宵闇の光

 無言でフィリカの上着の前をかき合わせるアディの顔に、先程までの冷たさはなかった。表情は抑えていたが、目には気遣いと心配と不安が混ざった複雑な感情が浮かんでいる。
 悔やんでいるかのように唇を噛む彼の、左頬にある傷に目が止まった瞬間、半ばは逃避したままだった意識が一気に現実に戻ってきた。留め金を掛け直してくれていた彼の手を払って立ち上がり、方向も考えずに走り出す。制止する声が聞こえたが、振り返らなかった。
 ──どうして、逃げているのか。
 自分でも分からない。先程の一件に遅まきながら衝撃を覚えたからではなく、ましてアディを怖いと思ったわけでもない。……ただ、あの場にいるのがひどくいたたまれなかった。彼から遠ざかりたいと思った途端、身体が勝手に動いていたのだ。
 頬の傷は大きいものではなかったが、それは問題ではない。傷口の血の赤さが目に焼き付いている。あれ以上、アディの顔を見ていられなかった。
 離れたい一心で走り続けたものの、さほど行かないうちに足を止めざるを得なくなった。また息切れがしてきたし、今いる位置も把握できなくなりそうだったからだ。しかし、後戻りもできない。
 どうするべきか途方に暮れかけていると、後ろから左の手首をつかまれた。
 先程も似た状況で引き倒されたことを思い出し、心臓が止まる思いがしたが、当然ながらつかんでいる相手はウォルグではなく、アディだった。
 反射的に振り返った時、また頬の傷を見てしまった。拭われないままに頬を伝って乾いてしまった血が、フィリカの胸を締め付ける。見ているのは苦しいのに、今は目をそらすこともできずにいた。
 アディは、傷にも視線にも頓着している様子はなく、何も言わずに踵を返して歩き始めた。つかんだフィリカの手首を放さないままで。自然、彼に引っぱられて後を付いていく格好になる。
 フィリカは強い戸惑いを覚えて、拘束を解いてもらうために腕を引く仕草をしたが、そのたび彼はさらに力を込めて引き戻す。放したらまた逃げるとでも思っているのか、当面解放する気はないようだった。
 何度かの試みの後、フィリカはついに観念した。彼がどこに連れて行こうとしているのかは分からないが、その場所に着けばいずれは放してくれるだろうと、今は考えるしかない。
 しばらく、互いに無言で歩き続ける。やがて前方から、細くかすかな水音が聞こえてきた。
 間もなく、見覚えのある景色とともに、小川が姿を現した。そう遠くない位置には昨夜の小屋が見える。行きつ戻りつした挙句にたどり着けたらしい。
 小川の傍まで来ると、フィリカはいきなり地面に座らせられた。アディに強引に肩を押さえられて。それからようやく、つかまれていた手首が解放された。
 川の水に手を浸す彼の背中を見つめながら、半ば無意識に手首から先をさすった。強くつかまれていたせいで、手のひらや指に痺れるような感覚が残っていて、また熱がぶり返したかのようにじんわりと熱い。それが痛むわけではないし、痺れも動かしているうちに消える程度──のはずなのに、実際以上に強く感じられるのは何故だろうか。
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