ココロの距離 第2話 - 桜降る頃 -
第2章:憧れの従姉

 9月中旬のある日。
 朝のホームルームの時間、県立T高校はどの教室も、普段よりやや落ち着かない雰囲気に満たされていた。先週、2日間に渡って行われた、校内実力試験の結果が出たのである。
 正確に言えば、今日配られたのは試験の成績一覧表だった。各教科の得点に加えて学年全体の個人順位が記されており、予想通りもしくは予想外の自分の順位に、各生徒は否応なく一喜一憂させられているわけである。
 宏基の属する3年2組も例外ではない。
 「なあ、どうだった?」
 前の席から聞いてくるのは、クラスメイトの篠崎である。興味津々なその様子に、宏基は手にした成績表を遠ざけながら答えた。
 「ん──まあまあかな」
 簡潔な答えが気に入らなかったらしく、篠崎は眉を寄せてこちらを見る。宏基は無視して成績表をカバンにさっさとしまおうとしたが、わずかな隙をつかれて奪い取られた。
 あっと思った時にはすでに、4つ折にした成績表は篠崎の手によって広げられていた。一見して「うおー」とわざとらしい驚きの声を上げる。
 「26位!? マジかよ」
 必要以上のリアクションと声量に、周囲の視線が集まる。宏基は顔をしかめた。
 だが篠崎がそのように騒ぐのも無理のないことではあった。
 何の因果か3年間同じクラスで、部活も同じ陸上部である。故に1年からの互いの成績もおおまかに知っていた。二人とも当初は同じレベル──平均点スレスレあたりでうろついていたのだが、1年の終わり頃から宏基の成績は徐々に上昇し始めた。二百数十名の文系全体で百数十位台だったのが、今回の試験では30位以内に入るまでになった。
 それだけ成績を伸ばしてきた背景には、K大合格の目標があることを、今では周囲のほとんどが承知している。近県では5本の指に入る偏差値の高さで知られるK大を第一志望としたことに、最初は無理だと口を揃えていた担任や両親だったが、今は宏基の努力と成果を喜んでいた。勉強嫌いだった宏基がやる気を出してくれた、と彼らには単純に思われているが「やる気」の本当の理由までは当然ながら知らない。
 ……その反面、宏基の周辺の生徒は、大半が理由を正確に知っていた。宏基自身は数人にやむなく話しただけなのだが、勝手に広まってしまったのだ。
 今も、こちらを向いたクラスメイトの表情は様々あれど、いずれも納得ずくの視線であるし、
 「頑張るよなあ御園。……ま、当然っちゃ当然か」
 しみじみと、かつニヤニヤしながら篠崎は言う。
 「うるさいな、返せよ」
 宏基がK大受験を決めて成績が上がり出した頃、あんまりしつこく聞いてくるのでつい彩乃のことを洩らしてしまって以来、こんな調子なのであった。
 「御園、ちょっといい?」
 ──そしてここにも一人。
 「ん? ……なんだよ、大垣」
 成績表を篠崎から取り返し、再び折り畳みながら宏基は顔を上げた。
 声をかけてきたのは、同じクラスかつ元部活仲間の、大垣(おおがき)まなみ。諸事情により、彩乃について宏基が自分から話をした、数少ない人物でもある。
 篠崎が急に笑いを引っ込め、宏基とまなみの顔を交互に見る──やや、恐る恐るといった様子で。周囲の雰囲気も似たような、微妙に張りつめた感じに変化した。
 「今日の部のミーティング、あたしと御園に顔出してほしいって、2年から連絡あったんだけど」
 「え、なんでだよ。とっくに幹部の引き継ぎは済ませてるだろ?」
 「そうだけど、なんかまだ自分たちだけじゃ進行役として不安があるとかって……特に部長がね」
 まなみは大きくため息をついた。確かに、先月引き継いだばかりの新部長は、リーダーシップの強さには欠けるところがある。彼を後任に選んだのは、個性の強い連中が多い2年の中で一番温和だったからなのだが、他の部員に比べて目立った記録を出せていないせいか、肝心なところで引いてしまう一面もあった。
 宏基もつられてため息をつきそうになり、慌てて口を押さえた。そういう人間を新部長に選んだのは他ならぬ自分たちであるから、責任を持たなくてはいけないのは道理だとは思うが……
 「松原もさ、その気になれば言いたいことは言えるくせに、押しがなんか弱いのよねぇ。だから御園の方からハッパかけてやってくれない? ミーティング自体はオブザーバーでいいからさ」
 松原とは、件の新部長のことである。
 「──わかった、出る」
 しばし考えた後、宏基は答えた。途端にまなみが笑顔になる。
 「ほんと? 助かるー。じゃそう伝えとくから」
 言いおいて、まなみは教室を飛び出していった。
 授業が始まる前に2年の教室まで行くのか、もしくはどこかに隠れてメールを打つつもりだろうと思った。一応、校内では携帯の通話もメールも全面禁止になっている。
 まなみが去って少ししてから、今度は篠崎がふうと息をついた。こちらを、先ほどとは違うふうに意味ありげな目で見ながら、
 「……頑張るよな、大垣も」
 ぼそりと、いろいろ含んだ口調で言った。宏基は「んー」と唸るのみで、それ以上は返さなかった。
 まなみは陸上部の元マネージャーである。入部当初から折り紙付きの「世話好きマネージャー」で、1年の頃から同学年のリーダー格だった宏基とは、必然的に話す機会も少なくなかった。
 そんな彼女が宏基に告白してきたのは、去年のバレンタイン前日であった。告白自体も、断った後の理由の問い質しも、実に明快だった。だから宏基も正直に理由を話し、まなみの納得も得た。
 あの御園宏基が年上のイトコに参っている、という噂が広まり始めたのは、その直後ぐらいだ。理由を聞き「わかった」と後腐れのない口調ではっきりと言ったまなみが、故意に広めたとは思わないが、友人の誰にも告白の顛末を話していないわけでもないだろう。
 人の口に戸は立てられないと言うし、自分が噂にされやすい対象であることも、うぬぼれでなく冷静に自覚している。中学時代から何かにつけて手紙やらプレゼントやらを、時には告白付きでもらう日々を続けていれば、自覚せざるを得ないという方が正しかったが──宏基の意識としては。
 さて、まなみが宏基に告白したことも、ほぼ同時進行で周囲の知るところとなった。部内では翌日には全員が承知している有様だった。
 注目を思いきり集めながらも、まなみはいつものように進んで部内の世話を焼いていた。態度が告白前と変わることもなかった。……前にも増して、宏基に相談事を持ちかけるようになったことを除いては。
 一見不自然ではなかったが、時として、幹部に直接話すようなことも先に言ってきたりした。宏基が部長になってからは特に、妙に細かいことにまで気がつき、口を挟むようになった。
 宏基はすぐに気づいたし、他の部員も程度の差はあれ察しているだろうと思う。まなみ本人も気づかれているとわかっているはずだが、何やかやと相談しに来ること、有り体に言えばそれを口実につきまとうことをそれ以来続けている。
 今日の件も、思いきって放っておけば良さそうなものだが、宏基がそういう性格でないことを見越して、わざわざ言ってきたのだと見当はつく。
 そうだとわかっていつつも、部活のこと以外ではそういうあからさまな行動をしないし、一応は元部長の責任も感じるので、あまり突き放すようなことも言えずにいた。
 加えて、まなみがマネージャーとして優秀だったのは確かである。半分はいつもの口実だとしても、あとの半分は本当に、今でも陸上部のことを気にかけているから、言ってきたのだろう。
 それを思うとなおさら、まなみの相談事は拒否できない気分になるのだった。時々、ひどく複雑な思いをさせられながらも。
 いろんな意味で対応しにくい問題だよな、と宏基が思った時、校内に1時間目開始のチャイムが鳴り響いた。

 10日ほど後の木曜日、宏基は朝から高校とは逆方向へ出かけた。
 今日は高校の創立記念日で、休日なのである。
 前々から、この日はK大の下見に行こうと思っていた。受験生向けのオープンキャンパスが10月下旬の日曜に開催されるのだが、宏基としては、普段の雰囲気も目にしておきたかった。……それに、もしかしたら彩乃に会えるかも知れない、という期待も少しはあった。
 8月終わりのあの日以来、一度も彩乃とは会っていない。電話すらしていない。会った時に携帯番号は聞いたし、何度かかけようとは思ったのだが……番号を全部プッシュする前に毎回、挫折していた。
 当然だが、宏基なりに意を決しての告白だった。
 しかし、当の本人には『なに冗談言ってんの』と受け流されてしまった。それが思ったよりもショックで、彩乃に連絡を取りたいと考えながらも、しばらくはそれが怖く思えるぐらいだった。
 従姉に、良くも悪くも弟としか思われていないことは知っている。最初に会った時からそうなのだ。
 けれど自分にとっては──初めは確かに姉のようだったと思うけど、小学生になる頃にはすでに憧れの対象で、初恋の相手だった。
 もっとも、そう自覚したのはかなり後のことだ。
 当時は、彩乃が近くに来ると嬉しいのに、同時にやたら気恥ずかしくて、落ち着かない気持ちになるのが何故なのか、わからなかった。それを気づかれたくなくて、話しかけてくる相手に必要以上に憎まれ口を叩いたり、虫嫌いな彩乃にわざと、捕まえた昆虫を放り投げたり近づけたりしていた。
 そうやって何度も従姉を泣かせて、両親には怒られていた。彩乃も警戒して、あまり宏基に近づいてこなくなった。それでも……いや、むしろ余計に、彩乃にちょっかいを出すことはやめなかった。
 自分の照れくささを隠すと同時に、彩乃の気を引きたかったのだと、今では思う。
 自分のやってることは逆効果だと気づいたのは、数年してから──彩乃が中学生になって、会う機会が少なくなり出した頃だ。気を引きたいのなら相手の嫌がることをしていてはダメだと、ようやく認識したのだった。
 それに気づいたとはいえ、じゃあ他にどうすればいいのかと考えても、そこまではわからなかった。
その当時は宏基は小学校高学年で、彩乃への気持ちが恋心なのだと漠然と意識し始めてもいたから、なおさらどう対処していいのかを思いつけなかった。
 会うたびに大人っぽく、きれいになっていく従姉を目にすると、どうしても緊張して口がきけなくなることが2年ぐらいは続いた。彩乃がせっかく話しかけてくれても、満足に会話できないことがほとんどだった。そのたびに自己嫌悪に陥ったものだ。
 そんな状態を克服するのには、さらに1年ぐらいかかった。彩乃の近くにいると少なからず緊張するのは変わらなかったが、表面上はなんとか、ごく普通に話せるまでには改善できた。
 ──それから5年近く。昔に比べて会える機会はますます少なくなり、最近1年ほどは特に、彩乃が親戚の集まりに出ることが減ったため(合唱サークルが忙しいとかで)、まともに顔を合わせることもなかった。けれど宏基の気持ちは変わらなかった。
 1ヶ月前、久しぶりに会った従姉は、覚えている以上にきれいな、魅力的な女性になっていた。そして、あらためて彼女が好きだと感じた。
 悩んだ末にK大を受験することにしたのも無駄ではないと思った。彩乃は子供の頃から親戚中で評判になるぐらい勉強ができたけれど、宏基は努力しても辛うじて赤点を取らずに済む程度のレベルで、決して出来が良くはなかった。
 そんな宏基が一念発起してK大合格を目指し、実際に成績を上げてきたのを、大人たちは驚きながらも喜んだ。彼らには合格実現が最終目標だろうが、宏基にとっては目標のための布石にすぎない。
 ──彩乃にふさわしい男になりたくて。
 彼女に、堂々と告白できるだけの自信を持つためにと、ただそれだけを念じている。
 だから実のところ、訪ねていったあの日は、当初はK大受験のことだけを話すつもりだった。彩乃にも宣言して、自分の決意をより固めようと思って。
 けれど彩乃を間近に見て、つい気持ちがはやってしまった。今年に入ってから何度も、従姉の帰省中を狙って実家に電話してみたけれど、いつも間が悪くて留守だった。そう聞くとどうも気が萎えてしまい、後でかけ直させるからと言ってくれる伯母に、またかけるから結構ですと返すことしかできなかった。結局、自分からかけ直したこともなかったのだけど……そのくせ、彩乃に会いたい気持ちだけは自分の予想以上に大きくなっていたらしい。
 ようやく会えて、相手を目の前にして、嬉しさと同時に奇妙な落ち着かなさも感じた。いま言わなければこの先機会がないかも知れないという、予感にも似た焦り。二人きりだったことも、ものすごく緊張はしたけれど、衝動に拍車をかけた。
 その結果があれだ。……やっぱり言うタイミングを間違えたと、すぐに後悔した。
 いや、それよりも先に確認すべきこと──彩乃に恋人がいるのかいないのか、まだ聞いてもいないのだ。自分の彼女になってほしいと心から思うけど、すでに好きな相手がいるのなら話は違ってくる。
 自分ほど、彩乃を好きなことに年季の入ったヤツはいないと自負してはいるが、従姉の気持ちをねじ曲げてまで振り向いてもらおうとは考えていない。
 ──だけどもし、決まった相手がいないのなら。
 なんとかして良い返事をもらいたいとも思った。
 そのためにはまず、彩乃と対等な立場になること──つまりK大への現役合格である。昔から、成績の話になると、必ずといっていいほど両親は(特に母親は)年の近い彩乃を引き合いに出していた。そのせいで宏基も、従姉に認めてもらうには同じだけの学力をつけるのがまず最初だという、強迫観念に近い意識があるのだった。自分がちょっとは見栄えのする外見だとか、陸上で多少は良い記録を残せたこととかは、この場合あまり意味の無いことだとも思っている──などと言ったら、周りからは総スカンをくうのだろうが。
 1時間ほどかけて電車とバスを乗り継ぎ、K大の正門前にたどり着いた。平日の昼間なので当然だが門は開いている。宏基は何食わぬ顔をして学生に混じり、構内へ入った。
 正門を入ると、正面に時計台のある大きな建物が見える。あれがたぶん大学図書館だろう。大学紹介の紙面には必ず写真が使われているほど、K大の象徴的な建物である。その手前には広い芝生があり、学生が思い思いにくつろいだり、バドミントンやフリスビーをしているのが目に入った。
 1万人以上の学生を抱える大学なだけに、さすがに構内は広い。そして樹木や花壇も多いので、歩いていると公園へ散歩にでも来たような気分になってくる。実際、近隣の住民も同じことを考えているようで、どう見ても学生・職員ではなさそうな年配の女性や親子連れと、宏基は数回すれ違った。
 講義用と思われる建物のエリアを一回りした頃、時計台から鐘の音が響き渡った。しばらくして学生があちこちの建物から出てきたところを見ると、講義終了のチャイムらしい。時計を確認すると12時10分過ぎである。これから昼休みなのだろうか。
 そう考えていると、すぐ近くの建物から女子学生が連れ立って出てきた。何気なく二人のうちの一人を見て、思わず息をのむ。
 彩乃だった。
 ……会えればいいなとは思っていたが、それほど偶然に期待していたわけでもない。そもそも、今日ここへ来ることの連絡もしていなかった。やはりまだ少し、思い切ってそうするだけの気合いが出せずにいたのだ。
 嬉しさと恐れがない交ぜになって、結果として宏基の足をその場に引き止める。どうしようと思っているうちに、近くまで歩いてきた彩乃が顔をこちらへと向け、宏基に気づき、目を見開いた。
 「──なにしてんのあんた、こんなとこで」
 呆気にとられた声で言う。宏基は覚悟を決めた。
 「何って、下見だよ。ここの」
 「学校はどうしたのよ」
 「うち、今日は創立記念日で休み」
 「あ……そう」
 拍子抜けしたように言った後、宏基を見上げたまま彩乃は無言になった。思いがけずじっと見つめられて、次に何を言うべきかわからなくなり、宏基も黙ってしまった。
 この反応はまずいなと思いかけた時、横から声がかかった。
 「ねえ彩乃、彼が宏基くん?」
 彩乃の連れの女子学生だった。あからさまではないが、こちらに向ける視線にはいくらかの好奇心が含まれている。不本意ながら慣れているので、その点はさほど気にしなかった。
 彩乃がはっと気づき、友人に顔を振り向ける。
 「あ、うん、そう。……えーと、同じ学科の友達」
 後半は宏基に向けて彩乃は言った。女子学生がにこりと笑い、宏基に会釈する。
 「はじめまして、沢辺奈央子です」
 「あ、どうも──」
 挨拶を返しながら、宏基は驚きを押し隠す。
 彼女の名前には聞き覚えがあった。8月に彩乃と会った時、どういう流れだったかは忘れたが、従姉が親友とその彼氏のことを話題にしたのだ。「美人ですごくいい子」だという親友の名前を、話の始めに彩乃は一度だけ口にしていた。
 なるほど、宏基の目から見てもかなりの美人だ。昔から大人びて見える彩乃と比べると、奈央子にはまだ高校生でも通りそうなあどけない雰囲気があった。だからと言って子供っぽいわけでもない。いま宏基に見せたような笑顔を向けられたら、たいていの男は多かれ少なかれ、自然に彼女に惹かれるだろうと思った。
 ピリリリ、とその時携帯の着信音がした。宏基のものとは違う。どこで鳴っているのかと見回した時、奈央子が自分の荷物から携帯を取り出した。彩乃と宏基に謝るように片手を上げながら、電話に出る。
 「もしもし──今? 彩乃と四号館の近くにいるけど……ええ?」
 顔に似合わぬ妙な声をいきなり発し、奈央子は眉を寄せた。
 「あんた何言ってんのよ今さら……そりゃやってるけど。だからって──あーはいはいはい、わかったわよ。じゃ教室行くから待ってて」
 ふう、と通話を切りながらため息をついた奈央子に、「どうしたの?」と彩乃が尋ねた。
 「柊|《しゅう》なんだけどね、語学の課題やってなかったって言うのよ」
 「語学って、もしかして次の?」
 「そう、次のドイツ語。あれだけ忘れずにやれって言ったのに、まったく──」
 その後にもぶつぶつと文句が続いていたが、実際には口にしているほど怒っていないのではないか、と宏基は思った。奈央子の口調が、相手を困ったヤツだと思いながらも、相手のそういうところも含めて放っておけない、というふうに聞こえたからだ。
 たぶん今の電話の相手が、彩乃曰く「幼なじみの彼氏」なのだろう。
 「頼られてるねぇ、相変わらず」
 「違うって、単に面倒でやらないだけなのよあいつは……とにかく急がなきゃ。話の途中でごめんね」
 「いいよ別に。早く行ってあげなって」
 「うん、じゃあまた」
 律儀に宏基に向かっても手を振り、分かれ道の左へ行きかけた奈央子が、くるりと反転して逆方向に走り出した。一瞬きょとんとした彩乃が「あー」と納得したように呟くのが聞こえた。
 「なに?」
 「いや、あの子の次の講義は向こうの建物なんだけどね……たぶん彼氏の昼ごはん買いにあっちの売店行くんだろうなって思って」
 「向こう」で左を、「あっち」で右を指しながら彩乃が説明する。なるほどと頷きながら宏基は振り返り、彩乃を見て「?」と思った。
 奈央子が走っていった方向を向いたまま、どこかもっと遠くを見るような目をしている。そして、先ほどまではあった微笑が消えていて、完全な無表情の状態だった。
 ……最初に奈央子たちの話を聞かされた時にも、途中でこんな顔をしていたような気がする。
 「彩姉?」
 その呼びかけに、彩乃はびくっと肩を震わせた。
 「──あ、うん、そうなの。奈央子ってものすごくよく気がつくし、いい子なのよねぇ。それにあんな可愛らしい美人だし」
 何も聞いていないのに早口で彩乃は話す。その様子に、親友かその彼氏(もしくは両方)に対して、何かしらのこだわりがあるらしいと宏基は察した。
 「……まあ、確かにあの人は美人だけどさ」
 「でしょう?」と言う彩乃に対し、
 「けど俺は、彩姉の方が可愛いと思うよ」
 そう言葉を続けていた。本当の気持ちであるが、口に出していたと気づいた時には、すさまじく恥ずかしくなった。
 しかし反応は彩乃の方が早かった。宏基の言葉に目を丸くした直後、ぱっと頬を染めたのだ。すぐに宏基から顔をそむけたので、こちらが赤くなったところは見られずにすんだ……と思う。
 何か言い返そうと考えているのだろうが、彩乃は無言で斜め下を見つめたまま、赤みの消えない頬に手を当てていた。そうしているうちに、今度は急に唇を震わせ始めた。どうやら笑いをこらえているらしいと宏基が思った時、
 「学食行こうか。あたしがおごるから」
 顔を上げて彩乃が言った。普通の口調で言おうとしているようだが、端々に嬉しそうな響きが感じられる。表情も先ほどとは打って変わって、明るい笑顔になりつつあった。
 一応、さっきの言葉は彩乃を喜ばせたらしい。だが宏基の前で開けっぴろげに嬉しがるのは、照れくさいからか、一生懸命抑えようとしているのだろうか。
 歩き出す彩乃についていきながら、宏基は、そういう従姉をあらためて可愛いなと感じた。
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