未来の花~『宵闇の光』前日譚

【1】春の終わり


 彼と出会ったのは春も終わりの頃だった。

 その日もカジェリンは、診療所の一室で作業をしていた。すでに夜も遅く、周囲はこの上なく静かな時間帯。
 大陸で一番広大な領土を持つ国、アレイザス。
 隣国コルゼラウデとの国境近くの街に、十年以上前に構えられた小さな、かつ街で唯一の診療所である。カジェリンが縁を頼ってここへ来た時は、六十過ぎの老薬師が一人で、人々の治療を行っていた。彼の助手としてカジェリンは働き、彼が三年前に亡くなった後、ごく自然にその役目を継いだ。
 当初は女だからと軽んじ、信用しない人々もいたが、ここ一年ほどはようやく、街の薬師として認めてもらえたように感じられる。薬師であることはカジェリンの誇りであり、先祖代々の生業を引き継ぐことでもあり、──自分自身が前向きに生きるための手段でもあった。
 毎年今頃になると、日々暑くなる気候のせいで、急に体調を崩す人が少なくない。早い夏風邪は言うに及ばず、昼間なら日射病、夜中には小さな子供や老齢の人が急な不調を起こしやすい季節でもある。
 そういう患者のためにと、日々の診療が終わっても早寝はせずに、夜半過ぎまでは起きているようにしている。幸いカジェリンは、あまり眠らなくても翌日の早起きが辛くはない体質だった。
 この時期は、風邪の症状ごとの薬を補充するのが毎晩の日課で、今日は残り少なくなってきた傷薬、睡眠薬などの調合も行なった。備蓄している薬草も一部が減ってきたので、近いうちに手配しなければいけないと考えつつ。
 それらの作業が一段落した頃には、周りの家々は明かりを消し、静まり返っていた。とうに夜は更けて、普通の人々は休んでいて当然の時間帯である。
 ここ数日、夜中の急患は来ていない。長患いの病人を抱える家が数軒あるが、昨日今日と往診したところ、どの患者も容態は安定していた。
 しかしそろそろ、飛び込みの患者が来てもおかしくはないとも思っている。理屈ではなく、薬師の勘のようなものだ。
 だから作業を終えても、普段は放ったらかしにしている書物の整理などを、形ばかり試みたりしていた。果たして、しばらくそうしていると、診療所の扉が慌ただしく叩かれた。
 はーい、と応じながら一体誰が急患だろうかと考える。向かい筋のダムスのお婆さんか、裏通りのラナンザのご隠居さんか……それとも先月生まれたばかりの、メルフさんの子供が熱でも出したのだろうか。
 しかし扉を開けてカジェリンが見た人物は、考えていたどの家とも関わりがなかった。
 「……あら」
 「悪い、入るぞ」
 と相手が言ったので、カジェリンは反射的に脇へと避けた。内開きの扉を体の左側で押しながら、右肩に担いだもう一人の人物を文字通り引きずりながら入ってきたのは、屈強な四十歳前の男。
 戸口から診療用寝台の間にある物をざっと押しのけ、彼らが通るための空間を作る。そうして横たえられたのは、彼よりもさらに長身の男性──白っぽい髪に一瞬勘違いさせられたが、よく見るとまだ少年に近い若者だった。気を失っている。
 見たところ、殴り合いをしたらしい痣が顔に二カ所。左腕に刃物の傷もあるが、それほど出血はひどくない。止血の処置をしながら尋ねた。
 「一体どうしたんです?」
 「うちの、若いのなんだがな」
 言いながら、彼──ボロムは、横たわる少年を指差した。何やら難しい表情をしている。
 「ちょっと目を離したスキに、酒場で喧嘩沙汰になりやがって……聞いた話じゃ相手の絡み方もタチが悪かったらしいが、こいつも辛抱の足りないところがあってな──慣れない場所で他人に関わるなってことは言ってるんだが」
 「まあ、そんなに喧嘩っ早い子なんですか」
 どちらかというと大人しげな顔つきの少年に目をやる。意識がない状態のせいもあるだろうが、粗暴な雰囲気は感じられない。
 「いや、そういうわけでもないんだが……」
 ボロムは言いよどんだ。伝えなければいけないことがあるが口にしづらい、といった間の後で、
 「ちょっとな、特殊なんだ。だから連れてきた」
 囁かれた言葉に、カジェリンはわずかに目を見開いた。少年とボロムを交互に見る。
 こちらの考えに確信を与えるように頷いてから、
 「相手が降参しても止めようとしねえから、俺が気絶させた。ここんとこだから、じきに気がつくはずだ」
 自分の首の後ろを示しながら、ボロムが言った。
気を失うほどの傷は見当たらないので頭を打ったのかと気がかりだったが、ひとまず安堵する。ボロムの喧嘩の止め方にいくぶん苦笑もしながら。
 ボロムは自分で組織した傭兵団の長である。小規模ながら構成員の腕は立つと評判で、近隣ではそこそこ名が知られている。
 彼が「うちの若いの」と言うからには、この少年も傭兵なのだろう。年齢的に、まだ見習いの段階かも知れないが。
 止血を終え、顔の腫れた箇所を冷やしてやっていると、手近な椅子に座っていたボロムが立ち上がった。
 「さてと。俺はちょっと外せない仕事があってな、朝までに向こうに着かなくちゃならねえ。何日かしたら迎えを寄越すから、すまないがそれまで預かってくれるか」
 「かまいませんよ。二・三日はまともに動けないかも知れませんし。この傷、深くはないけど関節に近いですから、ちょっと様子も見ないと」
 「──頼むな」
 と言ったボロムの声音はひどく真面目で、単純に身内の若者に対する以上の気遣いが感じられた。
 それが何故なのかは分かっているので、カジェリンは無言で、同じぐらい真剣な表情で頷く。
 とりあえず当座の治療費、とボロムは金貨を十枚ほど机に並べ、カジェリンの静止の声が聞こえないふりをして夜の街へと出ていった。
 ……やれやれ、相変わらずだわとカジェリンは一人ごちる。かの傭兵団長と知り合ったのはここで働くようになってすぐのことだ。先代の老薬師の患者であり古馴染みだった彼は、女であるカジェリンにも最初から、治療を生業とする者に対する敬意をもって接した。
 その態度も、置いていく治療費がいつも実費の倍以上はあることも、カジェリンがここを継いで以降も全く変わりがない。
 この若い人を帰らせる時には払い過ぎの分を持っていってもらわないと。そう考えつつ、金貨を実費分と返す予定分とに分けていると、背後で小さく呻く声がした。
 振り返ると、気絶から覚めた少年が目を開けるところだった。起き上がろうと身体を動かしかけたので、手を貸してやる。
 その手助けを受け入れたものの、この女は一体誰なのかと少年が考えているのは明らかだった。怪訝な目つきでカジェリンを見つめ、次いで室内を見回した。
 「ここは?」
 やや掠れた声で少年が問いかけた。
 「診療所よ。私はここの薬師でカジェリン。ボロムさんがあなたをここへ連れて来たの。……何があったかは覚えてる?」
 ゆっくり説明し、そして尋ねると、少年は考え込むように俯いた。しばしの沈黙の後「覚えてる」と呟くように言い、首の後ろに手を当てた。
 「酒場で喧嘩して……それで団長が」
 「あなたを無理やり止めたのよね。ちょっと乱暴だとは思うけど、まあ賢明だったわ」
 そう言ってやると、少年は憮然とした面持ちになる。
 「顔と、腕以外は目立った外傷はなさそうだけど、他にどこか痛みのひどい箇所とか、気分が悪いとかはないかしら」
 「──別に」
 と短く答えるのと同時に寝台から下りようとしかける少年を、カジェリンは慌てて止めた。
 「待ちなさい、何のつもり?」
 「帰る」
 少年の答えはあくまで短く、そして素っ気ない。喋っている間も惜しいのか単に面倒臭いだけなのかは知らないが、それはともかく、彼の希望通りにさせてやるわけにはいかない。
 「どこに行く気? 団長さんなら多分もう街にはいないわよ。朝までに着いてなきゃいけない仕事があるとか言ってたから。迎えの人を来させるまでの何日かはここにいろって」
 じろりと少年はこちらを睨んだ。そこで初めて、カジェリンの姿をまともに見たという感じで、何か推し量るような目つきをした。
 どう見られているかは大体推測できる。これまで初対面の相手はほぼ同じように考えていたからだ。
 カジェリンは女の中でもかなり小柄な方だ。さらに、老けていないと言えば聞こえはいいが、相当な童顔でもある。身体の外側が十代前半で成長を止めてしまったらしく、以後、年相応に見られたことはほとんど無い。
 言われたことがよく聞こえなかった、という態度で再び寝台から下りようとしたので、カジェリンは半ば以上本気を出して相手の身体を押しとどめた。思いがけなかったであろう力に、少年の顔にわずかに驚きの表情が混ざった。
 「ちゃんと聞きなさい。私はね、ボロムさんからあなたを預かってるの。そうでなくても、今の状態のあなたを出歩かせるつもりはないわ。分かってないかも知れないけどその腕の傷、それなりに重傷よ。今夜は高い熱が出るのを覚悟しておくことね」
 カジェリンが言い聞かせている間にも、彼の目は兆してきた熱のために虚ろになりつつあり、頬は紅潮しかかっている。それでもなお、少年は素直に従う気にはなれないようだった。
 「──あんたには関係ないだろ」
 「どうやら人の話を聞く耳がないようね。もう一度言うけど私は薬師で、あなたを患者として預かっているの。痛み止めと解熱の薬湯をすぐに作るから、それを飲んで今日は休みなさい。……それからね」
 腕を胸の前で組み、わざと重々しい口調にして続ける。
 「『あんた』って呼ぶのもやめなさいね。私には名前がちゃんとあるんだし、それにあなたまだ十代でしょう。いくつ?」
 「……十五」
 「やっぱり。私はこれでも二十八なんだから、それなりの敬意は払ってもらいたいわね」
 その言葉に、少年が目を大きく見開き、口を歪めた。表情には「嘘だろ?」と如実に、しかも必要以上に大袈裟に書いてあったので、カジェリンは頬の痣を少々強めにつねり、顔ごと歪めさせてやった。

 案の定、いくらも経たないうちに少年はかなりの高熱を出した。薬湯を飲ませてから再び横にならせると、間を置かずにうとうとと眠り始め、朝になってもまだ目を覚まさなかった。
 その間、カジェリンはほとんど眠らなかった。夜が明けるまでは、少年の額に乗せた布を水で濡らして冷たく保ち続けるために付き添い、熱が下がり始めたと思ったあたりで、座ったままで少しだけ仮眠を取った。一時間ほどで目覚めた後、今日の診察を行なうために診療所を開ける準備をした。
 普段使う寝台が塞がっているので、必要があれば奥の部屋から泊まり患者用の寝台を引きずってこようとも考えていた。しかし幸いにというか、朝のうちに来たのは全員、座った状態での診察と薬の受け渡しで事足りる患者だった。誰もが診療部屋の奥、衝立の向こうに何があるのか気にしている様子だったが、聞かれない限りは何も言わなかった。尋ねてきた何人かには、古い知り合いから預かった患者がいるのだと正直に、且つ当たり障りなく説明した。
 診察が一区切りつき、しばらく休憩にしようかと考えた時、奥で物音がした。足を運んでみると、少年がようやく目覚めたらしい。寝返りを打ち、顔をこちらに向けかけている。
 カジェリンは近寄り、ずり落ちかけている布を額から取りのけ、手を当ててみた。
 「うん、昨夜よりは下がってきたみたいね。気分はどうかしら。お腹空いてきてる?」
 熱のせいでまだぼんやりした様子の少年だが、思ったよりも目に力が戻ってきているように見えた。
 「……少し」
 「そう、食欲があるなら治りも早いわね。ちょうどお昼時でよかったわ。ちょっと待ってなさい」
 奥にある厨房に行きかけて、ふと足を止める。
 「そうそう、あなたの名前を聞いてなかったわね。ボロムさんからも聞きそびれてたわ。何て名前?」
 沈黙があった。その長さと表情から、あまり言いたくないらしいと直感したが、待ってみる。
 その無言の催促に観念したようで、かなり聞き取りにくい小声で、少年は「アドラスフィン」と答えた。
 カジェリンは瞬きを数回した後、つい吹き出してしまった。途端に少年がすごい勢いでそっぽを向いてしまったので、慌てて謝る。
 「ごめんなさい、笑うつもりじゃなかったのよ──それ、ボロムさんが付けたの?」
 と尋ねると、相手は顔を背けたまま頷く。
 ボロムは、普段は非常に現実的な人間なのだが、事が名付けに関する限り、昔語りや歴史的に有名な人物の名前を好んで選ぶという癖もあった。彼らにあやかるようにと考えての選択だそうだが……それにしても、かつて大陸全土で敵う者はいなかったという、英雄の名前を付けるとは。少年が言いたがらないのも無理はないと思った。
 「ええと、そのままじゃちょっと長いし、あなたも多分居心地悪いわよね。略称はアディでいいのかしら? ……なら、そう呼ぶことにするわね」
 と言うと、少年──アディはようやく、背けていた顔を心持ちこちらに向け直した(視線はまだあらぬ方向を見ていたが)。呼び方が決まったことで、カジェリンは少し落ち着いた気分になる。
 「で、もう一度名乗っておくけど、私は」
 「知ってる」
 唐突にそう言われたので、一瞬きょとんとした。
 「知ってるって……私の名前、覚えてるの?」
 「カジェリンだろ。あんた昨夜言ってた」
 実にぶっきらぼうな言い方で、普通に聞いていたら、もしかしたら喧嘩を売っているのかと思いそうだった。しかしカジェリンはその口調の中に、微妙に照れらしきものが混じっているのを聞き取った。
 どうやら、昨夜の話を一応は聞いていた、ちゃんと覚えていると示したかったらしい。
 「そうよ。忘れてるかと思ったけどちゃんと聞いてたのね。できれば、あんたじゃなくて名前で呼んでもらえるともっと有難いけど」
 にやにやと笑ってしまいそうなのを堪えながら言うと、アディは再びそっぽを向いてしまった。その顔が赤くなっているのは熱のせいだけではないだろうと思ったが、追究はせずにその場を離れた。
 野菜と少しの干し肉を柔らかめに煮込んだスープを、二人分の器に盛ってからちぎったパンを浸す。カジェリン自身は早く食べるためにそうしているのだが、病人でも喉を通りやすいので、泊まりの患者がいる時にはスープを多めに作る。今回はたまたま昨日の夜中に作ったばかりだったので、量にはまだ余裕があった。
 器を手に診療部屋へ戻ると、アディが衝立の後ろから姿を見せるところだった。
 「あらまあ。一人で起きられたの」
 少なからず驚きを表すと、アディは心外そうに、
 「……子供みたいに言わないでくれよ」
 呟くようにぼそりと言った。多少ふらついてはいるものの、衝立や机などにつかまることなく、自分の足で歩いている。
 そうやって立っていると、彼がいかに背が高いかがよく分かった。カジェリンにとっては文字通り見上げるほどで、おそらく頭一つ分以上は差がある。
 その長身と、年のわりに大人びてはいるがまだどこか不安定な雰囲気、そして幼さの残る顔つきと、若干ふくれたような口調。それらが奇妙に調和しているようなしていないような、不思議な印象を感じて、密かに興味を覚えた。
 実際には、「適当に座って。食べられるだけでいいから食べなさい」と促しただけであるが。
 カジェリンが器を机に置いても、アディは困惑した表情で、きょろきょろと自分の周りを見回している。仕方ないので、手近な椅子から積み上げていた書物をどけて、近くまで持っていってやる。アディがそれを引き寄せて座るのを見てから、カジェリンも席に着いた。
 互いにしばらく、食べることに没頭する。空腹は少しと言っていたアディだが、食物を胃に入れたことで食欲が刺激されたようで、器の中味の減り方はカジェリンよりも速いぐらいだった。
 その様子に安堵と満足を感じている間にアディは食事を終え、息をついた。そして再び、診療部屋をぐるりと見回す。
 予測はついたが、カジェリンは何か気になるのかと聞いてみた。言おうかどうしようかと迷うような少々長い沈黙の後、アディは口を開く。
 「ここ、本当に診療所なのか? それにしちゃ全然片付いてないよな」
 予想はしていても実際に、おまけにそう率直に言われるとほんの少しだが傷つく。しかし顔には出さなかった。
 「そう? これでも片付けてるつもりなんだけど」
 室内及び自分自身の清潔さを保つことには、普段からかなりの神経を使っている。だが反面、整理整頓という観点から見ると、我ながら才能に恵まれていないと思わざるを得ない。なんとか診療のための場所──人間が二・三人座れる程度の椅子と寝台の空間は確保しているが、そこ以外はほぼ、至る所に書物だの薬草を入れた袋だの、その他治療や薬の調合に必要な器具などが入り交じった状態で置かれたり積まれたりしている。カジェリン自身はどこに何があるか一応の把握はしているのだが、人が見れば無秩序に置いていると感じても仕方がない状態だというのも自覚していた。
 ……とは思うものの、実際に整頓するところまではいつも行き着かない。そのための暇がほとんど無いのは確かだが、根本的に苦手だから、他人が見てきちんとした状態まで整えるには相当な時間が必要であるのが確実で、ゆえに結局は手をつける気になれないのだった。
 「なかなか、時間が無いのよね。診療と往診以外にもすることはあるし、他に人手もないし」
 そう続けて言うと、アディはまた黙った。食べる手を休めてふと顔を上げると、じっとこちらを見ている。その時カジェリンはようやく、彼の目が初めて見るような、淡く透明な緑色であることに気づいた。白に近いほどの金髪もめったに見かけないが、目の色はそれ以上に珍しいと思った。
 「俺が、手伝おうか?」
 何を言われたのか一瞬分からず、きょとんとしてしまった。理解してからはまず意外に思った。そんなことを彼が提案するとは思わなかったからだ。
 「手伝うって、部屋の片付けを? あのね、そんなこと気にしなくていいのよ。あなたは患者なんだから……散らかってるのが我慢できない性分なのかも知れないけど」
 それもあるけど、と再び率直に言ってから、
 「一応、何日か世話になるわけだし──どうせすることもないし」
 ぼそぼそと呟くようにアディは付け加えた。つまり、治療の礼の意味も含めて申し出たらしい。見た目と喋り方の愛想無さとは裏腹に、意外に殊勝な一面もあるようだった。カジェリンは微笑んだ。
 「親切にありがとう。でもそれを考えるのは、もう少し回復してからの話ね。──ところで」
 何気ない口調で話題を変えたが、内心では意識もより研ぎ澄ます方向へと切り替えた。
 「昨夜はどうして喧嘩になったの? ボロムさんの話では、タチの良くない相手だったみたいだけど」
 「…………」
 「もっとも、あなたの辛抱も足りなかったって言ってたけどね。何がそんなに気に障ったの?」
 アディはなかなか答えようとはしなかった。何度か目を上げてこちらを見はしたが、口を開くまでには至らない。
 ずいぶんと待たされた結果、やっと聞けたのは、「髪の色をからかわれた」という一言だった。光の加減では白髪に見えなくもない薄さだから、珍しさで軽口を叩く人間もいるだろうとは考えられる。
 「それだけ? 聞き流してれば済んだことじゃないのかしら」
 その先の展開もカジェリンにはなんとなく想像できていた。だが敢えて今は口にせず、さらに問うてみる。しかしアディはまた沈黙してしまった──これも予想通りではあるが。
 「まあ、そんな人はどこにでもいるわよ。あなたにとってはうんざりすることでしょうけど、いちいち気にしてたらキリが無いわよ」
 言葉を選びつつ、わざと突き放すような含みを持たせて言ってみると、アディの目には複雑な色が浮かんだ。ちらりとカジェリンを見たものの、視線がぶつかった途端に目を逸らしてしまう。やっぱり昨日の今日じゃ全部話すところまではいかないわね、と諦めて、空になった二つの器を重ねる。
 「さてと、歩けるなら奥の部屋に移りましょうか。そっちの方が静かに休めるでしょ。そこの扉の向こうだけど……付いていきましょうか?」
 と手を貸そうとすると、アディは熱の下がりかけたばかりの怪我人とは思えないほどに素早く立ち上がった。丁寧なことに二歩ほど身体を後ろへ引いている──カジェリンの手が届かない距離を空けて。
 「いや、一人で行けるから」
 「そう? じゃ、後でまた薬湯持っていくから……奥は狭いから気をつけなさいね」
 頷いて歩いていくアディの背中を、その姿が扉の向こうに消えるまでカジェリンは目で追っていた。様々な意味で気がかりを感じながら。
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