宵闇の光

 「このアマ!」
 叫んだウォルグが拳を振り上げたのを見て歯を食いしばったが、少しばかり遅かったかも知れない。したたかに頬を殴られ、口の中に金気臭い味が広がる。
 こみ上げてくる吐き気は、飲み込んでしまった血のせいだけではなかった。腕と頬の痛みに朦朧としながらも、胸から腰にかけて這い回る手の動きははっきりと感じられる。その手が上着の留め金をつかみ、引きちぎるような勢いで外し始めたのも。
 ────こんな男なんかに……!
 例え殺されるのは諦めたとしても、汚されるのは我慢できない。このままいいようにされてたまるものかと思った。
 この状態では剣は抜けない──そもそも、引き倒された直後に奪われてしまったのか、腰のあるべき位置に重さを感じなかった。男の全体重がかけられているから分からないだけかも知れないが、触って確認することも今はできない。
 辛うじて動かせる左手を、伸ばせるだけ伸ばしてその範囲内を探る。石か、木の枝か、何か武器に替えられるものが落ちてはいないかと考えて。
 だが、土と小石以外は何も手に触らなかった。
 いよいよとなったら、舌を噛み切るぐらいの覚悟はできている。しかし何一つ──先程唇を噛んでやったのは除いて──反撃しないままでそうするのはあまりにも悔しい。何でもいい、何か使える物がないか……身体をまさぐられる不快感に耐えながら、フィリカは懸命に手探りを続けた。
 上着の前がはだけられ、その下の衣服にも手がかけられようとした、その時。
 不自然なほどの唐突さで、覆い被さるウォルグの全ての動きが止まった。ぐ、という喉が潰れたような呻きとともに。
 身体にかかる重みが一瞬増したが、どういうわけか直後には一気に重さはおろか拘束もなくなった。その機会を逃さず、できる限りの素早さで起き上がり、遠ざかる。そうしてからようやくはっきり目を開け、何が起きたのかを理解した。
 仰向けに転がったウォルグを見下ろしているのは間違いなくアディだった。言った通りにこちらを見つけてくれたのだ。苦しげにもがくウォルグの首に剣先が当てられる。アディは躊躇なくその刃を引いた──血が噴き出し、激しく飛び散る。
 軍に入って四年、未だ実戦の経験はない。町の巡回中に遭遇する事件でも、人が殺される場に行き会ったことはなく、目にしたのは初めてだ。……だが今はその光景自体より、アディの表情に寒気を覚えさせられた。限りなく冷たい無表情で、それでいて凄まじく怒っているのが容易に察せられた。
 それがフィリカのための怒りなのだと分かるにもかかわらず、本能的に恐怖を感じてしまうほど、その表情は冷えきっていた。
 アディが、動かなくなったウォルグをこちらから見えない所まで引きずっていくのを、そしてどこかに放置したのか手ぶらで戻ってくるのを、フィリカは呆然と座り込んだまま見ていた。一直線に彼が近づいてきて、目の前にしゃがみ込んだ時にも、まだ放心状態から抜けきっていなかった。
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