僕と彼女とレンタル家族
第33話 「明晰夢2」
カメラのシャッターを切るように、先ほどまで見ていた光景が切り替わった。学校から帰宅した小学生の僕が、家のチャイムを何度か押している。「うるさい!」と怒鳴る声と同時に、母親が近づいてくる音が聞こえる。
玄関の鍵がガチャっと音を立てて開き、僕は家の中に入る。眉間にシワを寄せて、苛立っている母親が立っている。
「もうっ。ひとがいい気持ちで寝てるのに起こさないでよ!」
「……」
「あとコレ、また公衆電話で頼んできて」
「また? これから友達と遊びに行くんだけど」
「なら、ご飯ないから」
母親は、小さな便箋を投げ捨てると、バンッと大きな音を立てて部屋の扉を閉めた。ひらひらと落ちた便箋を拾い上げると、電話番号と50万と書かれている。この男性に、初めてお金を受け取りに行ったときに聞いた言葉。
【君のお母さん。おばあちゃんに恩があるからね。病気で大変だけど、頑張って】
本人が来ていないのに、目の前にいるのは小学生だと言うのに数百万と言う大金の封筒を受け取る。だが、当然長くは続かない。次第にお金を貸してくれなくなるだ。当然だ、何度も大金を借りておいて返済をしていないのだから。当時の僕は、早い段階で気づいていた。
「もう貸してくれるわけないじゃん」
僕は拾った便箋を持って家を出る。徒歩1分ほどの距離に駅があり、その近くに公衆電話があった。歩きながら思う事がある。もう2回ほど、電話をしても断られている。その2回とも怒鳴られ、金返せと迫られる僕は怖かった。僕に言われても困る。お金を借りているのは母親なんだ、なぜ僕が怒られないといけないのか。
しかし、反論なんて……できるわけがない。だってそうだろう、借りたお金で僕は食べているのだから。また、一度だけ言われた母親の言葉。
「お金を借りるお願いしてるのも、受け取ってるのも私じゃないからね」
この時の僕は意味を理解できず、その意味を理解するのは、もっと未来の話。
公衆電話に着いた僕は、便箋に書かれた電話番号を入力していく。着信音が何度か鳴り響くと、カチャンと10円が落ちる音がする。
「はい」
「もしもし、近藤です」
「おー近藤君ね。どうしたの? またお金苦しくなったのかな?」
「はい……。えっと50万ほど貸してほしいと」
「あーいいよいいよ。今日の18時頃でいいかな?」
「ありがとうございます」
「はいはい、いつもの場所に着いたら連絡して」
「わかりました」
電話中の緊張が解け、受話器を戻す。正直、僕は驚いていた。まさか今回は貸してくれるとは思っていなかったからだ。電話の声色からも優しい雰囲気があり、もしかしたら機嫌がいいのかもしれない。
家に戻った僕は、母親に貸してくれる旨を伝えると、先ほどの雰囲気が変わり元気が良かった。
「ほんとう! よかったじゃん。ほら、すぐ受け取りに行って。これ交通費」
母親から交通費を受け取り、電車で20分、バスで50分と片道1時間ほどかけて江南市と言う場所に向かう。最初の頃は楽しかった。1時間と長い道のりでも、一人で遠くまで行くことにワクワクしていたからだ。だが、これが何度も続くとなると苦痛。
なにもすることなく電車に乗り、バスに乗ったら50分間何もすることなく、終点まで窓の景色を見ているだけ。学校から帰って来たばかりの僕は体力的にも疲れ、精神的にも疲労しているのだろう。バスの終着点へ着くころには深く眠っており、バスの運転手に起こされて降りる。
「すいません。ありがとうございました」
バスの運賃を払い、降りたバス停から15分ほど離れた待ち合わせ場所へと向かう。待ち合わせの場所に向かう道中にある公衆電話で、到着した旨の電話を掛ける。
「あぁ……着いたんだ。あーはいはい、行くから待ってな」
心臓がバクバクしている。おかしい、なんか電話の声が怖かった。最初の優しい対応の裏返し。若干不安になりながらも、待ち合わせ場所に向かう。
「……」
あたりを見渡しながら、待ち合わせ場所に到着してすぐ、男性が近づいてくる。遠目から見ても表情が険しく、どうやら睨まれているようだった。
「……君さぁ、毎度毎度いい加減にしてくれないかな? これまでに君のお母さんに、いくら貸したと思ってるの? まだ一円も返して貰ってないんだけど」
「すいません」
「すいませんじゃねぇーよ。大変申し訳ございません。だろ?」
「大変申し訳ございません」
怖い、低い声で恐怖の重圧に足が震えている。金縛りにあったかのように、僕の視線は、目の前の男性の顔から逃げられず、深い呼吸を繰り返す。
「100万入ってるから、これで貸すのは最後。今後は、必ず返済してもらうから」
「はい、ありがとうございます」
「君さぁ……。貸して頂いて、ありがとうございます。頭下げるのが普通でしょ?」
ギュっと100万が入った封筒を握りしめ、頭を下げてもう一度言う。
「貸して頂いて、ありがとうございます」
経験したことのない不思議な恐怖が込み上げ、気を確かに持っていないと涙が溢れ出しそうだった。なぜ、どうして僕が怒られないといけないんだ。僕が欲しくて借りているわけじゃないのに、僕は仕方なく来ているだけなのに。
「……」
頭をあげると、すでに男性はいなかった。まだ足が震えている。怖かった、あれほど憎しみに溢れた表情を向けられ、恥ずかしくも震えが止まらない。
「……帰ろ」
100万が入った封筒をカバンにしまう。たったこれだけの作業をクリアすることで、今日の夕食は出てくるだろう。大丈夫、別に殴られたわけじゃない。
時として、言葉は殴られる以上の恐怖と痛みを植え付けると先生が言っていたが、その理由が何となくわかったきがする。
すでに空は暗く、より寒さが襲い掛かってくる。バスが来るまでベンチで座り、自販機で買ったコンポタージュを飲みながら待った。飲み口から出てこないコーンを必死に飲もうと、僕は缶を振ったり指を入れてみたりして時間を潰した。
40分ほどしてバスが到着する。さらに50分ほどバスで揺られながら駅まで向かう。バスには誰も乗っておらず、外の景色は暗闇。時々、ガラスに僕の顔が映し出され笑ってみた。
「……」
口角を吊り上げ、どんな時も、どんな状態でも、できるかぎり表情は笑顔にしようと。そうしなければ、僕が僕でなくなる気がしていた。だって、練習しなければ……笑顔の癖を作らなければ、上手な笑いを覚えなければ、僕の母親が、僕がしていることが異常なのだとバレてしまうから。
だから隠す。隠すことが正解。
だって、お母さんが言ったんだ。他の誰にも話してはいけないと。
それから、家に着くころには21時頃だった。僕がお金を借りに行っているときは、帰る時間が遅くなることが分かっている為、玄関の鍵は掛かっていない。しかし、僕より先に父親が帰宅している場合、鍵が掛かってしまう。その時は、チャイムを鳴らすことは禁じられている。
「帰ってきてるか」
家の裏に回り、風呂場の窓の扉を開けて小声で呼ぶ。
「おーい」
呼んでも反応がない場合、何度か呼ぶと「ちょっと待って!」と母親の声が聞こえ、玄関先へと戻る。数分待っていると、カチャっと音が鳴り響く。
「ただいま」
「そんなのいいから、貰って来た?」
「はい、これ」
「ん? 多くない?」
「もう貸せないから、最後に多く入れといたって言ってた」
「あーそう。まぁ、大丈夫でしょう」
何が大丈夫なのだろうか? 言ってやりたい、そのお金を借りる為に僕が頭を下げたんだぞと。まぁ、言えるわけがなかった。言ったところで「ふーん」としか言われないこと知っている。
「突っ立てないで、早く風呂入っちゃいな」
脱衣所に向かい、シャワーを浴びて湯船に浸かる。いつ浴槽にお湯を張ったのか、ぬるいと言うより冷たかった。冷えた体をシャワーで再度温めて風呂場を出る。
廊下の電気が消えており、部屋からテレビ明かりが廊下を照らしていた。部屋に入ると、テーブルにラップされたご飯が用意されている。妹達も母親もいない。2階の寝室で休んでいるのだろう。
コタツの電源を入れて、冷えた体を温めていく。コタツは大好きだ、いつどんなときも温めてくれる。お味噌汁とお稲荷さんが、テーブルで僕の帰りを待っていた。
「冷たっ」
冷えた味噌汁と、お稲荷さんのお米が硬くなってしまっている。電子レンジで温めればいいのだろうが、タイミングを誤ると、電子レンジの騒音で怒られてしまう。僕は、お味噌汁の中にお稲荷さんを入れて米を柔らかくし、テレビの音量を最小限に下げて夕食を食べた。
また、同じようにカメラのシャッターを切るように場面が切り替わる。
玄関の鍵がガチャっと音を立てて開き、僕は家の中に入る。眉間にシワを寄せて、苛立っている母親が立っている。
「もうっ。ひとがいい気持ちで寝てるのに起こさないでよ!」
「……」
「あとコレ、また公衆電話で頼んできて」
「また? これから友達と遊びに行くんだけど」
「なら、ご飯ないから」
母親は、小さな便箋を投げ捨てると、バンッと大きな音を立てて部屋の扉を閉めた。ひらひらと落ちた便箋を拾い上げると、電話番号と50万と書かれている。この男性に、初めてお金を受け取りに行ったときに聞いた言葉。
【君のお母さん。おばあちゃんに恩があるからね。病気で大変だけど、頑張って】
本人が来ていないのに、目の前にいるのは小学生だと言うのに数百万と言う大金の封筒を受け取る。だが、当然長くは続かない。次第にお金を貸してくれなくなるだ。当然だ、何度も大金を借りておいて返済をしていないのだから。当時の僕は、早い段階で気づいていた。
「もう貸してくれるわけないじゃん」
僕は拾った便箋を持って家を出る。徒歩1分ほどの距離に駅があり、その近くに公衆電話があった。歩きながら思う事がある。もう2回ほど、電話をしても断られている。その2回とも怒鳴られ、金返せと迫られる僕は怖かった。僕に言われても困る。お金を借りているのは母親なんだ、なぜ僕が怒られないといけないのか。
しかし、反論なんて……できるわけがない。だってそうだろう、借りたお金で僕は食べているのだから。また、一度だけ言われた母親の言葉。
「お金を借りるお願いしてるのも、受け取ってるのも私じゃないからね」
この時の僕は意味を理解できず、その意味を理解するのは、もっと未来の話。
公衆電話に着いた僕は、便箋に書かれた電話番号を入力していく。着信音が何度か鳴り響くと、カチャンと10円が落ちる音がする。
「はい」
「もしもし、近藤です」
「おー近藤君ね。どうしたの? またお金苦しくなったのかな?」
「はい……。えっと50万ほど貸してほしいと」
「あーいいよいいよ。今日の18時頃でいいかな?」
「ありがとうございます」
「はいはい、いつもの場所に着いたら連絡して」
「わかりました」
電話中の緊張が解け、受話器を戻す。正直、僕は驚いていた。まさか今回は貸してくれるとは思っていなかったからだ。電話の声色からも優しい雰囲気があり、もしかしたら機嫌がいいのかもしれない。
家に戻った僕は、母親に貸してくれる旨を伝えると、先ほどの雰囲気が変わり元気が良かった。
「ほんとう! よかったじゃん。ほら、すぐ受け取りに行って。これ交通費」
母親から交通費を受け取り、電車で20分、バスで50分と片道1時間ほどかけて江南市と言う場所に向かう。最初の頃は楽しかった。1時間と長い道のりでも、一人で遠くまで行くことにワクワクしていたからだ。だが、これが何度も続くとなると苦痛。
なにもすることなく電車に乗り、バスに乗ったら50分間何もすることなく、終点まで窓の景色を見ているだけ。学校から帰って来たばかりの僕は体力的にも疲れ、精神的にも疲労しているのだろう。バスの終着点へ着くころには深く眠っており、バスの運転手に起こされて降りる。
「すいません。ありがとうございました」
バスの運賃を払い、降りたバス停から15分ほど離れた待ち合わせ場所へと向かう。待ち合わせの場所に向かう道中にある公衆電話で、到着した旨の電話を掛ける。
「あぁ……着いたんだ。あーはいはい、行くから待ってな」
心臓がバクバクしている。おかしい、なんか電話の声が怖かった。最初の優しい対応の裏返し。若干不安になりながらも、待ち合わせ場所に向かう。
「……」
あたりを見渡しながら、待ち合わせ場所に到着してすぐ、男性が近づいてくる。遠目から見ても表情が険しく、どうやら睨まれているようだった。
「……君さぁ、毎度毎度いい加減にしてくれないかな? これまでに君のお母さんに、いくら貸したと思ってるの? まだ一円も返して貰ってないんだけど」
「すいません」
「すいませんじゃねぇーよ。大変申し訳ございません。だろ?」
「大変申し訳ございません」
怖い、低い声で恐怖の重圧に足が震えている。金縛りにあったかのように、僕の視線は、目の前の男性の顔から逃げられず、深い呼吸を繰り返す。
「100万入ってるから、これで貸すのは最後。今後は、必ず返済してもらうから」
「はい、ありがとうございます」
「君さぁ……。貸して頂いて、ありがとうございます。頭下げるのが普通でしょ?」
ギュっと100万が入った封筒を握りしめ、頭を下げてもう一度言う。
「貸して頂いて、ありがとうございます」
経験したことのない不思議な恐怖が込み上げ、気を確かに持っていないと涙が溢れ出しそうだった。なぜ、どうして僕が怒られないといけないんだ。僕が欲しくて借りているわけじゃないのに、僕は仕方なく来ているだけなのに。
「……」
頭をあげると、すでに男性はいなかった。まだ足が震えている。怖かった、あれほど憎しみに溢れた表情を向けられ、恥ずかしくも震えが止まらない。
「……帰ろ」
100万が入った封筒をカバンにしまう。たったこれだけの作業をクリアすることで、今日の夕食は出てくるだろう。大丈夫、別に殴られたわけじゃない。
時として、言葉は殴られる以上の恐怖と痛みを植え付けると先生が言っていたが、その理由が何となくわかったきがする。
すでに空は暗く、より寒さが襲い掛かってくる。バスが来るまでベンチで座り、自販機で買ったコンポタージュを飲みながら待った。飲み口から出てこないコーンを必死に飲もうと、僕は缶を振ったり指を入れてみたりして時間を潰した。
40分ほどしてバスが到着する。さらに50分ほどバスで揺られながら駅まで向かう。バスには誰も乗っておらず、外の景色は暗闇。時々、ガラスに僕の顔が映し出され笑ってみた。
「……」
口角を吊り上げ、どんな時も、どんな状態でも、できるかぎり表情は笑顔にしようと。そうしなければ、僕が僕でなくなる気がしていた。だって、練習しなければ……笑顔の癖を作らなければ、上手な笑いを覚えなければ、僕の母親が、僕がしていることが異常なのだとバレてしまうから。
だから隠す。隠すことが正解。
だって、お母さんが言ったんだ。他の誰にも話してはいけないと。
それから、家に着くころには21時頃だった。僕がお金を借りに行っているときは、帰る時間が遅くなることが分かっている為、玄関の鍵は掛かっていない。しかし、僕より先に父親が帰宅している場合、鍵が掛かってしまう。その時は、チャイムを鳴らすことは禁じられている。
「帰ってきてるか」
家の裏に回り、風呂場の窓の扉を開けて小声で呼ぶ。
「おーい」
呼んでも反応がない場合、何度か呼ぶと「ちょっと待って!」と母親の声が聞こえ、玄関先へと戻る。数分待っていると、カチャっと音が鳴り響く。
「ただいま」
「そんなのいいから、貰って来た?」
「はい、これ」
「ん? 多くない?」
「もう貸せないから、最後に多く入れといたって言ってた」
「あーそう。まぁ、大丈夫でしょう」
何が大丈夫なのだろうか? 言ってやりたい、そのお金を借りる為に僕が頭を下げたんだぞと。まぁ、言えるわけがなかった。言ったところで「ふーん」としか言われないこと知っている。
「突っ立てないで、早く風呂入っちゃいな」
脱衣所に向かい、シャワーを浴びて湯船に浸かる。いつ浴槽にお湯を張ったのか、ぬるいと言うより冷たかった。冷えた体をシャワーで再度温めて風呂場を出る。
廊下の電気が消えており、部屋からテレビ明かりが廊下を照らしていた。部屋に入ると、テーブルにラップされたご飯が用意されている。妹達も母親もいない。2階の寝室で休んでいるのだろう。
コタツの電源を入れて、冷えた体を温めていく。コタツは大好きだ、いつどんなときも温めてくれる。お味噌汁とお稲荷さんが、テーブルで僕の帰りを待っていた。
「冷たっ」
冷えた味噌汁と、お稲荷さんのお米が硬くなってしまっている。電子レンジで温めればいいのだろうが、タイミングを誤ると、電子レンジの騒音で怒られてしまう。僕は、お味噌汁の中にお稲荷さんを入れて米を柔らかくし、テレビの音量を最小限に下げて夕食を食べた。
また、同じようにカメラのシャッターを切るように場面が切り替わる。