ココロの距離
第4章:彼女という存在
「……おい、羽村。羽村ってば」
「あ、──えっ?」
耳元で呼びかけた囁きのような声に、柊は意識を引き戻された。声がした方を向くと、隣に座る木下の呆れたような顔。席の近い他の学生もちらちらと視線を向けてきている。
ようやく今の状況を思い出した。ここは、学生会館内にある会議室。昼休みのサークルミーティングで、大学祭での出店に関する決定事項を通達している最中である。
「……さっきの話、聞いてたか?」
「さっき、ってどの?」
「店番のシフト。俺とおまえと、永井さん中心で二日目午後だって。あと、望月さんも」
と言われても、さっぱり聞いた覚えがなかった。一体どれだけぼんやりしていたのか。
同じように思ったのだろう、木下の反応は無言だが、逆に目は、ものすごく何か言いたげだった。周囲の何人かも様子をうかがっている気配が感じられる。彼らが口にしないけど気になるのであろう「何か」が、柊の今の反応だけを指すのではないことにも気づいていた──三週間ほど前の奈央子とのやりとりは、わりと大勢に目撃されていたらしい。
あの日以来、奈央子とはまともに口をきいていない。
語学の二科目で同じクラスになったから、休講や自分がサボる時を除けば、週に数回会うのがここ半年の日常だった。会えばたいてい、挨拶以外の短い会話も交わしていた。
だがあの日以降は、普通に挨拶さえしていない。お互い近寄ることも怖いかのように避け合っている。必然的にぎくしゃくする空気を、周りに不審がられているのはわかっていてもどうしようもなく、持てあましていた。
……奈央子がどうしてあんなことを口にしたのか、本当にあんなふうに思っていたのかという疑問を、あれからずっと抱えている。
奈央子について「姉がもう一人いるようなもの」と他人には表現しているけど、実の姉よりもよほど、気楽に口をきける相手だ。何か頼みごとをしても、断られる場合の方が珍しいと言えるほど、たいていのことは引き受けてくれていた。
それに甘えていたことは否定できないし、時には確かに、奈央子にとっては迷惑な場合もあったかもしれない。……だが、幼なじみがずっとその思いを押し隠していたとは考えにくかった。都合が悪ければ悪いとはっきり断っていた彼女が、今の今まで我慢していたのだとは思いにくい。いくら、公美に頼まれたからといっても。
考えれば考えるほど納得できなかった──そこに「納得したくない」という思いも含まれていることに、苛立ちの中で気づいた。
毎日一緒にいることはなくなっても一番気心の知れた女友達、何かあった時には気兼ねなく頼れる間柄。それが幼なじみとの、長年変わらない距離感だと思っていた。
その認識が自分だけのもので、奈央子にとっては違っていたのみならず迷惑なだけだった……とは認めたくなかった。そうなのかもしれない、と考えるだけで辛いからだ。
──彼女に見放されるのは、怖い。
そういう思いが自分の中にあったなんて、こんな状況になるまで想像もしなかった。
いまだ意味深な目を向けてくる木下から顔をそむけ、斜め前方を見る。柊の三列前、全体の真ん中あたりに、里佳は仲の良い女子学生数人と固まって座っていた。
企画責任者の話が続く中、里佳は両隣の友人と小声で会話しているらしく、時折顔を近づけ合っては楽しげに肩を揺らしている。
……里佳と、いわゆる「彼氏彼女」の間柄になって二年ちょっと。高校時代から活発で可愛いと評判は高かったが、人の賞賛に甘んじたり調子に乗ったりする性格ではなく、その意味ではむしろ謙虚だったと思う。
男子にも女子にも好かれていた里佳からの告白は、柊にとっては青天の霹靂だった。後で聞いたところでは噂にはなっていたらしいのだが、ともかくその時は驚きうろたえた。女子からの告白自体、初めてだったのだ。
数日考えて、里佳と付き合い始めた。可愛いとは柊も思っていたし、人気のある女子が「彼女」になるのは少し鼻が高くもあった。
もちろん、里佳自身に好意を感じているからこそ、二年も付き合いが続いているのだが
──最近、これまでは疑問に思わなかったことが、頭や心に時々引っかかるようになってきた。具体的に言えば自分自身の気持ちで、時期としては、幼なじみの様子が変わってきた頃から。
里佳を、今でも可愛いなとは思うし、一緒にいる時は肩がこらなくて、話していて楽しい。映画や食べ物の好みも合う相手だ。
もしも別れることになったら、きっとしばらくは寂しく思うに違いない。だが——それを想像しても、自分でも意外なほど、怖いとは思わなかった。
付き合いが続けば楽しいだろうが、たとえば里佳に他に好きな相手ができて別れを告げられるという事態になったら、それはそれでしかたない。そんなふうに思っている自分に気づいたのである。
……十分後、昼休みを十五分残すところでミーティングは終わった。周りが遅い昼食について話を始める中、柊は会議室を出る人の波に混ざった。次は文学部棟で必修の講義があるから、昼は何か売店で買おうかと考えていた時、後ろから前触れなく腕を取られる。
「三限、文学部でしょ。図書館行くから途中まで一緒に行こう」
にこにこと機嫌良く、軽く腕をからめてくる里佳に「──ああ」と生返事を返した。我ながらおざなりだなと思ったのだから、里佳はもっとそう感じただろう。一瞬妙な顔をしたが、すぐに笑顔に戻って再び口を開いた。
「楽しみだね、今日のレストランとライブ。五時半に正門前、忘れてない?」
「わかってる。あの、売店ちょっと寄りたいんだけど」
大学の最寄り駅を挟んだ反対側に、学生の間で評判のカフェレストランがあるらしい。ジャズライブが行われる水曜夜のディナーが特に人気で、最低二ヶ月は予約待ちなのだそうだ。友達から聞いて以来行きたがっていた里佳が、夏休み前に予約を取ったのだった。
里佳のはしゃぎように対し、柊は相づちを打ちながらも弾まない気分を抱えている。日を追うごとに、確実にそういう時が増えていた。
学生会館近くの売店で、売れ残っていた菓子パンを適当に選んで買う。そして文学部棟と大学図書館の方へ引き返そうとした時。
反対方向へ向かう学生の中に一瞬、奈央子の姿を見たように思った。思わず足を止めて見回すと、すれ違っていった人波の中に、確かにそれらしい後ろ姿を見つけた。連れらしい隣の女子学生は、友人の彩乃だろうか。
五秒ほど、立ち尽くしていたと思う。里佳が袖を引いて「どうしたの」と問いかけるのと前後して、柊は慌てた声で言った。
「悪い、急に用ができたから」
え、と不可解な顔をした里佳にそれ以上説明することなく、走り出す。奈央子たちらしき二人はだいぶ前方で、学生会館の地下へ、学食のある階へ降りていく。
追いかけてどうする、という当ては何もない。顔を見ても何も言えないかもしれない。
それでも、奈央子との間が今の状態のままで続くのは嫌だったから、なんとかして修復のきっかけを作りたかった。友人といる時なら逆に、すぐに逃げたりはしないのではないかとも思った。
後を追って地下に駆け込んだが、十何秒かの差があったせいか、彼女たちの姿は見当たらない。食券売場からメニューごとに分かれたカウンターを通り抜け、数百人分の座席を何度も見回したが、それでも見つからなかった。ここには来なかったのだろうか……あるいはそれ以前に、人違いをしたのか。
周りの学生の怪訝な視線に気づいて、途端に興奮が冷めていく。入れ替わりに頭を占めたいたたまれなさとともに、柊は慌てて出口を目指した。かなり恥ずかしかった。
学食と建物の外の境にある空間で息をつこうと立ち止まる。ほぼ同時に、視界の端に見えた靴が、迷うような動きで止まった。
顔を上げると里佳が立っていた──やや息を切らせつつ、表情をなくしたような顔で。
目を覚ました時、窓の外は明るく、太陽はかなり高く上っているようだった。跳ね起きて携帯の表示を見ると、十時二十五分。一瞬愕然としたが、どうしようもないなとあきらめ、柊は再びベッドに寝転がる。
今日は一時限目に演習があり、後期の課題である研究発表について、同じグループの学生と話し合うことになっていた。もちろんサボるつもりはなかったのだが、明け方まで寝付けなかったせいで完全に寝過ごしてしまった。今から行っても、大学に着くのは二時限目が終わる前後になってしまうだろう。結果的にドイツ語もサボるわけだから、ノートを誰かに貸してもらわなければならない。
……これまでなら、何の躊躇もなく奈央子に借りていたのだが。そう考えて、連想的に昨日の出来事を思い返す。途端に苦いものがこみ上げてきた。
この二年間、里佳との付き合いは特に変化はないが穏やかで、諍いらしいものもしたことはなかった──昨日までは。
昨日の昼、学食前で再び里佳と顔を合わせた時に感じたのは、後ろめたさの混じった気まずさだった。何も言わず、無表情のまま柊を見つめる様子から、唐突にこちらへ走ってきた理由を察しているようにも思えた。
言い訳も呼び止めることもできずにいるうちに、里佳はぎこちなく背を向けて外へ出ていった。その後、約束の時間に三たび会った際にも態度に変化はなく、こちらが努力して話しかけてもほとんど答えなかった。
そんな状態では何も楽しめるはずがなく、レストランはライブの途中で早々に出てしまった。帰り道でも沈黙続きで、さすがに悪かったと思ったからともかく謝ろうとした。
だがそれよりも一瞬早く、里佳がつぶやくように切り出したのだ。『私って、羽村くんにとっての何?』と。
彼女に決まってると答えるべき問いに、しかし柊は即答できなかった。その反応に里佳は、歯を食いしばるように唇を引き結んだ。
『やっぱり、私よりあの人が大事なんだ』
『え?』
『あの人にはよく声をかけるけど、私にはそんなことめったにないものね。デートだって私から誘ってばかりだし──結局いまだに名前で呼んでくれないし、あの人みたいには』
あの人、イコール奈央子であることにそこで気づいた。里佳がなぜあの場で、奈央子を引き合いに出したのかはわからなかったが、痛いところを突かれているのは確かだった。だから思わず、ぶっきらぼうに尋ね返した。
『なんで奈央子が出てくんだよ。関係ないだろ』
『関係、あるわよ。だって』
声は唐突に途切れた。直前までのヒステリックな様子が嘘のように里佳は黙り込み、唇と握りしめた手を震わせていた。
『────わからないの?』
『……? 何が』
本心からわからない、といった声で反射的に答えた柊に対し、里佳はひどく複雑そうに笑ったのだった。自嘲と安心と落胆と、他にもいろいろ混ざったような笑み。
『そうね。わからないんだから、放っておいた方がよかったのかも。よけいなことするんじゃなかった』
なぜかその時だけ、妙に直感が働いた。
『もしかして、奈央子に何か言ったのか?』
そう口にした瞬間、里佳の顔からは複雑な笑みが消えた。顔色が悪く見えたのは、周りが暗いせいだけではなかっただろう。
足を止め、うつろな目でこちらを見つめた後、里佳は一言も口にせず走り去った。その時にはもう大学の最寄り駅の手前まで来ていたのだ。里佳が駅の構内に消えても、しばらく柊はそこに立ち尽くしていた。
……奈央子と里佳が仲良くしたがっていないのは察していたが、理由がずっとわからなかった。だが昨夜の発言からすると里佳は、奈央子に対抗意識というか、つまりは嫉妬を感じていたらしい。ただの幼なじみだと何度も言ったのにまだこだわっていたのだ。
だが里佳の指摘した柊の態度は間違いではなく、そういう付き合い方をしていた事実に奈央子は関係なかった、とは言えなくなっていることにも気づかされた。
自分にとって奈央子は、どういう意味を持つ存在なのか──自分より身長も力もない、確実に女子だとだと認識する機会がありながら、恋愛対象になりえる存在でもあることをはっきりとは意識していなかった。
そのくせ、彼女はずっと身近にい続けると疑うことなく思っていたのだ。だが、たとえ本当の姉や妹だったとしてもいつかは離れていくのが当然なのに、何を勘違いしていたのだろう。
実際、奈央子はもう離れていきかかっているではないか。里佳が何を言ったにせよ、離れようとしているのは彼女自身の選択だ。
……自分が里佳と付き合っておきながら、奈央子が彼氏を作ることを考えたことがないなんて、どれだけ鈍感だったのか。今までそういう気配を感じなかったのはたまたまで、彼女と付き合いたい奴はいくらでもいるに違いないのに。
今はまだだとしても、いずれは誰かと付き合い始める──もしかしたらすでに「誰か」はいるのかもしれない。
突然ひどい空虚感に襲われ、途方に暮れた心地になる。目まいさえ感じて、その後長い時間、起きあがることができなかった。
眠っていたのか、思いに耽りすぎていたのかもわからないままに過ごして何時間経ったのか。玄関のチャイムが鳴ったのに気づいた時には、窓の外は薄暗かった。
相手が誰にせよ居留守を決め込もうかと考えかけたが、チャイムは一定の間隔で鳴り続けている。しかたなく柊は起き上がり、面倒で誰何することなくドアを開けた。予想外に冷たい外気を感じた途端、頭を殴られるような衝撃とともに息が詰まった。
奈央子が、目を丸くして見上げている。ややあって彼女は、怪訝そうに眉を寄せた。
「……何してんのあんた」
心底呆れたような声。
「一限に演習あったんでしょ? 語学で同じクラスの人がすごい困ってたわよ。これ、その人から預かってきた資料。目を通して今日中に連絡ほしいって。携帯の番号はメモして中に挟んであるから──」
カバンからクリアファイルを取り出し、差し出しながら奈央子は説明を続ける。彼女の足元には折り畳みの傘が置かれ、その背後、アパートの通路の向こうに見える景色は、いつの間にか降り出していた雨で霞んでいた。
それらを機械的に認識しながら、柊は凝視していた──奈央子の、伏せた目元の長いまつ毛、ファイルを持つ細い指、かすかに白い息を吐く口元を。
「ちょっと、聞いてるの?」
不機嫌そうな声が向けられて、瞬いた。声に違わない、気分を害したという表情で上目遣いに見た後、奈央子はふうっと聞こえよがしなため息をつく。
「いいわもう、詳しい話は電話して直接聞いてよ、その方が早いでしょ。じゃ」
早口で言い、ファイルをこちらの手に押しつけて、奈央子は背を向けかける。その一連の動作を目にして突然、くすぶっていた感情が強い衝動に変わった。一瞬の空白の後、彼女との間隔は数センチと空いていない状態になっていた。右手で奈央子の肩を壁に押しつけ、左手は顔のすぐ横に置く体勢で。
驚きに見開かれた目が、おびえたように揺れる。他人を見るようなまなざしに、傷つくと同時に激しく苛立った。
彼女のよそよそしい言動に対する腹立たしさ、辛さ、寂しさが一気に心に渦巻く。その勢いはあまりにも強くて、言葉にならなかった。だから行動で表わした。
……時間ごと全てが止まったような静けさの中、触れ合わせた唇の、かすかな冷たさだけを感じていた。
少しだけ顔を離してまぶたを開くと、呆然とした奈央子の目が間近にあった。潤んで光る瞳に引き寄せられ、もう一度唇を重ねる。それが引き金になったかのように、硬直していた奈央子が身じろぎし、もがき始めた。
体をよじらせる彼女の肩をさらに強く押さえつけ、体を押しのけようとする手も力任せにつかみ、同じく壁に固定する。
「…………、……っ」
息苦しさにうめく声に、ますます衝動があおられる。全身で彼女の動きを封じながら、もっとキスを深めようとした。
その時、束縛から外れた奈央子の足が、柊の右の爪先をしたたかに踏みつけた。痛みで力がゆるんだ拍子に間髪入れず突き飛ばされる。同時に勢いよく振られた奈央子の頭が、ものすごい音を立てて柊の頭とぶつかった。
力加減のない頭突きはすさまじい威力で、比喩でなく目の前に星が飛び、しばらく何も聴こえなくなる。やっと聴覚が戻ってきた時にも、まだ頭はくらくらとして、足の痛みも治まってはいなかった。
背後の壁で体を支え、なんとか目を開けて様子をうかがうと、奈央子も同じように頭を押さえて前かがみになっている。手と長い髪で表情は隠れていたが、そのすき間からこぼれ落ちるものは、はっきりと見えた。
ようやく戻ってきた冷静さが、すぐに愕然とした思いに変わる。声をかけるより先に、憤然と顔を上げた奈央子に気圧されてしまった。涙をあふれさせた目で睨みつけ、無言で手を振り上げる。
頬を打った音の余韻が消えないうちに奈央子は出ていった──傘を転がしたまま、いまだ止まない雨の中へ。
かなりの勢いで打たれながらも、頬の痛みは感じなかった。頭と爪先に残る痛みももはや、かすり傷程度のものでしかない。
奈央子を傷つけて泣かせた、その事実がもたらしている心の痛みに比べれば。