?」
彼女の物言いにはてなマークを浮かべた章介だったが、取り出された手作り感満載のケーキを見て納得する。
「もしかして焼いてくれたんですか?」
「はい、あの……あまり作ったことがないので、自信はないんですけど。」
彼女は一緒に持ってきたナイフでケーキを切り分け、皿へ移して彼へ差し出す。彼は嬉しそうにそれを受け取って、フォークでそれを切り一口食べた。味はどうかと千秋が熱視線を送っていると、いつも甘味を食べているときの幸せそうな表情を浮かべた彼が「美味しいです。」と一言感想を述べた。
「しっとりしていますし、何より甘すぎずで食後に合いそうなケーキですね。気に入りました。」
「良かった~。甘いものを食べてるときの章介さんの顔、すごく好きだからそれが見たくて作ってみたんです。……それで、ひとつお願いをしても良いですか?」
「ええ、どうぞ。」
「折角だから、料理教室に通いたいんです。章介さんが仕事の日ぐらいは私が作ってみたいなあって。――ダメですか?」
打診する千秋は不安げだが、そういった提案や頼み事をしてくる妻は珍しいので断る理由など何もない。章介はにっこりと笑って頷いた。
「僕達はまだ引っ越して間もないですから、近所に知り合いも居ないでしょう。千秋さんにもそういう話が出来る人が居たら僕は安心です、ですから勿論オーケーです。」
「やった!ありがとうございます。」
わかりやすく喜びを表現した彼女は身を乗り出して、章介の唇を奪った。ケーキが少し残っていた唇が甘かったので、ぺろりと自分に移ったそれを舐める。それを見た章介が一瞬驚いた顔をした後、楽しげに笑った。
「積極的なお姫様ですね、貴女は。いつからそうなったんでしょう。」
「さあ、いつからでしょう。王子様が魔法をかけてくれたのかもしれません。」
「それはさておき、配分といい焼き加減といい、とてもセンスを感じます。カフェでも開いてはどうです?」
章介は楽しげなまま冗談を言った「つもり」だったが、それを本気にしたのが千秋である。連から、誰かの人生の一部を作れる居場所や拠り所を作りたいと聞いたのを思い出してしまったのだ。
「じゃあ、料理教室じゃなく、お菓子教室でも良いですか?」
「それは勿論良いですが――、まさか……。」
本気にしたのか?と言いかけたところで、章介は言葉を止めた。愛する人が何かに夢中になったり、何かを追いかけることを止めることが何故出来ようか。もし仮に、彼女が本当にカフェをオープンさせるならば全力で応援するのが夫の務めだろうと思い直して頷きをひとつしてみる。彼の想像通りに彼女のやる気は高まり、明日見学に行ってくるというので「わかりました。」と彼は言葉を返した。本当に異存はないのだ。
そして今日は章介が久々に出社する日だ。いつぞやしていたように頬へキスをして送り出すと、千秋は連に教えて貰ったレシピについて思い出した。食品の類は殆ど彼が管理しているが、実はこの日に合わせて足りない材料を宅配で頼んでいた彼女は彼にちょっとしたサプライズを仕掛けるつもりのようだ。
「えーと、生クリームは150mlね……。」
ぶつぶつと呟きながら、レシピ通りにお菓子作りを進めていく。オーブンレンジを温めながら、紙で出来た型へ液体を流し込んで教わった通りにそれを焼く。慣れない菓子作りとあってか、綺麗だったはずのキッチンが少し汚れてしまったので焼いている間に掃除を行うことにする。時折出る鼻歌は女児向けアニメのそれだが、彼女は無意識に歌っているのでそれに気づいてはいない。冷めても結局彼女はそれが好きだったらしい。焼き上がりに近づくにつれて、部屋中が甘い香りに包まれていく。この香りで帰ってくる章介にバレないかとは思うが、それはそれで良いかと無理やり納得して彼女はオーブンから天板ごとケーキを取り出した。連と作ったときと同じような焼き色がつき、あとは粗熱が取れるのを待って冷蔵庫で冷やすだけだ。
「でも待って……そのまま冷蔵庫に入れたら、すぐにバレそう?」
考えた彼女は、近くに100円均一があることを思い出した。そこでそれらしいケーキ箱を買えば買ってきたものと勘違いしてくれるかもしれないと考えたのである。思い立ったが吉日、とばかりに彼女はコートを着込んで外へ出た。吐く息は当然ながら白い。寒いので手をポケットに突っ込んで歩く。滅多に見ない隣人が居たので、挨拶がてら軽く会釈する。
目当てのものはすんなりと手に入り、さて帰ろうと思ったところに連絡がひとつ。
――会議が早く済んだので、これから帰ります。
章介からの連絡である。彼女は急いで帰路へつき、すぐに粗熱の取れたケーキを箱に入れて慎重に冷蔵庫へ仕舞った。食洗器に入れていた料理道具も元あった場所へ仕舞っていく。数センチずれただけでも気づきそうな彼のことなので、それもまた慎重にしなければならない。急いで換気扇を回して、ケーキの香りをとばそうを必死になる。彼の車の特徴的なエンジン音がして、すぐに換気扇を消し何事もなかったかのようにお気に入りとなったソファへ座っていたふりをして彼を迎えに出る。
「おかえりなさい、章介さん。」
「ただいま、千秋さん。今日のお土産。」
そう言って差し出されたのは、美しい百合の花束だ。彼は最近、仕事に出かける度に花束を買って帰ってくる。家具を買いに行った際に序でに買っておいた花瓶へそれを活け、ダイニングテーブルへ飾ると千秋は嬉しそうに微笑んだ。
「さて、夕食の準備を始めますから千秋さんは待っていてくださいね。」
章介は嬉しそうに花を飾る千秋の姿が見たくて、毎度花束を買ってきているのだがそれは一切伝えていない。キッチンへ入ると何かを作ったような形跡があるのにすぐ気が付いたが、待っている間お腹が減ったのだろうと片付けて料理を進める。今日の夕飯は帰りに買ってきたばかりのバゲットとラタトゥイユ、そしてフランスから取り寄せたチーズである。それに合うものもワインセラーから選んである。毎朝か前日の夜に、夕飯はどうするか考えるのは章介の習慣だ。大人しく待つことが出来なかった千秋は結局、アイランドキッチンに近寄って手慣れた様子で切られていく野菜を眺めながら感嘆の声を上げる。
「流石ですね――素敵、章介さん。」
「はは、野菜を切っているだけですから大袈裟ですよ。でもありがとう、千秋さん。」
同じやり取りを何度も繰り返しながら良い香りのしてきた鍋を彼女がそっと覗いた。
「カトラリーとグラスをお願いできますか?」
はじめの頃こそ本当に一切何もやらせてくれなかった彼だが、最近はこういった子供でも出来そうなことを頼んでくれるようになった。それが嬉しくて、「ルンルン」なんて効果音の付きそうな様子で彼女はダイニングテーブルを整え始めた。そこへ彼拘りの皿へ盛り付けられた料理達が並ぶ。
「今日は出勤日だったので、少しサボってしまいました。」
「章介さんのお料理、いつも美味しいから好きです。幸せ太りしたんですよー?」
「んー、最近触り心地が良いのはそのせいかな。」
「章介さんのせいですからねー!」
口調こそ文句があるようだが、二人は楽しげに言い合っている。ワインセラーから一本、今日の料理に合うものを持ってきた章介がこれまた手慣れたように封を切った。注がれるワインはロゼである、メインのラタトゥイユに合わせたようだ。それぞれ向かい合って席についた彼らは手を合わせてから食事を始めた。
「んー、美味しいです。流石です、シェフ。」
もぐもぐと食べながら感想を述べる千秋が可愛らしく章介は、ふふと笑んだ。今日の仕事の話を聞きながら食事は進み、大体食べ終えたところで千秋が思い立ったように立ち上がった。
「千秋さん、どうしたんです?」
「ちょっと待ってくださいね。」
質問の答えははぐらかして、冷蔵庫から例のケーキ箱を取り出してきた彼女に章介はデザートがあるのかと内心喜んだ。
「ちょっと不格好ですけど、笑わないでくださいね。」
「ん?」
彼女の物言いにはてなマークを浮かべた章介だったが、取り出された手作り感満載のケーキを見て納得する。
「もしかして焼いてくれたんですか?」
「はい、あの……あまり作ったことがないので、自信はないんですけど。」
彼女は一緒に持ってきたナイフでケーキを切り分け、皿へ移して彼へ差し出す。彼は嬉しそうにそれを受け取って、フォークでそれを切り一口食べた。味はどうかと千秋が熱視線を送っていると、いつも甘味を食べているときの幸せそうな表情を浮かべた彼が「美味しいです。」と一言感想を述べた。
「しっとりしていますし、何より甘すぎずで食後に合いそうなケーキですね。気に入りました。」
「良かった~。甘いものを食べてるときの章介さんの顔、すごく好きだからそれが見たくて作ってみたんです。……それで、ひとつお願いをしても良いですか?」
「ええ、どうぞ。」
「折角だから、料理教室に通いたいんです。章介さんが仕事の日ぐらいは私が作ってみたいなあって。――ダメですか?」
打診する千秋は不安げだが、そういった提案や頼み事をしてくる妻は珍しいので断る理由など何もない。章介はにっこりと笑って頷いた。
「僕達はまだ引っ越して間もないですから、近所に知り合いも居ないでしょう。千秋さんにもそういう話が出来る人が居たら僕は安心です、ですから勿論オーケーです。」
「やった!ありがとうございます。」
わかりやすく喜びを表現した彼女は身を乗り出して、章介の唇を奪った。ケーキが少し残っていた唇が甘かったので、ぺろりと自分に移ったそれを舐める。それを見た章介が一瞬驚いた顔をした後、楽しげに笑った。
「積極的なお姫様ですね、貴女は。いつからそうなったんでしょう。」
「さあ、いつからでしょう。王子様が魔法をかけてくれたのかもしれません。」
「それはさておき、配分といい焼き加減といい、とてもセンスを感じます。カフェでも開いてはどうです?」
章介は楽しげなまま冗談を言った「つもり」だったが、それを本気にしたのが千秋である。連から、誰かの人生の一部を作れる居場所や拠り所を作りたいと聞いたのを思い出してしまったのだ。
「じゃあ、料理教室じゃなく、お菓子教室でも良いですか?」
「それは勿論良いですが――、まさか……。」
本気にしたのか?と言いかけたところで、章介は言葉を止めた。愛する人が何かに夢中になったり、何かを追いかけることを止めることが何故出来ようか。もし仮に、彼女が本当にカフェをオープンさせるならば全力で応援するのが夫の務めだろうと思い直して頷きをひとつしてみる。彼の想像通りに彼女のやる気は高まり、明日見学に行ってくるというので「わかりました。」と彼は言葉を返した。本当に異存はないのだ。