宵闇の光
「おまえ、あの女を名前で呼んだな」
剣を繰り出す手は止めないまま、男が言った。
「そんな仲になってんのか。あの男女ともう寝たのかよ、え? 氷女とやるのは良かったか?」
嫌らしく笑いながら吐き出される侮辱的な言葉。さらなる怒りを覚えながらも、意外の念をかすかに感じているのは、相手の口調の端々から嫉妬と言うべき感情が視えてきたからだった。
フィリカに出会った当初のこの男は、存外真剣に彼女のことを想っていたのだ。だが他の男と同じように全く相手にされなかったため、必要以上に高い自尊心が「とことん踏みつけられて」、今のように歪んだ執着に変わる結果となった。
一瞬、本当にごくわずかではあるが、相手に同情を覚えなくもなかった。だがそれで怒りの目減りはしないし、ましてや許す感情が生まれるわけでもない。フィリカにとって危険人物なのは変わりなく、そうである限りは逃がすわけにはいかなかった。
衰えない勢いに依然後ろへ下がらされながらも、隙を見てなんとか前へ出ようと、足に力を入れ直しかけた時。
右足の下の地面がいきなり消えた。
踏み外したのだと思った時には、身体が後ろへと倒れ、斜面を滑り落ちていた──男の顔が、視界から消える直前に、心底愉快そうに笑ったのをはっきり見た。
追い込まれていたのだと今さら気づくが、遅すぎた。その斜面はかなり長く、もう少し角度が急なら崖と呼ぶ方がふさわしいほどであった。下まで落ちきる前に、どうにか身体を捻って落下を止め、全身に走った痛みを無視して起き上がる。
特に上半身を強く打った感覚と、左頬を切ったか擦ったかした、熱を伴う軽い痛みがある。だが幸い頭は打っていないし、普通に立ち上がれるので骨折も捻挫もしてはいないはずだ。剣は咄嗟に放り投げたので、無駄な怪我も負わずに済んた。
状態をざっと確認し、急いで斜面を駆け上がる。途中に落ちていた剣を拾い、先程の場所へと戻ってきたが、すでに男はいなかった。さほど時間が経ったとも思えないのに、見回した範囲に黒づくめの姿は確認できない。
考えるまでもなかった──男は本来の目的を果たしに行ったのだ。
アディはフィリカが逃げた方向を目指して、全力で走った。彼女が道を間違えていないように、同時に男が見当違いの方へ行っているようにと願いながら。それが叶うのならば、一度も信じたことのない神にだろうが何にだろうが、祈りたいと思った。
かなり走ってきたはずだが、まだ昨夜の小屋は見えてこない。正直に言えば方向を確実に覚えているわけではなく、こちらで良かったのかという不安は初めからフィリカに付きまとっていた。