ココロの距離
第2章:近すぎて
試験二週目の木曜。三時限目終了後、柊は学生会館内のサークル部屋に向かった。活動名目はテニスだが実際はイベント活動の方が多い。今日は十一月の大学祭で出す屋台の詳細を詰めるため、招集がかかっていた。
建物の三階にある部屋には、まだ誰もいなかった。どうやら柊が一番早かったらしい。
長椅子に腰掛け、誰かが置いたままの漫画雑誌をしばらくめくっていると、ドアが開く音がした。振り向くと同時に、入ってきた木下と目が合う。経済学部在籍の同期生だ。
「あれ、羽村ひとりか?」
「ああ、他はまだみたいだぞ。来た時電気ついてなかったし」
「つまり、俺たちが一番ヒマってこと?」
「別にヒマじゃねーよ。語学残ってるし」
「俺も明日締切の経済学レポートあるんだって。何してんのかね、他の奴ら」
しゃべりながら木下は、柊の隣に座った。
「なあ、ところでさ」
と顔を近づけてからいったん言葉を切り、ドアの方を振り返る。今のところ誰も近づいてこないと判断したのか、再び口を開いた。
「文学部の沢辺さん、知り合いだよな?」
「そうだけど……なんだよ」
「彼氏いるのか?」
いつもより低めていながらも、どことなく熱のこもった声音。その尋ねられ方に既視感を覚えつつ、少し考えて柊は答えた。
「……さあ? たぶんいないんじゃないか」
「頼りないな。それぐらい知らないのかよ」
ごく正直に、的確に答えたつもりの柊に、木下はやけに突っかかってくる。理不尽さを感じつつも、展開は見えた気がした。一瞬だけ木下をまじまじと見てから、言い返す。
「しょうがねーだろ。あいつはそういう話したことないし、おれだって別に」
「興味ないってか? そりゃ、おまえは望月さんがいるからそうかもしれないけどな」
皮肉げに結論を先取りされて、口ごもる。里佳の誘いで入った経緯があるだけに、同期の連中は全員、柊との関係を知っていた。
しばらくは納得したような顔をしていた木下だが「けどさあ」と言った時にはまた、先ほどのような皮肉な調子が戻ってきていた。
「ここだけの話っつーか本気で気になるんだけど。沢辺さんを女子と思ったこと今までになかったわけ、羽村って」
「……あ?」
「いや、近すぎてそう見られないってのもわかんなくはないけどさ。けど彼女、めちゃくちゃ可愛いじゃん。美人だけど気取ってる感じ全然しないし、それでいて頭良さそうだし。成績、かなり良かったんじゃないか?」
「……まあ、テストん時はだいたい二十位ぐらいまでには入ってたと思う」
だからよく宿題だのテスト前のノートだのは頼っていた。同じ学校だった中学までのみならず、高校時代も──そして今でも、語学に関してはクラスが同じなのをいいことに。
「だよなあ。普通なら出来すぎてて近寄りがたいって思いそうなのに、そういう雰囲気もないのってすごくない? なんつーか、文字通り理想的っていうか、奇跡的っつーか」
「つまり奈央子が好きなわけ、おまえも」
放っておくと止まりそうにない台詞を遮るように言うと、予想通り木下は詰まった。
「……はっきり言うなよ、恥ずいだろ」
「そっちの台詞の方がよっぽど恥ずかしいんじゃね?」
「ほっとけ。そういう言い方するってことはやっぱ、女子だと思ってないわけか」
「──あのなあ。あいつはうちの姉貴と仲がいいんだよ、昔から」
「だから?」
「だから、もう一人姉貴がいるようなもんなの。いくら可愛いったって、姉ちゃんを女子と同レベルで考えられるかよ」
「はー、そんなもんかね」
木下は気が抜けたように感想を述べた。
「彼女をそういうふうにしか見れないなんてなんかもったいないな。ま、敵は少ない方がいいけどさ。狙ってる奴、うちのサークルだけでも何人かいるし」
おまえもある意味損してるな、と木下がつぶやくように言ったのとほぼ同時に、再び部屋のドアが開いた。今度は他の同期学生数人によって。必然的に今までの話題は中断し、その日は再開されることはなかった。
レンタルの道具や材料の目星をつけ、一応の話し合いが終わったのは五時半頃だった。飲みに行くという他のメンバーと別れ、柊は自宅アパートへ向かう。
明日は一時限目、八時五十分から試験があるので今日はバイトを入れていない。その試験は必修語学、ドイツ語である。連想的に道すがら思い出すのは昼間の、木下との会話。
奈央子と幼なじみであることをうらやましがられるのは、小中学校の頃は珍しくなかった。彼女が外見も中身もレベルの高い女子だという事実は、いちおう認めていたのだ。
柊には国立の法学部に通う三歳年上の姉がいる。中学の頃から弁護士を目指し、去年すでに司法試験に合格した、誰もが認める才女だ。モデル並の容姿を持つ上に、毒舌の持ち主でもある。殊に弟については、ほんの子供の頃から人前でも遠慮せず言いたい放題で、おかげで軽くトラウマになっている。
そんな姉の奈央子に対する態度は、まさに実の妹のような可愛がりぶりである。妹がほしかったと言ってはばからない姉だが、もし柊が妹だとしても現状は同じだったろう。常に成績は柊より上で、柊よりも姉の言うことを素直に聞き、容姿も子供の頃から可愛らしかった。本当の姉妹のように仲のいい彼女たちといると、時々疎外感も感じたものだ。
そんなわけで、優秀さは認めているとはいえ、幼なじみはあまりにも身近すぎる存在だった。だから中学の頃、奈央子に興味があったらしい同級生や部活仲間にうらやましがられても、特別何とも思わなかった。慣れすぎてしまって、何かあるたびに感銘を受けるようなことは、とっくになくなっていたのだ。
……そのはずだったのだが、大学に入ってから、何かがなんとなく違ってきたような気がする。より正確に言うなら、たぶん、里佳と奈央子が初めて顔を合わせた頃から。
それまでの一年以上、二人を会わせていなかったのは単純にタイミングだった。家が近所とはいえ、別の高校だった奈央子とは生活サイクルの合わないことも結構あったから。
大学に入ってすぐの頃、確か四月の終わり頃。学食で友人と一緒の奈央子に出くわし、その時ちょうど連れていた里佳を紹介した。
あの時の奈央子は、今思い返しても少し妙だった。子供の頃から人見知りしない、誰とでもすぐに打ち解けていた奈央子だから、里佳とも当然そうなると思っていた。だが──里佳と向き合った時、奈央子は何秒かの間、なぜか表情をひきつらせていた。そして。
怪訝に思い、反射的に様子をうかがった里佳も、同じような表情をしていたのだ。
もう一度見比べた時には二人とも笑みを浮かべていたから、その時は見間違えたのだと思った。一緒に食べないかという柊の提案に対し、もう食べたからと奈央子が首を振って友人の腕を引いて早足で去っていったのも、不審には感じなかった。
しかし半年近く経つ今でも、二人が親しくなる様子は見受けられない。顔は何度も合わせているが、一度も挨拶以上の話は成立していない。空気を読むことに長けていると言えない柊でもさすがに、彼女たちが敬遠しあっているのを察しないわけにはいかなかった。
だが、理由が全くわからない。先週の話からすると奈央子は里佳に遠慮しているらしいが、そんなことをする理由も不明だ。奈央子はもう一人の姉同然で身内と同じだから、付き合っている女子とも仲良くしてもらいたいと思うだけなのに、何がまずいのだろう。
そして同時に訝しく思うのが、奈央子が、柊自身を避けているようにも感じる時があることだった。確かにもう、子供みたいにしょっちゅう遊ぶような関係ではないが、幼なじみがそんなふうにふるまった覚えはなく、避けられる理由も当然ながら見当がつかない。十九年近く変わらない距離でいた彼女が、なぜ今、自分の前で複雑そうな顔を見せたりするのか。そんなのは、彼女らしくなかった。
──と、考えているうちにアパートに到着した。なんか食ったらノートの対訳見直しとかないとな、と頭を切り替えかけたところでふと、もしかしてと思うことがあった。
試験前に借りたノートのコピー、ちゃんと試験範囲をくまなく取っていただろうか?
確認すると、途中で明らかに文章のつながらない箇所がある。何ページか飛ばしているのだ。まずいと思ったものの、どう解決するかについてはしばらく躊躇した。ノートを借り直すのが手っとり早いとわかっていたが、持ち主は他ならぬ奈央子だったから。
柊と同じく、奈央子も入学と同時に一人暮らしを始めた。同じ国道沿いのマンションだから、自転車で十五分ほどで行き来できる。
だが問題は距離ではなく、奈央子が貸してくれるかという点だ。ためらいは感じるが、自分で訳する時間も自信もないので、結局は携帯を取り出す。呼び出し音が七回か八回鳴り、留守電の応答メッセージに切り替わる。その直後、メッセージの音声が途切れた。
『……もしもし?』
かすかに固い声に応えながら、柊は鍵を二個と財布をつかんで外へ出る。
「今、家? ……あのさ、悪いんだけどドイツ語のノート、もっかい貸してくんないか」
事情を説明すると、予想通り奈央子の声は呆れた口調に変わる。
『なんでコピーした時に気づかないわけ? ちゃんと見直せっていつも言ってるでしょ』
「あー、反省してます。だから貸してください」
『自分で訳しなさいよ、それぐらい』
「けど、もうそっち向かってんだけど」
『ええ?』
数秒、沈黙があった。
『──まったく、くーちゃんだったら絶対、二度と貸してくれないよ』
呆れた調子は変わりないものの、しょうがないなという響きも混ざった声。飽きるほど聞き慣れたその声音に、なぜか今は妙に安心させられた。ノートを貸してもらえそうだ、と思ったからだけではなくて(ちなみにくーちゃんというのは件の姉、公美の奈央子的愛称である)。
「ん、悪い。ほんと反省してるから。だから今回だけ」
「しょうがないわね」と、奈央子は今度は声に出す。じゃあ外で待ってるから、と通話が切れると同時に、柊はペダルを早めた。
言った通り、マンションのエントランスを出たところで奈央子は待っていた。近くのコンビニに行くからという彼女に合わせ、自転車を押して歩く。
「で、どこをコピーしそこねたの」
手渡されたノートには几帳面な文字で、見開きの左に原文、右に対訳が並んでいる。記憶を頼りに文章が飛んでいた前後のページを言うと、奈央子は「わかった」とノートを柊の手から引き抜いた。
コピー機に料金を入れ、操作を始める奈央子の横顔に、気づくとじっと見入っていた。見慣れてしまっているけど、彼女は確かに可愛いと思う。こういう真剣な表情だと特に、柊でさえちょっと目を見張るほどに美人だ。
里佳も可愛い顔立ちをしているが、タイプが違う。流行りに敏感で明るいファッションの多い里佳に対し、奈央子は多少地味と言えるほど。だがその飾りのなさが、もともとの容姿を際だたせる効果を上げている。
だから木下や、他の奴らが騒ぐのは当然なのだろう。大学入学後に知り合った、かつ奈央子に興味を示してきた連中にはたいてい、もったいないと言われる。中学までには言われたことのない言葉だった。
そうかもな、とひどく自然に思った。
たとえば同じ学校、同じクラスで初対面という経緯だったら、少なからず惹かれるかもしれない。常に学年上位の成績である上に、こんなふうに可愛らしい女子だったら──
「なに、なんか顔についてる?」
はっと我に返る。コピーを終えたらしい奈央子が、不審げなまなざしで見上げていた。
「……あ、いや。なんでもない」
気まずさを押し隠して答える。きょとんと首をかしげる奈央子から、思わず目をそらした。……ほんの短い間だが、奈央子を女子として見ていたことが妙に恥ずかしかった。
「はい、ちょっと範囲広めにコピーしといたから。でも次はないからね」
コピー用紙の束を柊の手に押しつけ、奈央子はコンビニの外に出る。そのまま歩いていこうとする背中を、反射的に呼び止めた。
「ちょ、待てよ。送ってくから」
振り返った奈央子は、さっきよりも角度をつけて首をかしげ、眉を寄せる──どこか迷惑そうに見えたのは、気のせいだろうか。
「いいわよ、近いもん」
と言って奈央子は手を振り、今度は早足で歩き出した。コンビニ前に止めた折り畳み型の自転車に乗り、ほとんど間を置かずに追いついた瞬間、奈央子はぎょっとした表情で再び振り返る。足が止まった隙を逃さず、柊は自転車を降りて彼女に並んだ。
「……近いからいらないって言ってんのに」
今度ははっきりと迷惑そうな表情で、声も苦々しい調子だったが、柊が「けどもう暗いし、呼び出したのこっちだから」と返すと、何も言わなかった。
奈央子が迷惑がるのはやはり、できれば柊を避けたいと思っているからなのだろうか。うつむきがちに、無言で歩く彼女を見ていると、そんなふうに考えてしまう。呆れながらも頼んだ時には必ず手を貸してくれていた彼女が、どうしてそう思うようになったのか。
様子をうかがいながら考え直してみてもわからなくて、知らず苛立ちがつのってくる。こちらに非があるなら、奈央子は隠したりせずはっきり言うはずだ。子供の頃からそういう場合に遠慮したことはなかった。
けれど彼女は何も言わないし、自分自身でも思い当たるものがないから、考えれば考えるほど気持ちがもやもやしてくる。
何だってんだよまったく、と誰にともなく憤りに近いものをぶつけた時。
前方の角を曲がってきた車が、ものすごいスピードでこちらに向かってくる。住宅街の狭い道で、奈央子の方が車に近い側にいた。目線を落としている奈央子は迫ってくるライトに気づいた様子がない。
柊はとっさに自転車を放り出し、奈央子の肩をつかんで引き寄せた。直後、数十センチ先を車が走り抜けていく。あのまま歩いていたら、確実に跳ね飛ばされていただろう。
ようやく状況を理解したらしい奈央子が、息をのむ気配がした。次いで、小刻みに体を震わせ始める。胸にしがみついてきた彼女の背中に、柊は空いていた左腕を回した。
見た目よりも細くて、肩も小さいような気がした。女子にしては身長のある方だと思うが、それでも自分の肩を少し超える程度でしかない。急に彼女がひどく小さい存在に思えて、回した腕に力を込めかける。
その瞬間、息を大きく吸い込んだ奈央子が
はっと肩を震わせ、柊を押しのけた。胸から離した手で口を覆い、深くうつむく。
沈黙に割り込むように、自転車のタイヤが回る音が響いてきた。
「……、大丈夫か?」
尋ねた柊に、奈央子は無言でうなずく。何か言おうとはするものの、声にならない様子だった。立ち尽くす奈央子からいったん離れて、放り出した自転車を確認する。思ったより遠くにあったが、幸い壊れてはいないようだ。起こそうとした時、足音が耳を打った。
はっとして顔を上げた柊の目に、走って遠ざかる奈央子の姿が映った。躊躇しているうちに彼女は角を曲がり、見えなくなる。マンションはその角の先だから大丈夫だろうが、追いかけなかったことを少し悔やんだ。
……だが正直、追いついたところで、なんと言っていいのかわからない。
姉のような、常に上のポジションにいた幼なじみを、初めて自分より小さな存在として意識した。その感情に誰よりも戸惑っているのは、柊自身だったから。