宵闇の光
アディが手首を放した時、フィリカの中に奇妙な感情が湧き起こった。はっきりと言葉にはできない思いだったが、あえて当てはめてみるなら、残念な気持ちに近かった。そしてその感情は今も続いている。
早く放してほしいと願っていたはずだった。
……なのにいつの間に、もう少しあのまま、つかまれたままでいたかったなどと、思うようになっていたのだろうか。全く見当もつかない。
思考がまとまらないうちに、何かを濡らし絞っていたアディが振り向いた。手にしているものを前置きなく、フィリカの頬に当てる。冷たさと水がしみる痛みに、思わず顔をしかめた。
そういえば殴られたのだったと、今さらながら思い出した。自分では確認できないが、痛さと熱の感覚から推測すると、左頬はかなり腫れているのかも知れない。おまけに、唇の端を少し切ってしまっているようだ。──しかし今は、自分の顔の状態などどうでもよかった。
頬に当てられた、川の水に浸された布を持ち主の手から奪い取り、フィリカはそれで相手の頬に付いたままの血を拭い始めた。
その時に初めて自らの傷に気づいたかのように、アディは少し目を見張った。しかしされるままになっていたのはわずかな間で、フィリカが血を拭いきらないうちに、その手を自分の頬から引きはがす。
「たいした傷じゃない」
そう言って、奪い返した布を再度、こちらの頬に当てようとした彼の手を押しとどめた。怪訝な表情の相手に対し、フィリカは首を横に振る。
確かに大きな怪我ではない。血はもう止まっているし、さほど深手ではなさそうに見える。さらに言えば、斬られた傷とも違うようだった。
だが、その点が全て逆であろうとなかろうと関係ない。嫌になるほど声が出しにくかったが、その傷から目を離さず、どうにか呟くように言った。
「けど、それは私のせいで」
自分が原因でアディが傷を負った。その事実が、フィリカにとって唯一無二の今の問題だった。
「違う、これは不可抗力──いや、俺に油断があったからだ。あんたのせいじゃない」
彼自身は本当にそう思っているらしい。静かな声だが、こちらに言い聞かせるような断固とした口調で返してくる。
しかしどう言われても、フィリカには自分のせいでないとは思えなかった。一緒にいなければ、自分を探していたウォルグと会うことはなく、怪我をする状況に陥ることもなかったのだから。
……そうでなくても彼が、フィリカを逃がすためにあの男と剣を交える必要などなかったのに。