おとぎ話を信じる年齢なんてとっくに過ぎました!~OLシンデレラと大人王子~
今日は久しぶりのデートの日、なかなか休みが合わず一緒に出掛けることが出来なかったため千秋はウキウキとして服を選び化粧を施した。そして、彼女のごり押しで今日は章介の服も買いに行くことになっている。彼に着て欲しい服を彼女が選ぶのである。しかし今日のメインは結婚指輪である。
「準備は終わりましたか?千秋さん。」
「はい、行きましょう!」
嬉しさを前面に出すと章介は小さく笑って、気取ったように手を差し出してくる。これにも慣れたもので、彼女は大人しく彼の手を取った。エスコートされながらガレージへ降りて、普段とは違う赤いスポーツカーに乗り込んだ。
「やっぱり、これも章介さんのだったんですね。もしやその隣も?」
「ええ、ちょっとした趣味みたいなものです。あっちの白い方はオープンカーになっていて、少し涼しくなってからだと風が気持ちいいですよ。今は夏ですから、もう少し経ってから試しましょう。」
相変わらず運転する姿の似合う男だ、と千秋は思った。するりと進む車は以前にも来たことのある通りに停まって、同じようにエスコートされる。非日常が日常になったとしても、これは「おとぎ話」の延長線上にある特別な時間だ。前にネックレスをプレゼントされた店へ入って寄って来た店員に軽く会釈してみる。
「松比良様、いらっしゃいませ。本日はどのようなものをお探しですか?」
「今日は流れ星をつかまえたので、マリッジリングを。」
「それはお二方ともおめでとうございます。」
さらりと気障なことを言うことには大分慣れたが、店員相手にまでその調子は少し恥ずかしくなってしまい千秋は彼の軽く腕をつついてみた。彼はどこ吹く風で楽しげに店員の案内についていく。隠す必要がなくなったからか、所謂VIPルームのようなところへ通され、ふかふかのソファへ腰を下ろした。次々に出される高級ブランドのマリッジリングの数々に千秋は目が点になりそうだったが、章介はどれが良いのかよく確認している。仕事柄か吟味には慣れているのだろう。彼が何か伝えたのか、値札の類は全て外されていてわからない。ただ高級なことがわかる。
「さて流れ星さん、貴女を捕まえておくにはどれがいいかな?」
此処で値段が云々と言うのは、社長である彼に対して恥をかかせてしまうのではないかと切り替えた千秋は単純に好きなデザインを選ぶことにした。彼女が指したのは、ハリーウィンストンのダイヤモンドが連なっているかのように見えるものだ。これならばシンプル且つ華やかである。
「素敵なチョイスですね、それにしましょう。こういうときは流れ星さんの選んだものがいい、これからずっと着けているのだから。」
言ってから彼は、店員に千秋の選んだものにすると告げてサイズの確認に入る。実は100万近くする品なのだが千秋は今まで恋愛と無縁だったのもあり、それを知らなかった。入籍がまだのため、刻印はまた今度することにして章介はカードを店員に預けた。どうしてもいくらか、ということについては気にさせたくないらしい。サインを終えた彼がカードを財布へ仕舞って再びエスコートされる形に戻る。
次は千秋のお楽しみである、章介の服選びだ。普段かっちりした恰好の多い彼に、別の恰好をしてもらうというのが今回の目的である。一着ぐらいはプレゼント出来るかな、等と考えながら紳士服を取り扱う店へ入った。そこは章介も初めて入った店らしく、辺りを見回す。あまり高級店ではないが、背の高い章介ならば何を着ても似合いそうだ。
今度は千秋が章介の手を引いて店内を回っていく。色々と見ていく中で気になったのが、グレーのダメージジーンズと白いシャツ、そして薄いブルーのジージャンというやつだ。
「千秋さん?流石にこれは若作りしすぎなんじゃ……。」
「いえ、大丈夫です。章介さんは見た目30代ですから似合います。」
いつもの控えめさは何処へやら。千秋は無理やり章介を試着室へ押し込んだ。その間にそれに合いそうな靴も見繕う。白いデッキシューズが目に入って、勝手に決めてしまった。控えめに試着室から声をかけられ、其方へ意識を向けるとカーテンから顔だけ出した彼が眉を下げて此方を見ている。
「靴も見つけたので、出てきて履いてみてください!」
こうなっては止まらないらしい千秋はまたもや彼の手を引いた。出てきた彼は想像通りに服を着こなしている。いつもと違う印象の彼は新鮮で「もっと好きになりそうです。」と伝えると、彼は満更でもないといった様子でデッキシューズへ足を通した。
「よし、これで決めちゃいましょう!今回は私がプレゼントしますからね!」
こうでもしなければ彼はまた自分で払うと言って会計をし兼ねないので、殆ど強引に事を進めた。このまま着ていく旨を店員に伝えてタグを切ってもらっている章介はいつもの余裕が少しだけなくなっているらしく、たじたじとしている。
「あとで写真撮りましょう!そういえば私達、お互いの写真ってあまり撮ったことありませんでしたよね。」
「はは、今日の流れ星さんは少しお転婆ですね。違った一面が見られました、ありがとう。」
どうやら千秋のこういった感じも嫌いではないらしく、彼は声を上げて笑った。
撮った写真はそれぞれの携帯の壁紙として飾られている。その日、朝食のあと慌ただしく出て行った章介は何やら大事な会議を控えていたらしい。代わりに有給消化のために休日だった千秋はまだ着替えることもせず、まったりと自室で寛いでいた。封印していた箱からこっそり取り出してきた例の女児向けアニメを観るチャンスだ。久々に見るパッケージを前に彼女はそれを大切に抱きしめた。さて観ようか、となったときに着信が鳴った。
――企画書を忘れてしまいました。もしまだ家にいるようだったら会社まで持ってきてくれませんか?僕の書斎のデスクの上にあるはずです。会社の場所は画像を添付します。
殆ど初めてのお願いというものかもしれない、と彼女はもう一度BOXを仕舞い込んで「わかりました。」とだけ返事をした。彼の書斎には初めて入る。本がびっしりと詰め込まれた本棚には少しスペースがあってセンスの良い海外の置物などがある。勿論埃ひとつなく片付けられて、とても彼らしい部屋である。目当てのものは指示通り、デスクの上に丁寧に置かれていた。千秋はそれを手に取り、折れたりしないよう気を遣いながら、少し大きめな鞄に入れて家を出た。
携帯に送られてきた画像を確認しながら会社の場所を探す。近くにはいつぞやに訪れたことのあるカフェ。この近くだったのか、と納得しながらオフィスのあるビルへと足を踏み入れた。受付嬢の一人に話しかけると、話は聞いているとばかりに入行証と社長室のある場所を示した地図のようなものを渡してくれた。それを手にエレベーターへ乗り込む。既に数人が乗り込んで、何となく「お前は誰だ。」のような視線を感じるが彼の会社の人なので控えめに会釈しておく。
「それにしても社長の話、聞いたか?」
一緒に乗っていた彼と同い年ぐらいの社員がもう一人と話している。
「ああ、聞いた。結婚だろ?よくやるよな、体裁のため。だなんて。」
「しかも奥さん、かなり年下らしいぜ。どうせ金目当てだろうけど。」
そこまで聞いたところで、社員二人はエレベーターを降りていったので一人になった千秋は思わず蹲った。「おとぎ話」など、本当はなかったのだろうか。そういうネガティブな疑問ばかりが浮かんでは消えたが、目当ての階で止まったエレベーターを降りた。大事な会議だということは章介から聞いているので、今の話は聞かなかったことにしようと気持ちを切り替えいつも通りを装って、秘書らしい相手に話しかけた。
「こんにちは、章介さんに頼まれて書類を持って来たんですが……。」
「ああ、こんにちは。葉山さん、お噂はかねがね――社長がお待ちですからどうぞ。」
愛想のよさそうな男性はデスク上の電話で章介へ連絡を取ってくれたようだ。「此方です。」と案内されて社長室へと足を踏み入れた。
「ああ、千秋さん。助かりましたよ。」
「お疲れ様です、これで合ってますか?」
取り出した企画書を確認した彼は、幾度か頷いて彼女を抱きしめかけたが会社であることを思い出したらしく思いとどまって頭を撫でるにとどまった。
「じゃあ、私は家に帰って待ってますね。お仕事頑張ってください。」
にっこりと笑みを貼り付けて小さく手を振ってからその場を離れた。彼に違和感を与えなかっただろうか、とは考えたが、やはりまだ衝撃的な話を聞いたばかりで混乱が収まらない。逃げるようにオフィスを出て、気づいたときにはあのカフェの扉を開いていた。
「あ、千秋ちゃん。いらっしゃい。」
連がすかさず声を掛けてくる。しかし今は笑みを返す元気もなく、カウンター席へ腰を下ろして突っ伏す。
「何があったんだい?って俺が聞いていい話なら聞くけど。とりあえずコーヒーより今はモカとかの方が良いかな。」
突っ伏したままの千秋は返事をすることも出来ない。今にも泣きそうなぐらいに意気消沈して混乱を止められずにいる。「とりあえず飲んで。」と連が、甘いモカを出してくれた。突っ伏すのをやめた彼女はひとまず出されたモカのカップで、残暑だというのにやけに冷えた手を温めてから、一口飲んだ。
「今日、彼の会社に行ったの――そうしたら、社員の人達が、結婚は体裁のためだって……。」
「それはショッキングな話だね――流石の俺もかける言葉が見つからないというか、うん。彼とはその話は?」
「――ごめん。大事な会議があるんだって言うから、してない。」
「ひとまず店を閉めるまではいくらでも居ていいから、少しゆっくりしようか。」
連が優しくも心配げに話しかけてくれるので、千秋はほろりと涙を零した。余程、婚約指輪を外してやろうかと思ったが、それが出来ないほどには章介のことを好きになりすぎている。温かく甘いモカが、魔法でもかけられているかのように千秋の心を溶かした。いつもならば真智に連絡するところだが、今日は混乱が過ぎてそれすら思いつかなかった。
「それで、どうしたいとかっていうのは考えたの?」
少し落ち着いた様子を見た連が優しく話しかけてくるので無視するわけにもいかず、一度ほうと息をついてから言葉を返すことにした。
「何も考えられないよ……だって、彼は王子様だって思ってたのに、……でも離れたくない、」
「じゃあそれが答えじゃないか。ちゃんと帰って話さなきゃ。」
いつの間にか過ぎていた刻は、家から出た時間が午後だったのもあってそろそろ章介も帰ってきそうな時間になっていた。連は「ひとまず帰りなさい。」と背中を押してくれる。その通りだ、悩むならば本人から聞けばいい。それが答えなのである。千秋は連に礼を言ってタクシーで家まで帰った。
「準備は終わりましたか?千秋さん。」
「はい、行きましょう!」
嬉しさを前面に出すと章介は小さく笑って、気取ったように手を差し出してくる。これにも慣れたもので、彼女は大人しく彼の手を取った。エスコートされながらガレージへ降りて、普段とは違う赤いスポーツカーに乗り込んだ。
「やっぱり、これも章介さんのだったんですね。もしやその隣も?」
「ええ、ちょっとした趣味みたいなものです。あっちの白い方はオープンカーになっていて、少し涼しくなってからだと風が気持ちいいですよ。今は夏ですから、もう少し経ってから試しましょう。」
相変わらず運転する姿の似合う男だ、と千秋は思った。するりと進む車は以前にも来たことのある通りに停まって、同じようにエスコートされる。非日常が日常になったとしても、これは「おとぎ話」の延長線上にある特別な時間だ。前にネックレスをプレゼントされた店へ入って寄って来た店員に軽く会釈してみる。
「松比良様、いらっしゃいませ。本日はどのようなものをお探しですか?」
「今日は流れ星をつかまえたので、マリッジリングを。」
「それはお二方ともおめでとうございます。」
さらりと気障なことを言うことには大分慣れたが、店員相手にまでその調子は少し恥ずかしくなってしまい千秋は彼の軽く腕をつついてみた。彼はどこ吹く風で楽しげに店員の案内についていく。隠す必要がなくなったからか、所謂VIPルームのようなところへ通され、ふかふかのソファへ腰を下ろした。次々に出される高級ブランドのマリッジリングの数々に千秋は目が点になりそうだったが、章介はどれが良いのかよく確認している。仕事柄か吟味には慣れているのだろう。彼が何か伝えたのか、値札の類は全て外されていてわからない。ただ高級なことがわかる。
「さて流れ星さん、貴女を捕まえておくにはどれがいいかな?」
此処で値段が云々と言うのは、社長である彼に対して恥をかかせてしまうのではないかと切り替えた千秋は単純に好きなデザインを選ぶことにした。彼女が指したのは、ハリーウィンストンのダイヤモンドが連なっているかのように見えるものだ。これならばシンプル且つ華やかである。
「素敵なチョイスですね、それにしましょう。こういうときは流れ星さんの選んだものがいい、これからずっと着けているのだから。」
言ってから彼は、店員に千秋の選んだものにすると告げてサイズの確認に入る。実は100万近くする品なのだが千秋は今まで恋愛と無縁だったのもあり、それを知らなかった。入籍がまだのため、刻印はまた今度することにして章介はカードを店員に預けた。どうしてもいくらか、ということについては気にさせたくないらしい。サインを終えた彼がカードを財布へ仕舞って再びエスコートされる形に戻る。
次は千秋のお楽しみである、章介の服選びだ。普段かっちりした恰好の多い彼に、別の恰好をしてもらうというのが今回の目的である。一着ぐらいはプレゼント出来るかな、等と考えながら紳士服を取り扱う店へ入った。そこは章介も初めて入った店らしく、辺りを見回す。あまり高級店ではないが、背の高い章介ならば何を着ても似合いそうだ。
今度は千秋が章介の手を引いて店内を回っていく。色々と見ていく中で気になったのが、グレーのダメージジーンズと白いシャツ、そして薄いブルーのジージャンというやつだ。
「千秋さん?流石にこれは若作りしすぎなんじゃ……。」
「いえ、大丈夫です。章介さんは見た目30代ですから似合います。」
いつもの控えめさは何処へやら。千秋は無理やり章介を試着室へ押し込んだ。その間にそれに合いそうな靴も見繕う。白いデッキシューズが目に入って、勝手に決めてしまった。控えめに試着室から声をかけられ、其方へ意識を向けるとカーテンから顔だけ出した彼が眉を下げて此方を見ている。
「靴も見つけたので、出てきて履いてみてください!」
こうなっては止まらないらしい千秋はまたもや彼の手を引いた。出てきた彼は想像通りに服を着こなしている。いつもと違う印象の彼は新鮮で「もっと好きになりそうです。」と伝えると、彼は満更でもないといった様子でデッキシューズへ足を通した。
「よし、これで決めちゃいましょう!今回は私がプレゼントしますからね!」
こうでもしなければ彼はまた自分で払うと言って会計をし兼ねないので、殆ど強引に事を進めた。このまま着ていく旨を店員に伝えてタグを切ってもらっている章介はいつもの余裕が少しだけなくなっているらしく、たじたじとしている。
「あとで写真撮りましょう!そういえば私達、お互いの写真ってあまり撮ったことありませんでしたよね。」
「はは、今日の流れ星さんは少しお転婆ですね。違った一面が見られました、ありがとう。」
どうやら千秋のこういった感じも嫌いではないらしく、彼は声を上げて笑った。
撮った写真はそれぞれの携帯の壁紙として飾られている。その日、朝食のあと慌ただしく出て行った章介は何やら大事な会議を控えていたらしい。代わりに有給消化のために休日だった千秋はまだ着替えることもせず、まったりと自室で寛いでいた。封印していた箱からこっそり取り出してきた例の女児向けアニメを観るチャンスだ。久々に見るパッケージを前に彼女はそれを大切に抱きしめた。さて観ようか、となったときに着信が鳴った。
――企画書を忘れてしまいました。もしまだ家にいるようだったら会社まで持ってきてくれませんか?僕の書斎のデスクの上にあるはずです。会社の場所は画像を添付します。
殆ど初めてのお願いというものかもしれない、と彼女はもう一度BOXを仕舞い込んで「わかりました。」とだけ返事をした。彼の書斎には初めて入る。本がびっしりと詰め込まれた本棚には少しスペースがあってセンスの良い海外の置物などがある。勿論埃ひとつなく片付けられて、とても彼らしい部屋である。目当てのものは指示通り、デスクの上に丁寧に置かれていた。千秋はそれを手に取り、折れたりしないよう気を遣いながら、少し大きめな鞄に入れて家を出た。
携帯に送られてきた画像を確認しながら会社の場所を探す。近くにはいつぞやに訪れたことのあるカフェ。この近くだったのか、と納得しながらオフィスのあるビルへと足を踏み入れた。受付嬢の一人に話しかけると、話は聞いているとばかりに入行証と社長室のある場所を示した地図のようなものを渡してくれた。それを手にエレベーターへ乗り込む。既に数人が乗り込んで、何となく「お前は誰だ。」のような視線を感じるが彼の会社の人なので控えめに会釈しておく。
「それにしても社長の話、聞いたか?」
一緒に乗っていた彼と同い年ぐらいの社員がもう一人と話している。
「ああ、聞いた。結婚だろ?よくやるよな、体裁のため。だなんて。」
「しかも奥さん、かなり年下らしいぜ。どうせ金目当てだろうけど。」
そこまで聞いたところで、社員二人はエレベーターを降りていったので一人になった千秋は思わず蹲った。「おとぎ話」など、本当はなかったのだろうか。そういうネガティブな疑問ばかりが浮かんでは消えたが、目当ての階で止まったエレベーターを降りた。大事な会議だということは章介から聞いているので、今の話は聞かなかったことにしようと気持ちを切り替えいつも通りを装って、秘書らしい相手に話しかけた。
「こんにちは、章介さんに頼まれて書類を持って来たんですが……。」
「ああ、こんにちは。葉山さん、お噂はかねがね――社長がお待ちですからどうぞ。」
愛想のよさそうな男性はデスク上の電話で章介へ連絡を取ってくれたようだ。「此方です。」と案内されて社長室へと足を踏み入れた。
「ああ、千秋さん。助かりましたよ。」
「お疲れ様です、これで合ってますか?」
取り出した企画書を確認した彼は、幾度か頷いて彼女を抱きしめかけたが会社であることを思い出したらしく思いとどまって頭を撫でるにとどまった。
「じゃあ、私は家に帰って待ってますね。お仕事頑張ってください。」
にっこりと笑みを貼り付けて小さく手を振ってからその場を離れた。彼に違和感を与えなかっただろうか、とは考えたが、やはりまだ衝撃的な話を聞いたばかりで混乱が収まらない。逃げるようにオフィスを出て、気づいたときにはあのカフェの扉を開いていた。
「あ、千秋ちゃん。いらっしゃい。」
連がすかさず声を掛けてくる。しかし今は笑みを返す元気もなく、カウンター席へ腰を下ろして突っ伏す。
「何があったんだい?って俺が聞いていい話なら聞くけど。とりあえずコーヒーより今はモカとかの方が良いかな。」
突っ伏したままの千秋は返事をすることも出来ない。今にも泣きそうなぐらいに意気消沈して混乱を止められずにいる。「とりあえず飲んで。」と連が、甘いモカを出してくれた。突っ伏すのをやめた彼女はひとまず出されたモカのカップで、残暑だというのにやけに冷えた手を温めてから、一口飲んだ。
「今日、彼の会社に行ったの――そうしたら、社員の人達が、結婚は体裁のためだって……。」
「それはショッキングな話だね――流石の俺もかける言葉が見つからないというか、うん。彼とはその話は?」
「――ごめん。大事な会議があるんだって言うから、してない。」
「ひとまず店を閉めるまではいくらでも居ていいから、少しゆっくりしようか。」
連が優しくも心配げに話しかけてくれるので、千秋はほろりと涙を零した。余程、婚約指輪を外してやろうかと思ったが、それが出来ないほどには章介のことを好きになりすぎている。温かく甘いモカが、魔法でもかけられているかのように千秋の心を溶かした。いつもならば真智に連絡するところだが、今日は混乱が過ぎてそれすら思いつかなかった。
「それで、どうしたいとかっていうのは考えたの?」
少し落ち着いた様子を見た連が優しく話しかけてくるので無視するわけにもいかず、一度ほうと息をついてから言葉を返すことにした。
「何も考えられないよ……だって、彼は王子様だって思ってたのに、……でも離れたくない、」
「じゃあそれが答えじゃないか。ちゃんと帰って話さなきゃ。」
いつの間にか過ぎていた刻は、家から出た時間が午後だったのもあってそろそろ章介も帰ってきそうな時間になっていた。連は「ひとまず帰りなさい。」と背中を押してくれる。その通りだ、悩むならば本人から聞けばいい。それが答えなのである。千秋は連に礼を言ってタクシーで家まで帰った。