紳士な御曹司の淫らなキス~契約妻なのに夫が完璧すぎて困っています
 次の予約まで少し時間が空いたので、わたしは背伸びをして身体をほぐした。仕事のときしか履かない踵の高いパンプスのせいで、爪先が痛かった。ネイルサロンヴォーグは、JR川崎駅に直結したクリスタルロード川崎店内にある。百ものテナントが軒を連ねる大型複合施設で、ヴォーグもたくさんのお客様に親しまれている。

 ノートパソコンでお客様情報を整理しているとふとお店の前から人の気配を感じた。顔をあげるとヴォーグと通路を挟んで隣り合っているお店のショーウインドーの向こうで革の装丁を施された日記帳を並べていた男性がわたしに気づいて微笑しながら礼をした。

 わたしは折り目正しくお辞儀を返した。

 ヴォーグの隣にある老舗の皮製品店「室善(むろぜん)」の副店長である彼、緑川(みどりかわ)さんは、癖のない真っ直ぐな黒髪、切れ長の目、柔和な唇、涼やかな目鼻立ちの持ち主で、ピンと伸びた背筋を品のいいスーツで包んでいる。いかにも美丈夫という感じだが、わたしはなんとなくその胡散臭い笑顔が苦手だった。


「お疲れ様です、樫間さん」


 ショーウインドーから出てきた彼は、わたしに挨拶をした。


「お疲れ様です、緑川さん」


 ぎこちなく答えると、急いで視線を彼の背後に向けた。


「素敵な日記帳ですね」

「ああ、これはイタリアで作られたんです。店長が一目ぼれして買い付けに行った品なんですよ」

「そういえば、室善の店長さんって見たことないですね」

「あの人は買い付けと称して世界を旅してまわるのが好きなんですよ。……樫間さんは日記帳に興味がおありなんですか?」

「いえ。日記なんて毎日つけるほどマメじゃないんですけど、品のいいしなだと思って」

「ありがとうございます。店長に伝えておきます」


 緑川さんがいつものように完璧な笑顔を向けてくるので、つい警戒してしまう。わたしは慌てて仕事に戻った。
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