ココロの距離
第6章:決意
土曜日、朝十時過ぎ。柊は家を出て最寄りの駅へ向かった。大学祭まで一週間の今日の午後、サークルで出す店で売る焼きそばの練習をするため、有志が集まる段取りになっている。その前に、人と会う約束があった。
相手は瀬尾彩乃、奈央子の親友である。話がしたいから時間を取れないかと、昨日連絡してきたのだ。
高校大学と同じ学校に進学した奈央子と彩乃は、見かけた時にはたいてい一緒にいる。そろって成績が良く、しかも負けず劣らずの美人だから、中学時代は目立つ二人だった。
二度同じクラスになったし、大学入学後もわりと顔を合わせているが、意図して彩乃と二人だけで会ったことはなかった。
話の内容は予測がつく。……火曜のことが彩乃に伝わっていないはずがなく、その件をどう思ったかも容易に想像できるから。
内心かなり緊張しながら待ち合わせ場所、大学の最寄り駅近くの喫茶店に到着した。午後から合唱サークルの練習がある彩乃と、集合場所が大学から一番近い二年生の自宅である柊の予定を擦り合わせて決めた店だ。
店に入ると、入口から見える窓際の席に彩乃はいた。視線を向けられて一瞬ひるむが、覚悟を決めて足を前へ進める。
時間は十一時過ぎ。彩乃はミックスサンドを注文したが、十中八九焼きそばの試作品を食べさせられることになると思ったから、柊はコーヒーだけにした。
しばらくは、ほぼ無言状態が続いた。こちらから切り出してもいいものか悩んでいたのだが、彩乃は彩乃で、柊が尋ねるのを待っていたらしかった。コーヒーが運ばれてきても口を開かない柊を一瞥して、彩乃はあからさまに大きなため息をつく。
「ねぇ、なんの話か見当ついてる?」
わずかに迷ってからうなずくと、「昨日、奈央子には会ってるわよね」と確認形で聞かれた。柊はもう一度うなずく。
昨日の四時限目、語学の英語の時間。教室の最後列に座っていた奈央子を見た時の衝撃は今でもまざまざと思い出せる──最初は人違い、次いで見間違いだと思った。だが何度見ても、切り揃えたばかりのような肩までの髪の女子学生は奈央子に違いなかった。
中学以降、彼女が髪をそこまで短くしていた記憶はない。まとめたり編んでいたりが多かったけど、たまに下ろしていると、背中に流れる様がとても綺麗なロングヘアだった。
その髪を切ったのはあの一件が原因かと、どうしても思わずにはいられない。思いきって尋ねると、彩乃は否定しなかった。
「ひと通り話は聞いたよ。……気の迷いか、でなきゃ望月さんとなんかあって八つ当たりしてきたんだろうって、奈央子は言ってた」
そんなふうに受け取られているだろうとは推測していたが、明言されるとやはりショックだった。彩乃もそう思っているのだろう。
だが、「けどね」と続けた彩乃の口調は、予想よりもだいぶ穏やかに聞こえた。
「あたしには、羽村がそういうことを奈央子に対してするとは思えないの。それがただの買いかぶりで、奈央子の意見が当たってるんだったら、あんた最っ低の男だけど」
後半の吐き捨てる語調に胸をえぐられる。
「でも、あたしは違うと思う。だから聞きに来たの、あんたがどういうつもりだったか。……奈央子のこと、どう思ってるのか」
こちらに向けられた彩乃の目は、ごまかしは一切許さないと言っているように厳しい。鋭い視線を受けながらも、ほんの少しだけ柊はほっとした。かなり非難されるに違いないと思っていたのだ。姉にそうされたように。
一昨日の夜、珍しく電話をかけてきた公美は最初から剣呑な声だった。『あんた、奈央ちゃんに何したの?』といきなり詰問され、いろんな意味でうろたえた。直前に会話していた奈央子が途中で急に泣き出したのだと言われて、納得すると同時に言葉をなくした。
柊の反応に公美は確信を深めたらしく、これまでの経験で三本の指に入るほどの辛辣な発言、端的に言えば罵倒を途切れることなく浴びせてきた。『今度奈央ちゃんを泣かせたりしたら、家族の縁を切るからね』と締めくくるまで、大変な剣幕であった。
だから彩乃にも似たような対応をされると思った。奈央子の親友らしく言うことははっきり言うし、辛辣さの度合いではむしろ公美に近い。そういう女子に縁がある運命なんだろうかなどと、ややずれたことまで考えた。
だが彩乃は奈央子の解釈をそのまま信じるのではなく、柊の言い分も聞こうとしてくれている。予想外であり、有難いとも感じた。
「確かに、八つ当たりだったかもしれない」とまず言うと、彩乃の眉が上がる。
「けど望月は関係ない。あの時は、奈央子が今までと違う態度なのが嫌で……離れていってほしくなくて、それで」
彼女のよそよそしさに対する苛立ちが行動に結びついた。万が一抵抗されなかったら、キスだけで止められなかったかもしれない。それほどに感じた衝動──欲望は強かった。
里佳に対してはそういう時があってもかなり淡白で、一度キスすれば治まっていた。けれどあの時は繰り返すほどに衝動が高まっていき、抑えようとも全く考えなかった。
九月の終わり、不可抗力で抱きしめた時に感じたのは、なぐさめたい、守りたいという思い。今もあるその感情とともに心を占めるのは、奈央子を誰にも渡したくない──自分だけのものにしたいという強い欲求だった。
「それって、どういう意味?」
「──好きなんだと思う」
「『思う』?」
「いや違う、……奈央子が、好きだから」
尋ね返す声の低さに、すぐさま言い直す。
これまで気づかなかったのが不思議なほどに、揺るぎない気持ちだった。奈央子がどれほど大切なのか……叶うなら一生そばにいてほしい、そう思うほどに。
量るようにこちらを見る目を、真剣に見つめ返す。やがて、彩乃は少しだけ表情をゆるめた。笑いはしなかったが、目と口元から厳しさが薄れたように見えた。
「で、どうするつもりなの、これから」
「ちゃんと、あの時のことを説明したい」
許してもらおうとは思わない。だが誤解されたままではいたくなかった。確かに行動自体は衝動的だった、けれど気持ちはいいかげんなものではなかったと、正直に伝えたい。
相づちを打つようにうなずきながら、彩乃はミックスサンドの最後のひとかけを口に入れた。飲み込んでから「わかった」と言う。
「そういうつもりなら、協力するから」
今年、十一月第二週の金曜日は大学祭の初日である。何らかの催しに関わる学生は皆、この一週間は各々の準備に追われていた。
二日前の今日は、午後から各種レンタル用品・食材の販売業者による商品受け渡しが行われている。柊の所属サークルも屋台一式や調理器具などを手分けして引き取り、割り当てられた店の場所で作業を進めていた。
屋台セッティングや各種チェックが一段落する頃、幹部の一人である三年の女子学生が「後十五分で休憩」の指示を出す。場にいる全員を見回した後、柊に目を留めて言った。
「悪いけど買い出し行ってくれるかな。えーと、あと何人か……一人でもいいんだけど」
「あ、行きます、私」
と言ったの誰なのか、声だけでわかった。途端、周りの空気が微妙なものを帯びる。
「そう? じゃ望月さんと羽村くんで行ってきて。一・五リットルの飲み物四・五本と、お菓子は適当でいいから」
てきぱきとした言い方からすると、三年生当人は雰囲気の変化に気づいていないようだった。複雑な気分で指示を聞いて、売店のある学生会館の方向へ足を向ける。
並んで歩きはするが、お互い無言だった。諍いをした日からこちら、ずっとそうだ。
付き合っているのが暗黙の了解である同期の中で、そういう変化が気づかれないはずがない。『ケンカしたのか?』と木下や他の学生から尋ねられるたび、濁して答えていたものの、いつまでも通用するわけがなかった。いいかげんにはっきりさせなければいけない──里佳も気の毒だし、何より不誠実だ。
そう思いながらも、商品の多くが売り切れだった売店から学外のコンビニに回り、買い物を終える頃になっても、まだ切り出せていない。買い出しに名乗りを上げたのは自分と話すためではないか、だったら里佳から話を振ってくれるのではないか……と、消極的に逃げている自分がものすごく情けなかった。
「────あの、さ。望月」
コンビニを出て大学へ戻る道を進み始めたタイミングで、ついに口を開く。
「なに?」
思ったより普通の、ごく自然な声音に、ひとまずは安堵する。
「……今さらこんなこと言うなんて、最低だとは思う。でも、悪いけど望月とはもう付き合えない。他に好きな女がいるから」
里佳は上目遣いに見上げた。無言のまま、ゆっくり歩きながら見つめてくる。やがて、
「ほんっとに、今さらよね」
ため息まじりに、つくづく呆れたといった調子で言われる。そこに、怒りや悲しみは、意外なほど含まれていなかった。
「好きな人って沢辺さんでしょ。……そうだと思ってた、ずっと」
「え?」
「だいぶ前から気づいてた。羽村くんが好きな人はたぶん別にいるって。よく聞かされた『幼なじみ』がそうなのかもってなんとなく思ってたけど、自分から聞くのは嫌だったから、気のせいだってずっと打ち消してた」
「──それって、いつから」
付き合って三ヶ月か四ヶ月ぐらいかな、と言われて、少なくない衝撃を受けた。そんなに早い段階で、里佳は気づいていたのか。
「けど沢辺さんを直に見ちゃったら、敵わないだろうなって思うしかなかった。でもやっぱり別れたくなかったから、ちょっと悪あがきしちゃったけど──」
そこでしばし間を置き、里佳は尋ねた。
「沢辺さんの気持ちは知ってる?」
柊も少しの間の後、うなずいた。
……先週の土曜日、彩乃と相談し、奈央子と話す段取りをつけてもらうことにした。そして月曜日、奈央子に講義がない五時限目にと約束されたのだが──言われた場所で五時限目終了まで待っても奈央子は来なかった。
『どうしても行きたくない、話も聞きたくないって』とその夜にかかってきた電話で言われた時、ショックではあったがしかたないとも思った。あれだけ怖がらせたのだから、彼女が自分を拒絶するのは当然だと。
そう返すと、彩乃は電話の向こうでかなり長く迷ってから『こうなったらたぶん、あの子は自分から言わないだろうし』と前置きして、奈央子の本心を教えてくれたのだった。
『……だからすごく傷ついたし、話を聞くのも怖いんだと思う。あんたから女子として好かれるはずがないって決めつけてるから』
それは、自分も同じだった。奈央子から幼なじみ以上に見てもらえるとは一度も考えなかった。だから、彼女が怖じ気づくのはよくわかるし、あらためて自分のしたことを後悔した。せめて言葉にするべきだったと思う。
「そう、そのわりに浮かない顔してるのね」
「ん、まあ……ちょっと行き違いがあって」
例の一件は話しづらいので、言葉を濁す。
里佳は首を傾げたが、何か思いつくことがあったのか、申し訳なさそうな表情になる。
「それ、たぶん私のせいね。私が、あなたを遠ざけるように頼んだから。ごめんなさい」
奈央子と、里佳の不可解な言動の理由が、ようやくわかった。だが「怒っていいよ」と真面目に言う里佳を責める気にはならなかった。彼女たちの間でどんなやりとりがあったにせよ、あくまできっかけにすぎない。それに、里佳のその行動は、柊を真剣に好きでいてくれたことの証明だとも言える。
里佳に同じ気持ちを返せない自分が、どうしようもなく身勝手に思えた。
「……いや、謝らなきゃいけないのはこっちだから。ごめん」
「うん、それはそうかもしれないけど、でももういいの。今まで楽しかったし」
「けど、望月のことも好きだったよ、おれ」
そうでなければ二年も付き合わなかった。ただ、奈央子に対する想いとは種類の違う感情だったと、今は言わざるをえないけど。
どんなふうに受け取られたかはわからないが、里佳は微笑んでくれた。
「ありがとう。……沢辺さんとちゃんと話をしてね。私が言うのもなんだけど、正直に話せばわかってくれると思う」
それはどうだろうか、と柊は思った。奈央子は石頭ではないものの、一度決めたら簡単に翻さない程度に頑固ではある。話す機会を作るのも難しいだろうが、気持ちを伝えるのもたぶん、今となっては言葉だけでは駄目な気がする。口で言っただけでは、素直に信じてはくれないだろう。
だから、考えなければいけない──彼女が疑念を持つ余地のない、告白の方法を。