未来の花~『宵闇の光』前日譚

【2】いつか必ず


 翌日の朝には、アディの熱は完全に引いた。さすがに職業柄鍛えているだけのことはあると言うべきか。長身だから細く見えるが、実際には筋肉が結構しっかりと付いているのは、毛布の上から触れただけでも分かる。
 念のためさらに半日休ませると、三日目には発熱の名残もすっかり消えたようで、足取りにも危なげなところは全く無くなっていた。
 後の問題は腕の傷ぐらいだが、左腕は極力動かすなと口を酸っぱくして言い続けた甲斐あって、傷口はかなり塞がってきている。筋組織や神経への影響も無さそうなので、あと何日かすれば、徐々にではあるが元通り動かせるようになっていくだろう。
 熱が下がり頭がすっきりした途端、アディは暇を持て余し始めたらしい。初日に提案した部屋の整理をしようと動き回りかけるので、せっかく塞がった傷がまた開いてもいいのかとカジェリンは脅した。
 しかし一日中何もせずに部屋にいるのは息が詰まる、と訴えられたので、考えた結果、片手だけでも何とかできてさほど動き回らずに済むこと──薬湯を煎じる鍋を時間を計りつつ見張る作業を頼んだ。ごく簡単なものは実際に製法を教え作らせもした。
 こちらの説明は全て覚えていて絶対に間違わず、帰らせる必要が無ければ助手にしたいと思うほど、アディは完璧に作業をこなした。
 順調に回復している証拠でもあり、喜ばしいことだが……復調に従い、彼は物理的な距離を置くようになった。常にカジェリンから数歩離れ、はずみで手や身体が触れたりしない間隔を保っている。傷の手当の際には大人しく近寄らせているが、わずかに緊張している様子が毎回見受けられる。
 精神的にはむしろ、こちらに気を許しつつあるようにカジェリンは感じている。大抵のことには素直に答えるので、彼が、幼い頃に両親と別れた後でボロムに拾われ、傭兵見習いとしての訓練を受けるに至ったことを聞いた。ボロムに父親に対するような思いを抱いているのも言葉の端々から分かった。
 但し、話したがらない話題もあった──生き別れたという両親のことや、ボロムに拾われる前のことなど。未だに、喧嘩の本当の訳を言わないのと多分同じ理由だろうと、カジェリンは思っていた。
 「ただいま。具合はどうかしら」
 アディが来てから五日目の夜、往診から戻ってきたところである。時間をかけて煮詰める必要のある薬湯を頼んでいて、今は冷ましている頃合いのはずだった。その通りになっていたので、カジェリンは出来具合を確認する。別の鍋で湯を沸かしてくれてもいたので、明日の朝早くにするつもりだった作業を、繰り上げて今夜中にやっておこうかと考えた。
 「せっかくだから、道具の消毒も一度にしてしまおうかしらね。もう一つ鍋を用意して──」
 カジェリンが言うと同時に、アディが鍋を保管している棚の方へと身体を捻らせた。その時、身体のどこかが何かに当たったはずみなのか、火にかけた鍋が揺れて傾いた。
 煮えたぎった湯がアディの左腕目がけて飛び散るのを見た瞬間、カジェリンは反射的に動いていた。
上半身で彼の腕を抱え込む態勢になり、湯はカジェリンの右の二の腕に降りかかった。熱さに思わず悲鳴を上げると、
 「カジェリン!?」
 アディが、彼らしく無いほどに取り乱した声で叫んだ。
 有無を言わさずカジェリンを、水を汲み置きしてある大瓶の前まで文字通り引きずっていき、瓶の中に直接腕を突っ込ませた。背後からアディは、右腕だけなのに相当な力でカジェリンを押さえ付けていて、動くに動けない。仕方なく、大瓶の前に膝をついた格好で、水が腕を冷やすのに任せていた。
 その姿勢だとカジェリンの顔は、瓶の口とほぼ同じ高さに来る。目の前の揺れる水面を見つめているうちに、思い出されることがあった。
 あの時は、お湯をかぶって火傷したのは、私ではなかった──
 考えているうちに、普段は隅に追いやっている記憶までが前へと引き出されてくる。……いつの間にか、その記憶に思考が浸りきり、半ば放心状態になっていた。
 「……ねえさん」
 声に出さずに呟いたその言葉を、実際に口にしたのは自分ではなかった。はっと我に返る。
 振り向くと、アディも心ここにあらずといった目をしていた。カジェリンが自分を見ているのに気づいてようやく焦点が合い、次いでカジェリンの無表情を目にして戸惑いの色を浮かべた。
 「今、何て言ったの?」
 「────あ、…………」
 「『姉さん』て言ったわよね」
 さらに問いかけると、アディは何とも言い難い顔をした。絶対に知られたくないことを自ら暴露してしまった時の、バツの悪さと後悔と、相手の反応を窺う不安などが全部入り交じった表情。
 全く言い訳を思いつけずにいる様子のアディに、カジェリンは無表情から一転して、相手を安心させるための微笑を作った。
 「知ってたわよ」
 「…………え」
 「正確には、ボロムさんにほのめかされたんだけど──あなたが特殊だって。つまり、そういうことなんでしょう?」
 答えないアディに対し、カジェリンはさらに、
 「私の記憶が視えたのよね」
 はっきりと口にした。その瞬間、アディは胸に刃物を突き立てられたような表情をしたが、それでも辛うじて頷くことで、カジェリンの言葉を認めた。

 百五十年ほど前まで、アレイザスと隣国コルゼラウデは、コルザという一つの大国だった。
 政教一致で、王族と同様に聖職者が崇められていた国であったが、それに不満を抱く王族の一派が叛乱を起こし、数年続いた内戦の結果、コルザは分裂した。叛乱を起こした新王族側が最終的勝利を収めたため、国土の多くは彼らの統治下に入り、六分の一にも満たない残りが旧王族の領土となった。前者が現在のアレイザス、後者がコルゼラウデである。
 聖職者の大半が旧王族に付き従ったので、彼らはかつての信仰を色濃く受け継ぐ結果になった。そのために「古のコルザ」を意味する「コルゼラウデ」が、新しい国名と定められた。
 今もコルゼラウデでは、聖職者の権力は王族並みだと言われている。彼らに与えられた土地は小さいが「神の降りた地」と呼ばれる聖地を含んでいたので、信仰を保つ上では適していたのだ。
 さらに、信仰の特殊性も作用していた。遥か昔、大陸に明確な成立国家が無かった頃、現在のコルゼラウデの聖地に天から神が舞い降りたという。神は三十日を人々とともに過ごし、かつてのコルザの基礎を作った。そして、その三十日と同じ時期には毎年自らの分身を遣わすと約束して、再び天へと帰っていった──と伝説は語っている。
 その伝説が信じられているのは、話の三十日に当たる時期に生まれる子供は、出生数こそ少ないものの、特殊な力を持っている例が多いためだった。多くの場合、それは他人の内面──感情や記憶を読み取るといった能力として現れる。中には夢や精神統一によって未来を予言したり、病気や怪我を癒す能力を現す者もいる。
 そういった者はほぼ例外無く、能力の発現から間を置かずに首都の神殿に入り、聖職者となるべく修行することとなる。その過程で能力を制御する方法を学び、神の分身としての身を清め、粗末にせず生きることを義務づけられるのだった。
 能力者が生まれるのは、現在ではコルゼラウデの領内だけだと言われている。……だが稀に、それこそ神の悪戯とでも言うべきか、国外でも同じような力を持って生まれてくる人間がいるのをカジェリンは知っている。少なくとも二人、そういう相手を身近に見てきた──そして、今ここにもう一人。
 「その力は、子供の時から?」
 というカジェリンの問いに、アディは再び頷いた。物心ついた時にはすでに、周りの人間の考えていることがほぼ「視え、聴こえていた」という。能力が発動するのは身体のどこかが触れ合った場合で、常に視聴きするわけではないが制御できない時もあるので、他人との接触は普段から避けている。数日前の喧嘩は、その態度が癇に障ったらしい相手が先に手を出したためだったとようやく話した。
 しかし幼い頃はそのような思慮があるはずも無く……子供のうちは今よりも力の感度が強く、たとえ触れなくても視聴きしてしまうことが多かったというから、接触に気をつけていたとしてもあまり効果は無かっただろう。
 そのために両親に捨てられたのだと、乾いた声で淡々とアディは言った。正確には、父親は気味の悪い子供を嫌って家を出ていき、母親は五歳の息子を森に連れ出し置き去りにした。その後彼らがどうしたのかは知らないという。母親は父親を追っていったはずだが(本人の思いがそう「聴こえた」らしい)、会えたかどうか知らないし、会えたとしてもやり直せたかどうかは怪しいと──それほどに父親は息子を、そして子供を産んだ母親を疎んじていたからとも語った。
 不幸中の幸いで、置き去りにされたその夜、森の中を彷徨い歩いているところをボロムに見つけられた。それ以後は彼がアディを育ててくれたようなもので、だから傭兵団が組織された時には迷わず志願したという。ボロムへの感謝ゆえに、どうしても彼の役に立つ男になりたいと思ったのだそうだ。
 アディの、ボロムに対する思慕の強さが腑に落ちた。親に見放された少年にとっては命の恩人であると同時に育ての親で、おそらくは彼の能力についての理解も持ち合わせている数少ない人間。
 元々コルゼラウデ出身だというボロムは、能力者に対する知識をある程度正確に持っていた。そして不必要に能力者を恐れたりせず、個人の特性として考えることのできる人物でもあった。
 ボロムだからこそ、アディをその特殊な力ごと受け止め、今まで生かしてこれたのだろう。アディが恩人を慕うと同時に、強く依存しているのも当然のことと言えた。それの是非はまた別の問題として。
 「さっきは、何が視えたの? ──私が子供の頃、姉が鍋をひっくり返して火傷して、さっきのあなたと同じようなことを私がしたのは視ただろうけど」
 踏み込んで尋ねると、それまで一応は全てに答えていたアディは口をつぐんだ。言いたくないというより、言っていいのかどうか迷っているふうに見えた。カジェリンを見る目には同情とも憐れみともつかない感情が入り交じっている。
 「……やっぱり、視たのよね。姉が首を吊って、それを私が見つけたこと。さっきはかなり放心状態になってたから、嫌でも視えたでしょうね」
 断言したカジェリンの口調に、アディは目を見開いた。何故そこまで能力について知っているのか、と言いたげな表情で。
 「ボロムさんに聞いたわけじゃないわ。私の、姉がそうだったから。あなたと同じ……いいえ、能力の種類は同じだけどもっと強かった。成長しても、触れずに視たり聴いたりすることができたの」
 カジェリンの生家は先祖代々、薬師を生業としていた。その家から出る薬師は、知識の豊富さもさることながら、診立てが確かなことでも知られていた。経験の浅いうちでも熟練者以上に働くと評される、病気に対する勘の鋭さを持つ者は、身内の間では先祖返りと呼ばれていた。ずいぶん昔、まだコルザが安定していた頃に、「神の分身」として生まれた聖職者候補の人物が何の理由でか放浪の薬師になったことが、生家の起こりだったという。
 コルゼラウデにおいて、能力は遺伝ではなく、変異的に発現するものと考えられている。大半の能力者は事実その通りなのだが、稀に同じ家の近い世代間で続けて能力者が出ることもあるらしい。
 しかしカジェリンの家系はどういった因果があるのか、先祖が国を離れて久しいにもかかわらず、今も何代かに一人は能力を現す人間が生まれてくるのだった。大叔父がそうだったと聞いているし、双子の姉もその一人であった。
 「……うちに出てくるそういう人たちは、ほとんどはそんなに強い力じゃなかったから、特別に教えを受けなくても自分でなんとか制御できるようになったと聞いたわ。けど姉さんはそうじゃなかった」
 カジェリンの姉は、元々の性質が人一倍繊細な娘だった。加えて、成長に従ってそれなりに感度を弱め落ち着くはずの能力が、より強く鋭敏になっていったのだ。時も場も関係なく他人の内面が「視え聴こえる」ことが次第に姉は耐えられなくなり、家の外へはおろか部屋からもめったに出ることがなくなった。
 ──そして十五歳になる直前の夜中、自室で首を吊ったのだ。
 それを見つけたのは、朝になっても起きてこない姉を不審に思って最初に部屋に入った、カジェリン自身だった。普段は思い出さないようにしているけれど、今も時折夢に見てうなされることがあるし、あの時の衝撃を忘れることは一生ないだろう。
 その後二年も経たないうちに、両親は心痛が元で相次いで亡くなった。カジェリンは縁あって十八歳の時に結婚したが、四年後に別れた。
 離婚の理由を尋ねるアディに、カジェリンは苦い笑みを返した。そして努めて何でもない口調で打ち明ける。
 「私が、子供をわざと堕ろしたから」
 アディの目が、再び驚愕で大きく開かれた。
 もしかしたら出来ない体質なのかも知れない、と思い始めていた頃に授かった命だった。周りは皆喜んだし、カジェリン自身も嬉しく思ったのに──それ以上に、恐れを強く感じてしまった。自分の一族に付いて離れない弊害を思い、それが我が子に現れることを危惧した。
 ……もし、生まれる子供が姉のような能力を持っていたら。
 姉のように苦しんだ挙句、解放されるために命を絶つことを選んでしまったら。
 そんな、悲しい選択を目の当たりにするのは、二度と御免だ。
 もう一人たりとも、姉や自分と同じ思いをする人間を増やしたくはなかった。能力の遺伝が確定ではないにせよ、遺伝しない可能性に頼って楽観視することはどうしても出来なかった。
 だから、妊娠五ヶ月になる少し前、堕胎のための薬を密かに作って飲んだ。誰もそのことは知らないはずで、だから流産も体調の急変で済まされるはずだった。……薬草を摘む姿を、近所の住人に見られていたことは後で聞いて知った。
 事実を知らされた夫や彼の身内は、当然ながら理由を問い詰めた。だがカジェリンは理由はおろか、弁解も一切口にしなかった。どう話そうと彼らは納得しないだろうし、自分のしたことが許されるとも思わなかったから。そして実際、その通りになった。
 動ける身体になってすぐ、離縁されたカジェリンは身ひとつで婚家を出た。すでに数少なかった親族を訪ねた際、遠縁に当たる亡き老薬師を知り、この診療所で働くことを決めたのだった。
 たった十四で自ら命を絶った姉。理由はどうあれ産むことを拒否し、天に還してしまった我が子──二人のことを思うと、視界に入る全ての人の命を、出来うる限り守らなければいけないという気が沸き起こる。可能な最大限の範囲で命を守り続けることが、カジェリンが生きていく唯一の理由であり、課せられた義務なのだとも思っている。
 語り終えた後、かなり長い間、沈黙が室内を満たしていた。水瓶に突っ込んだカジェリンの右腕、服の袖が生乾きの状態になるほどの時間が経ってから、
 「……悪かった」
 不意に、アディがそう口にした。
 「え?」
 「ここに連れてこられた夜──事情が分からなかったとはいえ失礼な態度だったよな、俺。それに、あんたがそんな思いで薬師やってるなんて知らなかったから……俺のことムカついただろ」
 抑えた口調ながら、本気で申し訳ないと思っているらしいのは伝わってきた。カジェリンは微笑む。
 「まあ正直言えば、多少はね。でもあれぐらいは日常茶飯事だから気にはしてないわ。もっと手のかかる患者さんはいくらでもいるもの……重病でも診てもらいたがらない人とか、長患いでどうせ先は無いから楽に逝ける薬を寄越せなんて言う人も中には」
 しまった、と思った時にはもう遅く、再び脳裏に姉の姿が蘇った。繊細ゆえに優しくて、少しばかり不器用なところもあった姉……命を絶つ時、最期に彼女は何を思っただろう。苦痛から解放される喜びか、家族に対する何らかの感情か。
 突然に目頭が熱くなり、頬を涙がつたった。自分も驚いたが、アディの驚きはそれ以上だったろう。
顔を見なくても、息を呑む気配だけで充分に分かった。
 「……いやだ、どうして」
 気まずい思いを感じながら、慌てて頬を拭う。
 しかし涙は容易には止まってくれなかった。考えてみれば久しく泣いてなどいない──子供を堕ろすと決めた七年近く前のあの日以来。
 声まで震えそうになってきたので、諦めて涙が流れるままに任せる。
 次の瞬間、視界にふっと影が落ちた。アディが身を乗り出してきたのだと分かると同時に、カジェリンは抱きしめられていた。お互い立て膝の状態でも身長の差は歴然としていて、カジェリンの額が彼の鎖骨の下あたりに来るという具合である。
 アディの思いがけない行動に動けずにいるうち、背中に回された手がぎこちなく、さするように上下し始める。忘れていた抱擁の温もりが心地よく身体に染みてきたその時、カジェリンの脳裏に閃くものがあった──ほんのわずかな間、それはこの上なく鮮やかに照らし出され、数瞬後にはかき消える。
 カジェリンの意識が現実に戻った時には、驚くほど互いの顔と顔が近づいていた。涙を拭うように唇を寄せてきていたアディから、さっと身体を離す。
 「……あのね、そういう優しさは、本当に好きな女にだけ使うようにしときなさい」
 こちらが身を引いたことに少なからず傷ついた、
という表情をしたアディに、カジェリンはきっぱりと忠告を与えた。彼の抱擁に一瞬身を委ねかけた自分に少しうろたえながら。
 まだ十五であるにもかかわらず、アディの男ぶりは悪くない。いわゆる美形ではないが顔立ちは整っている方だし、今は一見細身の体格にも、鍛え続けるうちに長身に相応しい幅が自然と付いていくだろう。そんな彼が、先ほどのような行動を無闇に取るのは良くないと思った。する本人にとっても、当然される相手にとっても。
 「……そんな女になんて、会えやしないよ」
 沈んだ声で言うアディの心境は推し量れたが、だからこそ、閃いたものを伝えておきたかった、
 「そうね、難しいけど……でも、必ずいつか会えるわよ。そういう相手に」
 「──『必ず』?」
 やけに断定的な言い方を不可解に思ったらしく、アディは訝しげに聞き返す。
 カジェリンは確信をこめて強く頷いた。
 「そう。私には分かるの」

 翌日、アディを迎えに診療所へ来たのは、ボロム自身だった。仕事が早く片付いて、帰る途中に寄ったという話である。
 治療費のことではしばらく揉めた。押し問答の結果、返すつもりだった金額のうち半分をカジェリンが受け取り、残りは持ち帰ってもらうことでやっと話がついた。ボロムに言わせれば、予想よりアディの面倒を長く見てもらったのだから全額でもまだ足りないぐらいだそうだが、カジェリンとしては予想外に作業を手伝ってもらったこともあり、全く気にはしていなかった。
 アディの、カジェリンに対する態度を目にして、ボロムは感じ取るものがあったらしかった。何も聞かれなかったが、アディが自分の秘密をカジェリンに話したことは察したようである。最初の夜の苦々しい表情とは打って変わって、安堵の色を浮かべた穏やかな目でアディを見ていた。
 いかにも、父親が子供を見つめるような目だなと思っていると、ボロムがこちらに向き直った。
 「世話になったな。それじゃ」
 「いいえ。道中気をつけて。──まだあまり激しく動かさない方がいいわよ。しばらくは無理しないようにね」
 後半はアディに向けて言うと、「分かってる」と素直に返事をした。そして、
 「……また、ここに来てもいいかな」
 神妙な顔で言ったので、カジェリンは微笑む。
 「もちろん。けど次は、喧嘩も怪我もしてない時にいらっしゃいね」
 付け加えた言葉に、ボロムが豪快な笑い声を上げる。アディは彼の横で長身を小さく縮めながらも、再び素直な様子を見せて、はっきり頷いた。

 晴れた空の下で彼らを見送り、一人になって診療部屋に戻ってから、カジェリンは昨日のことを思い返した。
 ──近くにいる人間の未来を垣間視る能力は、物心ついた頃にはすでに発現していた。幸いだったのは、当時から能力の発動はめったに無かったこと、悪い未来よりも良い未来を知る場合の方が多かったことである。カジェリンが視るものは全て必ず現実になった。
 昨日あの時に視えたのは、一組の男女──今よりもずっと大人びたアディと、傍らに立つ若い娘。どちらも二十歳を超えていると思われた。
 二人とも、とても幸せそうな笑顔を互いに向け合っていた。その様子から、彼らが愛し合っているのは疑う余地がなかった。
 花が咲くような笑みを浮かべる娘は、はっとするほど美しく、それでいて、小さな野の花のように可憐で慎ましやかな雰囲気も備えていた。
 視た詳細は黙っておいたが、いずれ愛せる相手に出会えることは、能力を打ち明けた上で確約した。カジェリンの真剣さに、アディは「あんたがそこまで言うならあり得るかもな。──まあ、期待せずに待っとくことにする」と少々可愛くない言い方で返したが、表情は一気に和らいでいた。
 互いの一番重い秘密を語り合ったことが、彼の心の頑な部分をかなり解きほぐしたようだった。同じ種類の悩みを持つ連帯感もあったかも知れない。
 カジェリンもまた同じように感じていたし、それがもたらす温かな感情に、久しく遠ざかっていたある種の充足感も覚えていた。
 患者は誰もが、自分の家族なのだと考えて接してきた。アディに対しても最初からそうだったが、今は思いがより深い場所へ踏み込んでいて、半ば以上本心から、彼を弟か息子のように──正確には、両方を合わせたような存在として認識しつつある。
 ……そして、ずいぶんと久しぶりに、結婚していた頃に思いを馳せた。別れは辛いものだったけど、それまでの月日を幸せに過ごせたのも確かだった。夫とその家族を愛していたのは間違いないし、彼らも自分を確かに愛しんでくれていたから。
 昨日視えたあの二人が現実になるまでには、アディの年格好から考えて、もしかしたら十年ほどは年月が必要かも知れない。先は長そうだが、一日でも早く、その日が来てくれればいいと思う。
 彼には、本当に想い合える相手と、想い合うことの喜びと幸福を必ず手に入れてほしい。姉のような母親のような気持ちで、カジェリンは心からそう願った。


                                - 終 -
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