おとぎ話を信じる年齢なんてとっくに過ぎました!~OLシンデレラと大人王子~
晴れて婚約者となった二人は幸せな雰囲気を醸し出したまま、章介の家の窓から降り注ぐ朝日に身じろいだ。寝ぼけたように千秋を抱き寄せた章介はいくつもの口づけの雨を降らせた。擽ったそうにする彼女は寝ぼけ目ながら、確かめるように左手を眺めた。薬指には確りと昨日渡されたリングが煌めく。夢ではなかった、おとぎ話が現実になることもあるのだと彼女は信じざるを得なくなる。しかし、軽く伸びをした先に見えた時計がその微睡を現実へと引き戻す。
「章介さん、起きて、時間。しごと。」
片言のようになってしまうが、未だにもぞりと動くだけの彼は起きる気配がない。千秋はひとまず慌てて困ったときの110番へ連絡を入れた。
「もしかして朝チュンなう?」
電話に出るなり茶化すような声で言う真智は昨日千秋がデートに行くことを知っていた。だからこそのこれである。
「詳しくは後で話すけど、うん……多分びっくりすると思う、」
電話を切ろうとしたところで、のそりと動いた章介が後ろから抱きしめてくる。どうやら今までは大人の余裕を見せようと自制して触れなかっただけのようだと推測出来て軽く安堵を覚える。真智は半休について伝えてくれるとのことだったので、このままゆっくりすることも出来るが彼がどうかはわからない。
「章介さん、お仕事は?」
「んー。」
まだ頭が起きていない、とでも言いたげな返事に仕方なく彼をベッドへ戻して、彼女は薄着のまま勝手にキッチンを借りることにした。生活感がない部屋ではあるが、綺麗に仕舞われているだけで道具がないわけではないらしい。マシンで二人分のコーヒーを用意した。
千秋がマグカップを手に戻るとすっかり目が覚めたらしい章介はいつも通りのかっちりした格好に着替えていた。何と変わり身の早い、とは思ったがコーヒーを差し出すといつもの微笑みを浮かべて「ありがとう。」と一言、しかし彼女の恰好を見た途端に目を逸らしたことから千秋自身もまだ確りと着込んではいなかったと思い出して、申し訳程度に散らばった服を身に纏ってからベッドへ座り直した。
「あとで、シャワー使って。」
一安心といった様子で声をかけてくる章介はコーヒーを飲み終えたようで、咥えた煙草に火をつけた。昨夜は暗くてよく見えなかったが、ベッドサイドに灰皿が置いてある。
「ああ、失敬。僕ね、喫煙者なんですよ――寝起きはこれがないとどうにも。」
今まで吸っていたところを見たことがなかったために千秋は一瞬驚いたが、何も問題はないと首を横に振ってマグカップへ口をつけた。柔らかい朝陽が彼の吹く白い煙に当たって何とも絵になる光景だ。
「シャワー、お借りしますね。」
寝起きのせいか、ぼんやりと眺めているも思い出したように千秋は言葉を発する。とは言っても場所がわからないので、立ち上がったままで居ると咥え煙草のまま彼が立ち上がって案内してくれたので、脱衣所へと入った。着替えはないが、仕方がない。
一方の章介は、婚約したのだという現実を思って無意識に頬を緩めていた。本人曰く神経質の、はたから見れば潔癖症である彼だが、千秋に関してはあまり気にならないようで不思議さを覚える。短くなった煙草を消して、先程着込んだばかりのジャケットを脱いで放り再びベッドへ横たわる。少し整えた髪をくしゃりと乱し、天井を眺めてみる。この部屋で他人の使うシャワーの音を聞くのは初めてのことで何とも言えない心地だ。最早、最初の目的などどうでもよくなってきていることに彼自身も驚くしか出来ない。先程彼女の居た辺りに触れてみると、まだ温もりが残っているようでシンデレラの魔法は解けず鐘も鳴らなかったのだと安堵している。彼女が眠ったあと、実はこっそりシャワーを浴びていたので特にこれから入るつもりはない。章介は再び起き上がって、キッチンへと向かった。
千秋がシャワーを終えると、朝食の良い香りが部屋中に広がっている。エプロン姿の章介は腕まくりをして、慣れた手つきでフレンチトーストを焼いている。近くへ見に行くと、付け合わせのサラダが既に更に盛り付けられて色とりどりで綺麗だ。彼は焼きあがったトーストをそれぞれの更に乗せ、上から粉糖を振るって朝食を完成させた。
「簡単でごめんね、前日から液に漬けた方が美味しいんだけど。」
そう言いながら章介はダイニングテーブルへ皿を二つ、カトラリーと一緒に運んだ。千秋にしてみれば十分リッチな朝食である。
「メープルシロップはお好みでかけてくださいね。」
そう言ってから、彼は粉糖のかかったトーストの上にがっつりとシロップをかけた。想像以上の甘いもの好きらしいのが分かって面白くて彼女はつい、ふふと笑った。こういった何気ない日常の繰り返されるときが来ることを想うと余計に楽しく幸せな気持ちになってくる。
「そういえば、一緒に住んだり、なんて変化があると思うけれど大丈夫ですか?」
メープルたっぷりのトーストを食べながら、章介は尋ねた。質問よりも、甘いものを美味しそうに食べる姿が可愛らしく見えてしまい、千秋は頬を緩めた。
「もちろん大丈夫です!計画立てないといけませんね。」
しかしそこへ章介の携帯が着信を知らせた。どうやら仕事の電話のようで、千秋へ一言断ってから席を立った。
「千秋さん、申し訳ない。同棲や結婚の具体的な話はもう少し先になりそうです。」
眉を下げながらそう言う様子を見ていると、此方まで申し訳なくなってくる。しかし聞かないわけにもいかずに千秋は尋ねた。
「どうかされたんですか?」
「一度、ヨーロッパ方面へ出張へ行かなければならなくなってしまって――折角プロポーズを受けてくれたのにごめんね。恐らく、2、3週間で戻って来られると思うんですが……。」
「お仕事ですか……それは仕方ありませんね、大人しく待ってます。それに、章介さんが王子様ならまたもう一度ガラスの靴を履かせてくれるって信じてますから。」
楽しい気分も少し沈んでしまったが、心配をかけまいと千秋はにっこり笑って見せた。言葉と相まって明るい調子に、彼の表情が和らいだように感じた彼女は待っている間引っ越しの準備をしようなどと気持ちを切り替えることにしながら、残りのフレンチトーストを平らげた。
「トースト、美味しかったです。章介さん、お料理されるんですね。」
「ええ、しますよ。ロンドンじゃ美味しいものは余程工夫しないと食べられないから身に着いたんです。」
そう言いながら、二人分の食器を片付けてくれる章介は今時流行りの料理男子というやつなのだろう。言い方的に他にも作れそうだ、などと考えていれば、それを読んだかのように「一緒に住み始めたら、家事は任せてくださいね。」などという心強いお言葉を頂戴したので、彼女は大人しく頷いて見せた。
そして結局その翌日に章介は飛行機で海外へ行ってしまい、意気消沈気味の千秋は決心したはずの引っ越し準備もあまり手につかない状態になっていた。外さずに着けている婚約指輪が唯一の心の支えかもしれない。ひとまず真智と会うことになっているので、すっかり慣れたプレゼントの洋服へ袖を通して軽く化粧を施した。そこへちょうどチャイムが鳴ったので、玄関を開けフェアリーゴッドマザーこと真智を招き入れた。
「アンタ、もしかしてそれ。」
入ってくるなり目敏い彼女は異変に気付いて、千秋の左手を取った。
「おめでとう!話ってこれのことね!良かったじゃない。少し前のアンタとは確実に変わったわ、上手く彼好みに色づけられたみたいね。」
こくりと頷く千秋はやはり元気がない様子で、真智は心配げに彼女の顔を覗き込んだ。
「でも幸せ絶頂って感じじゃないみたい。何があったの?」
「彼が、出張で。2から3週間……。」
「なんだ、そんなことか!はは、少しは慣れないとダメよ?そういう仕事をしてる人なんだし。どうせ彼が戻ったら一緒に住むんでしょ?今日も明日も時間があるから少し片づけを手伝ってあげる。何も今生の別れってんじゃないんだから、準備して待ってようよ。」
必死に元気づけようとしてくれる真智に涙がほろり、こんなにも好きだったなんて知らなかった。と千秋は改めて感じながら彼女の肩口へ顔を埋めた。
「それにしてもイケオジやるわ~付き合うでもなく、いきなりプロポーズキメるなんて。」
真智は友人の浮ついた話を喜びながら、落ち込む彼女の背中をあやすように撫でた。
「さて、アンタはちょっと出かけてきなさい!キャリーケースの場所だけ教えてくれたら服類は私が片付けておいてあげる。」
持つべきものは友人である。温かな気遣いに目頭が熱くなるが、必死に堪えて頷いた。出かけよう、そうすれば気分も少し変わって楽しく彼を待つことが出来るかもしれない。
「キャリーは、そこのクローゼットの中。服をかけてある下にロンドンに行ったときのがあるよ。――お言葉に甘えて少し出かけてくる、」
「わかった、行ってらっしゃい!」
そうして散歩に出た彼女はゆったりと歩いていく。あのロンドン旅行から色々なことがあり、ついに結婚の話まで出た。こんなに幸せで良いんだろうか。そんな風に考えながら、薬指に収まる婚約指輪を眺める。彼との出会いのことから、一昨日のプロポーズまでのことを考えていると少しだけ元気が出てきた気がする。彼は帰ってこないわけではないし、帰ってきたら一緒に暮らして、いずれは結婚するのだから。下を向いていた顔が自然と前を向いた。随分とあてもなく歩いて遠くまで来てしまった気がする。そこで、ふとカフェが目に入った。外装が純喫茶というところがまた最近にしては珍しい、彼女は何となくそこが魔法の扉のように思えてドアノブに手をかけた。
「いらっしゃいませ。」
声をかけてきたのは若い店員?――しかし、名札には店長とある。綺麗に髪を金に染めて、顔立ちも整っているように見える。自分より年下そうなのになどと思いながら、一人なのでカウンターへ腰を下ろした。
「当店は初めてですよね?俺、大抵来てくれた方のことは覚えてるんです。」
ちょっとした特技で、と続ける彼はかっちりした恰好に似合わずにかっと人当たりの良い笑みを浮かべた。
「凄いですね。私、人の名前ってどうしても抜けちゃうんです。」
「人に興味を持てば覚えられるものですよ。さあ、どうぞ、最初の一杯はサービスなんです。」
そう言って店長である彼は一杯のコーヒーを出してくれた。真智とは違うタイプの明るい人間のように見えて、何となくふふと笑ってしまう。
「ありがとう、頂きます。」
芳醇な香りのするコーヒーだ、酸味があって少しクセはあるが飲みやすい。
「それが当店のブレンドってやつです。ああそうだ、折角ですしお名前聞いても良いですか?俺は呉山連。れんれんって呼んでくれても良いですよ。」
この若さで店を持っている彼が何故そうなのかが分かった気がする。壁があまりなく、そのうえで人をよく観察しているのである。最後の冗談はさておき、面白い出会いもあるものだと思ってしまう。
「じゃあ連くん、私は葉山千秋です。コーヒー美味しかったです、ありがとう。」
距離が近いこの人ならば何となくこの呼び方がしっくりくる。そう思って呼んでみると、またにかっと笑って「宜しく、千秋ちゃん。」と返してくれた。連は兎も角、店内は落ち着いた雰囲気でとても長居出来そうな雰囲気だ。また来てみよう。
「じゃあ連くん、コーヒーのおかわりとパウンドケーキをください。」
「はい、ありがとう。ちょっと待っててね。」
カフェには何度も入ったことがあるが、こういった店は初めてで連の挙動は丁寧且つ手際よく用意されていく様子を眺められることが珍しい。振り返った彼がカウンターへコーヒーのおかわりと頼んだケーキを出してくれた。
「二杯目だから、少しコーヒーは薄めにしてあるからね。」
そういった細かい気遣いが今はとても嬉しかった。しかし、これを食べ終えたら帰らなくてはならない。真智に任せきりになっている引っ越しの準備をする必要があるからだ。パウンドケーキを口に入れて咀嚼する。これは美味しい、今度章介さんを連れてきたら甘いもの好きの彼は喜ぶかもしれない。
「ありがとう。わ、これ美味しい。ふわふわ。手作りなの?」
「そうそう、うちで出してるお菓子は全部手作りなんだ。俺一人でやってるから大変なんだけどね。ところで千秋ちゃん、結婚するの?」
連の視線が左手の指輪に向いている。その言葉で彼を思い出して、いつの間にか頬が緩んでしまう。それから頷きをひとつ。
「そう、この前プロポーズされたの。――年上の彼なんだけど、とても優しくて恰好いい人。」
「おめでとう。でも残念だなあ、千秋ちゃん可愛いから俺、狙おうかと思ってたのに。」
楽しげな冗談にも聞こえてくるが連が言うそれは本気も含まれているようで、深くは読むことが出来ない。そういう人柄なのだろうと片付けて、コーヒーもお菓子も美味しく頂いた。
部屋へ戻ると、いくつかの服を残してクローゼットの中が殆ど片付いていた。真智が待っている間に全てキャリーに詰めてくれていたらしい、しかも段ボールまで用意されている。
「さあ、他のものも片付けるわよ!」
真智はすっかり調子の戻った千秋へ微笑んで、袖を捲り直した。
「章介さん、起きて、時間。しごと。」
片言のようになってしまうが、未だにもぞりと動くだけの彼は起きる気配がない。千秋はひとまず慌てて困ったときの110番へ連絡を入れた。
「もしかして朝チュンなう?」
電話に出るなり茶化すような声で言う真智は昨日千秋がデートに行くことを知っていた。だからこそのこれである。
「詳しくは後で話すけど、うん……多分びっくりすると思う、」
電話を切ろうとしたところで、のそりと動いた章介が後ろから抱きしめてくる。どうやら今までは大人の余裕を見せようと自制して触れなかっただけのようだと推測出来て軽く安堵を覚える。真智は半休について伝えてくれるとのことだったので、このままゆっくりすることも出来るが彼がどうかはわからない。
「章介さん、お仕事は?」
「んー。」
まだ頭が起きていない、とでも言いたげな返事に仕方なく彼をベッドへ戻して、彼女は薄着のまま勝手にキッチンを借りることにした。生活感がない部屋ではあるが、綺麗に仕舞われているだけで道具がないわけではないらしい。マシンで二人分のコーヒーを用意した。
千秋がマグカップを手に戻るとすっかり目が覚めたらしい章介はいつも通りのかっちりした格好に着替えていた。何と変わり身の早い、とは思ったがコーヒーを差し出すといつもの微笑みを浮かべて「ありがとう。」と一言、しかし彼女の恰好を見た途端に目を逸らしたことから千秋自身もまだ確りと着込んではいなかったと思い出して、申し訳程度に散らばった服を身に纏ってからベッドへ座り直した。
「あとで、シャワー使って。」
一安心といった様子で声をかけてくる章介はコーヒーを飲み終えたようで、咥えた煙草に火をつけた。昨夜は暗くてよく見えなかったが、ベッドサイドに灰皿が置いてある。
「ああ、失敬。僕ね、喫煙者なんですよ――寝起きはこれがないとどうにも。」
今まで吸っていたところを見たことがなかったために千秋は一瞬驚いたが、何も問題はないと首を横に振ってマグカップへ口をつけた。柔らかい朝陽が彼の吹く白い煙に当たって何とも絵になる光景だ。
「シャワー、お借りしますね。」
寝起きのせいか、ぼんやりと眺めているも思い出したように千秋は言葉を発する。とは言っても場所がわからないので、立ち上がったままで居ると咥え煙草のまま彼が立ち上がって案内してくれたので、脱衣所へと入った。着替えはないが、仕方がない。
一方の章介は、婚約したのだという現実を思って無意識に頬を緩めていた。本人曰く神経質の、はたから見れば潔癖症である彼だが、千秋に関してはあまり気にならないようで不思議さを覚える。短くなった煙草を消して、先程着込んだばかりのジャケットを脱いで放り再びベッドへ横たわる。少し整えた髪をくしゃりと乱し、天井を眺めてみる。この部屋で他人の使うシャワーの音を聞くのは初めてのことで何とも言えない心地だ。最早、最初の目的などどうでもよくなってきていることに彼自身も驚くしか出来ない。先程彼女の居た辺りに触れてみると、まだ温もりが残っているようでシンデレラの魔法は解けず鐘も鳴らなかったのだと安堵している。彼女が眠ったあと、実はこっそりシャワーを浴びていたので特にこれから入るつもりはない。章介は再び起き上がって、キッチンへと向かった。
千秋がシャワーを終えると、朝食の良い香りが部屋中に広がっている。エプロン姿の章介は腕まくりをして、慣れた手つきでフレンチトーストを焼いている。近くへ見に行くと、付け合わせのサラダが既に更に盛り付けられて色とりどりで綺麗だ。彼は焼きあがったトーストをそれぞれの更に乗せ、上から粉糖を振るって朝食を完成させた。
「簡単でごめんね、前日から液に漬けた方が美味しいんだけど。」
そう言いながら章介はダイニングテーブルへ皿を二つ、カトラリーと一緒に運んだ。千秋にしてみれば十分リッチな朝食である。
「メープルシロップはお好みでかけてくださいね。」
そう言ってから、彼は粉糖のかかったトーストの上にがっつりとシロップをかけた。想像以上の甘いもの好きらしいのが分かって面白くて彼女はつい、ふふと笑った。こういった何気ない日常の繰り返されるときが来ることを想うと余計に楽しく幸せな気持ちになってくる。
「そういえば、一緒に住んだり、なんて変化があると思うけれど大丈夫ですか?」
メープルたっぷりのトーストを食べながら、章介は尋ねた。質問よりも、甘いものを美味しそうに食べる姿が可愛らしく見えてしまい、千秋は頬を緩めた。
「もちろん大丈夫です!計画立てないといけませんね。」
しかしそこへ章介の携帯が着信を知らせた。どうやら仕事の電話のようで、千秋へ一言断ってから席を立った。
「千秋さん、申し訳ない。同棲や結婚の具体的な話はもう少し先になりそうです。」
眉を下げながらそう言う様子を見ていると、此方まで申し訳なくなってくる。しかし聞かないわけにもいかずに千秋は尋ねた。
「どうかされたんですか?」
「一度、ヨーロッパ方面へ出張へ行かなければならなくなってしまって――折角プロポーズを受けてくれたのにごめんね。恐らく、2、3週間で戻って来られると思うんですが……。」
「お仕事ですか……それは仕方ありませんね、大人しく待ってます。それに、章介さんが王子様ならまたもう一度ガラスの靴を履かせてくれるって信じてますから。」
楽しい気分も少し沈んでしまったが、心配をかけまいと千秋はにっこり笑って見せた。言葉と相まって明るい調子に、彼の表情が和らいだように感じた彼女は待っている間引っ越しの準備をしようなどと気持ちを切り替えることにしながら、残りのフレンチトーストを平らげた。
「トースト、美味しかったです。章介さん、お料理されるんですね。」
「ええ、しますよ。ロンドンじゃ美味しいものは余程工夫しないと食べられないから身に着いたんです。」
そう言いながら、二人分の食器を片付けてくれる章介は今時流行りの料理男子というやつなのだろう。言い方的に他にも作れそうだ、などと考えていれば、それを読んだかのように「一緒に住み始めたら、家事は任せてくださいね。」などという心強いお言葉を頂戴したので、彼女は大人しく頷いて見せた。
そして結局その翌日に章介は飛行機で海外へ行ってしまい、意気消沈気味の千秋は決心したはずの引っ越し準備もあまり手につかない状態になっていた。外さずに着けている婚約指輪が唯一の心の支えかもしれない。ひとまず真智と会うことになっているので、すっかり慣れたプレゼントの洋服へ袖を通して軽く化粧を施した。そこへちょうどチャイムが鳴ったので、玄関を開けフェアリーゴッドマザーこと真智を招き入れた。
「アンタ、もしかしてそれ。」
入ってくるなり目敏い彼女は異変に気付いて、千秋の左手を取った。
「おめでとう!話ってこれのことね!良かったじゃない。少し前のアンタとは確実に変わったわ、上手く彼好みに色づけられたみたいね。」
こくりと頷く千秋はやはり元気がない様子で、真智は心配げに彼女の顔を覗き込んだ。
「でも幸せ絶頂って感じじゃないみたい。何があったの?」
「彼が、出張で。2から3週間……。」
「なんだ、そんなことか!はは、少しは慣れないとダメよ?そういう仕事をしてる人なんだし。どうせ彼が戻ったら一緒に住むんでしょ?今日も明日も時間があるから少し片づけを手伝ってあげる。何も今生の別れってんじゃないんだから、準備して待ってようよ。」
必死に元気づけようとしてくれる真智に涙がほろり、こんなにも好きだったなんて知らなかった。と千秋は改めて感じながら彼女の肩口へ顔を埋めた。
「それにしてもイケオジやるわ~付き合うでもなく、いきなりプロポーズキメるなんて。」
真智は友人の浮ついた話を喜びながら、落ち込む彼女の背中をあやすように撫でた。
「さて、アンタはちょっと出かけてきなさい!キャリーケースの場所だけ教えてくれたら服類は私が片付けておいてあげる。」
持つべきものは友人である。温かな気遣いに目頭が熱くなるが、必死に堪えて頷いた。出かけよう、そうすれば気分も少し変わって楽しく彼を待つことが出来るかもしれない。
「キャリーは、そこのクローゼットの中。服をかけてある下にロンドンに行ったときのがあるよ。――お言葉に甘えて少し出かけてくる、」
「わかった、行ってらっしゃい!」
そうして散歩に出た彼女はゆったりと歩いていく。あのロンドン旅行から色々なことがあり、ついに結婚の話まで出た。こんなに幸せで良いんだろうか。そんな風に考えながら、薬指に収まる婚約指輪を眺める。彼との出会いのことから、一昨日のプロポーズまでのことを考えていると少しだけ元気が出てきた気がする。彼は帰ってこないわけではないし、帰ってきたら一緒に暮らして、いずれは結婚するのだから。下を向いていた顔が自然と前を向いた。随分とあてもなく歩いて遠くまで来てしまった気がする。そこで、ふとカフェが目に入った。外装が純喫茶というところがまた最近にしては珍しい、彼女は何となくそこが魔法の扉のように思えてドアノブに手をかけた。
「いらっしゃいませ。」
声をかけてきたのは若い店員?――しかし、名札には店長とある。綺麗に髪を金に染めて、顔立ちも整っているように見える。自分より年下そうなのになどと思いながら、一人なのでカウンターへ腰を下ろした。
「当店は初めてですよね?俺、大抵来てくれた方のことは覚えてるんです。」
ちょっとした特技で、と続ける彼はかっちりした恰好に似合わずにかっと人当たりの良い笑みを浮かべた。
「凄いですね。私、人の名前ってどうしても抜けちゃうんです。」
「人に興味を持てば覚えられるものですよ。さあ、どうぞ、最初の一杯はサービスなんです。」
そう言って店長である彼は一杯のコーヒーを出してくれた。真智とは違うタイプの明るい人間のように見えて、何となくふふと笑ってしまう。
「ありがとう、頂きます。」
芳醇な香りのするコーヒーだ、酸味があって少しクセはあるが飲みやすい。
「それが当店のブレンドってやつです。ああそうだ、折角ですしお名前聞いても良いですか?俺は呉山連。れんれんって呼んでくれても良いですよ。」
この若さで店を持っている彼が何故そうなのかが分かった気がする。壁があまりなく、そのうえで人をよく観察しているのである。最後の冗談はさておき、面白い出会いもあるものだと思ってしまう。
「じゃあ連くん、私は葉山千秋です。コーヒー美味しかったです、ありがとう。」
距離が近いこの人ならば何となくこの呼び方がしっくりくる。そう思って呼んでみると、またにかっと笑って「宜しく、千秋ちゃん。」と返してくれた。連は兎も角、店内は落ち着いた雰囲気でとても長居出来そうな雰囲気だ。また来てみよう。
「じゃあ連くん、コーヒーのおかわりとパウンドケーキをください。」
「はい、ありがとう。ちょっと待っててね。」
カフェには何度も入ったことがあるが、こういった店は初めてで連の挙動は丁寧且つ手際よく用意されていく様子を眺められることが珍しい。振り返った彼がカウンターへコーヒーのおかわりと頼んだケーキを出してくれた。
「二杯目だから、少しコーヒーは薄めにしてあるからね。」
そういった細かい気遣いが今はとても嬉しかった。しかし、これを食べ終えたら帰らなくてはならない。真智に任せきりになっている引っ越しの準備をする必要があるからだ。パウンドケーキを口に入れて咀嚼する。これは美味しい、今度章介さんを連れてきたら甘いもの好きの彼は喜ぶかもしれない。
「ありがとう。わ、これ美味しい。ふわふわ。手作りなの?」
「そうそう、うちで出してるお菓子は全部手作りなんだ。俺一人でやってるから大変なんだけどね。ところで千秋ちゃん、結婚するの?」
連の視線が左手の指輪に向いている。その言葉で彼を思い出して、いつの間にか頬が緩んでしまう。それから頷きをひとつ。
「そう、この前プロポーズされたの。――年上の彼なんだけど、とても優しくて恰好いい人。」
「おめでとう。でも残念だなあ、千秋ちゃん可愛いから俺、狙おうかと思ってたのに。」
楽しげな冗談にも聞こえてくるが連が言うそれは本気も含まれているようで、深くは読むことが出来ない。そういう人柄なのだろうと片付けて、コーヒーもお菓子も美味しく頂いた。
部屋へ戻ると、いくつかの服を残してクローゼットの中が殆ど片付いていた。真智が待っている間に全てキャリーに詰めてくれていたらしい、しかも段ボールまで用意されている。
「さあ、他のものも片付けるわよ!」
真智はすっかり調子の戻った千秋へ微笑んで、袖を捲り直した。