ココロの距離 第2話 - 桜降る頃 -
第4章:会いたい

 宏基がK大を訪ねた日の夕方。
 まなみは陸上部の部室を訪ねていた。一人で掃除をしていた2年生のマネージャー・戸田美咲が、ドアが開くのに気づいて振り返る。
 「あ、大垣先輩。どうしたんですか?」
 「うん、ちょっと様子見に。来週から自由登校であんまり顔出せなくなるし」
 そう答えると、美咲はしみじみとした口調で、
 「そっかあ、もうすぐ先輩たち卒業なんですね……寂しくなるなあ」
 と言った後、にわかに明るい声でこう続けた。
 「あっでも、後は心配しないでくださいね。私たちがきっちり引っぱっていきますから。松原もそう言ってましたよ」
 「へぇ、あいつが?」
 人の良さが短所でもある現部長だが、ようやく自覚が出てきたらしい。記録がいまひとつ伸びないことを引け目と感じていて、周囲に対して強く出られない面はいまだにあるようだが、元部長の宏基や自分が何度となくハッパをかけ続けた甲斐あって、引き継ぎ当初よりはだいぶマシになったかな、とまなみは思う。
 (まぁ美咲ちゃんもいるし、なんとかなるかな)
 美咲は、幹部生になってからも部室の掃除を1年に任せきりにはせず、時間があればこうやって自主的にやっている。まなみと同じく、心底からマネージャーの仕事が好きな子だから、部内のフォローもちゃんとしていってくれるだろう。
 「ところで、先輩──」
 「ん?」
 ちょっといいですか、と美咲が手招きをする。それに応じて、まなみは部室の奥に置いてあるパイプ椅子に、美咲と隣り合わせで座った。
 「うちの妹がですね……御園先輩に告白したいって言ってるんですけど」
 顔を近づけ、小声で話し始める。美咲の妹・由紀子は同じ高校の1年生で、まなみも何度か顔を合わせたことがある。小柄な子で、姉の美咲と比べるとちょっと気が弱そうな印象を受けた。
 「けどその……例の『噂』があるじゃないですか。1年生はよく知らないみたいだから教えたんだけど、諦められないらしくて……先輩はどう思います?」
 まなみは心の中でため息をついた。この手の相談は各方面から持ちかけられている。当のまなみが宏基を好きだと知らずに聞いてくる人間もいるにはいるが、多くはそうではない。それでもなお聞かれるのは、条件的に現在、宏基の一番身近にいる女子がまなみだという認識をされているからだろう。
 内心の複雑な思いは脇に押しやって、少し考えるふりをしてから答える。
 「そうだねぇ……由紀子ちゃんがどうしてもって言うんならしかたないけど、噂は間違いなく事実だから、やめておいた方が無難かも」
 言いながら、あんまり説得力ない台詞かもな、とも思った。とっくに玉砕しておきながら、いまだにふっ切れていないのはまなみ自身なのだから。
 美咲もそのことを知らないわけではないのだろうが、「やっぱりそうですよね」と頷くだけで、余計なことは言わなかった。
 「じゃあ、由紀子に念を押しときます。ふられるの確実でよければって──結構思いつめてるから、それでもいいって言うかも知れませんけど」
 困ったように笑いながら美咲は言う。まなみも同じように苦笑いを返した。
 「……ほんと罪なヤツだよね、あいつって」
 意識せず呟いた言葉に、美咲が気遣わしげにこちらを見るのがわかった。すみませんと言いかけるのを手で制して、しばらく窓の外を見る。
 今日、宏基が噂の従姉に会いに行っているのを、まなみは知っていた。受験会場の下見という目的はあれど、それは半分以上口実だろう。
 ……最初に卒業アルバムで写真を見た時から、きれいな人だとは思っていた。彼女──彩乃が何歳上でどこの卒業生か、告白時の勢いで宏基から聞き出した後、同じ女子高の同期生が身内にいる友人を探して、頼み込んで見せてもらったのだった。
 しかし相手が自分より美人だからといって、簡単に諦めてしまえるものでもない。高校入学後、陸上部で初めて会った時から、ずっと好きだったのだから。最初はちょっといいなと思う程度だったが、彼のリーダーとしての責任感の強さや、他の部員には煙たがれることもあったまなみの口出しを嫌な顔をせずに聞く辛抱強さに接しているうち、だんだんと気持ちが本物になっていった。
 初めのうちは、当の彼女が言っていたように、宏基の思い込みかも知れないとも考えていた。美人の従姉に対する憧れを、恋心と勘違いしているのではないかと……そうであればいいのにと思った。
 だから、なるべく不自然に見えない部分──部活のマネージャー業をそれまで以上に頑張り、リーダー役の宏基への相談を増やすことで、存在のアピールも続けてきた。しかしそうして近くにいることで逆に、彼の従姉への思いが単純な憧れなどではないと否応なくわかってきた。
 1年以上経っても、宏基は誰の告白も受け入れないし、当初無理だと言われていたK大を目指すのもやめはしなかった。そして秋の模試ではついに、合格確実と判定が出るまでになった。……このへんのことは、宏基に告白した女子や部活の同期である篠崎あたりから、水面下で広まっている。
 まなみが告白した時のあれこれも、まなみ自身は同じクラスの友人に話した程度なのだが、翌日には部活の仲間はすでに知っていたし、彼らから周囲に広まるのもそう長くはかからなかった。その前に一応の口止めは頼んだものの、効果はあまり期待しなかった。宏基には噂の種にせずにいられない存在感が必要以上にあるのだ。
 外見だけでも充分に目立つし、陸上は長距離走で常に県大会上位レベル。その上ここ1年は成績上位者にも名前を連ねるようになったのだから、注目が集まらない方がどうかしている。
 「……先輩は、その噂の従姉って人に会ったんですよね。どんな人でした?」
 おずおずと、しかし好奇心を隠しきれない様子で美咲が聞いてきた。
 「うん──頭の良さそうな、きれいな人だった」
 10月のあの日、彼女を見つけたのは本当に偶然だった。まなみ自身はK大を受けるつもりはなかった(受験するにも学力不足だと自覚していた)が、宏基のこともありどんな大学だろうとは思っていたから、見るだけのつもりでオープンキャンパスに行ってみた。時刻表の読み違いで早く着きすぎて、正門前のコンビニで時間をつぶしていたら──彼女が店に入ってくるのを目にした。
 向こうは当然まなみを知らないのだが、思わず棚の陰に隠れて、彼女の行動を追った。買い物を済ませて大学に入っていくのを見た時、まなみはその日一日をK大で過ごすことに決めた。彼女とじかに話す機会をつかむために。
 彼女は当日スタッフとして働いていたためいつも誰かと一緒で、一人になったところを捕まえられたのはオープンキャンパス終了後だった。間近で見た彼女は、2年前の写真よりも美人に見えた。交わした言葉は少なかったし、案内・誘導係としての姿しか見ていないけど、2歳しか違わないとは思えないぐらいに落ち着いた人だとも思った。
 この人が相手じゃしょうがない、とさえ思ったほどだったが、だからこそ彼女が、宏基の思いを真面目に受け止めていない言い方をしたのは許せなかった。宏基の真剣さを見てきて、知っているからだ。
 感情が高ぶっていたので、後半は頼むというよりケンカを売っているのに近い口調になってしまった気がするが……ともあれ、言いたいことは言った。
 それ以降、宏基と「噂の従姉」がうまくいったというような話は聞かない。まなみが見る限り、宏基に落ち込んだような様子はなく、むしろ図書室や進路指導室通いを増やして頑張っているようだから、その件では進展も後退もしていないのだろうと考えている。つまり今のところ、はっきり断られたわけではないということだ。
 それならまだ可能性はある。
 『よくそんな、橋渡し役みたいことできるねえ』と同級生の友人(彼女のお姉さんが、件の卒業アルバムの持ち主である)には呆れたように言われたが、まなみは橋渡しをしたつもりはない。二人がうまくいった場合は、結果的にそういうことになるだろうが、ダメな可能性もゼロではないのだから。ともかく従姉本人の気持ちがわからないから、今は何とも言えない。
 まなみはただ、宏基が無駄な期待をして傷つくのを見たくないだけだ。だから彼女にも、はっきりした返事をしてあげてほしいと頼んだ。……宏基に知られれば余計なことだと怒られるかも知れないとは思っている。彼女から聞いているのかいないのか、今まで何も言われてはいないが。
 好きな人には、いつも幸せでいてほしいと思う。
 ──自分にその権利がないのを、今でも悔しいと感じる時はあるのだけど。


 同日夜。自宅アパートの部屋で一人、彩乃は考えていた。
 ……思い出すたび、今日は恥ずかしいことをしてしまったという思いが強まる。
 あの後、4時限目に語学の講義があったのを忘れていたわけではなかった。語学はおしなべて出席にチェックが入るから、遅刻したらまずいのだが、なかなか涙が止まってくれなくてまいった。
 あんな人目のある場所で泣いてしまって──その上、隣には宏基がいた。私服であっても間違いなく目を引くであろう従弟が制服姿で、おまけに、泣いている彩乃をなぐさめるために寄り添った状態で。通行人その他の視線という視線が注がれていたのは嫌というほどわかっていたが、ともかく涙を止めようとするのに必死で、すぐには立ち上がることができずにいた。
 ようやく落ち着いて、化粧室の洗面所で腫れぼったい目をなんとか冷やした頃には、もう2時半を回っていた。廊下で待っていた宏基とは、挨拶もそこそこに別れてそのままだ。
 何も言わずあやふやに別れてしまったのがひどく落ち着かない気分だったが、しかし今から電話したとして、何と言えばいいのか……自分が何を言いたいのか、考えがまとまらない。
 常識的に考えれば、話を聞いてもらったお礼と、泣いてしまったことの謝罪だろうとは思う。けれどどちらも──特に後者が、どうにも恥ずかしくて、素直に口に出せそうにない。
 そもそも何故、宏基相手にあんなことを話して、あげくに彼の前で泣いてしまったのだろう。
 奈央子に対する複雑な気持ち──それを全く自覚していなかったかと言えば、そうではない。薄い影のように、いつだって心の片隅には存在していたのだ。
 けれど奈央子を好きな気持ちの方が強かったし、よくできた親友へのささいな反感に過ぎないと思っていたから、思い悩むほどに気にしたことはなかった……最近までは。
 柊に対しても同じで──いや、この気持ちについてはもっとわかっていなかった。なにしろ自覚がなかったのだから。確かに好意は感じていたけれど、それは親友の好きな人として見ているからだと……特別な相手としての気持ちは中1の時点で断ち切ったと思っていたのに、今の今までしつこく残っていたなんて、自分でも知らなかった。
 どちらもひどくもやもやした、そのくせ嫌に重たい感情で……誰にも言いたいとは思わなかった。口に出したら、それが自分の中で確定してしまって、どうしようもなくなる気がして。
 ──2時限目の後、最初に顔を合わせたのが宏基で、よかったのかも知れないと今は思う。どういうわけか従弟は、2度しか話題にしていない奈央子たちに関して、彩乃自身把握しきっていなかった心を察していたかのように看破してきた。そんなにも外から見てわかりやすかったのだろうかと驚いたが、考えてみる限り、他の誰かと同じ話題をしていて変だと指摘された記憶はなかった……つまり、宏基がそれだけ彩乃の様子をよく見ていたということなのだろう。
 もっとも、そう思ったのは時間が経ってからのことだ。その時は驚きとショックでいっぱいになり、ただうろたえた。そして『一人で我慢してたら辛くない?』と言われて初めて、心の中が爆発寸前になっていることを認識した。
 このまま一人で抱えていたら、きっとあの二人のことを嫌いになってしまう。今でも間違いなく、幸せになってほしいと思う大切な二人なのに。けれど本人たちに言えることではないし、他の友人もほとんどが二人を(間接的にせよ)よく知っている人ばかりで、今さらこういうことは話しづらい。
 条件的にも状況的にも、宏基に話すのが一番差し障りがないと思った。1秒でも早く、重すぎる心を少しでも軽くしてしまいたかった。
 従弟は言葉通り、彩乃の話を辛抱強く聞いてくれた。口に出すことで、意外にも自分の中で気持ちの整理が徐々に行われ、見えていなかったもの、見ていなかったものの形がはっきりとしてきた。そして奈央子への嫉妬心と柊への思いを第三者から初めて指摘された時、心に張りめぐらせていた覆いが最後まで取り払われて消えていくように感じた。予想もしなかったような楽な感覚だった。
 気がつくと涙が出ていて、先に気づいた宏基が、彩乃の肩に手を置いていた。遠慮がちに、けれど確かに彩乃をなぐさめるために、何度も肩を手のひらで叩いた──優しさをこめた仕草で。
 そうされて、さらに心が安らいだ。余計に涙が止まらなくなったのは困ったけど、嬉しかったのだ。
 どうして、あんなに安心できたのだろうと考えてみて……行き着く答えが限られることに気づいて、彩乃は別の戸惑いを覚え始めている。
 そもそも、奈央子たちへのそういう感情に気づくようになったきっかけは、宏基を意識し始めたことだったと思う。長い間、特定の異性を気にしたり、ましてや特別に考えたりすることがなかった。その一因は柊への想いが根底にあったことだと今ではわかるが、無意識に眠らせていた感情が今になって目覚めたのは、時期的に、宏基の言動に心を揺さぶられたのが要因だとしか思えない。
 ──会いたい、と唐突に思った。
 宏基の顔が見たかった。
 電話をしたら来てくれるかも知れない、と携帯に手を伸ばしかけて……寸前で思いとどまった。
 (なに考えてんの、あたし)
 自分がしようとしていたことを思い浮かべて、頬が熱くなる。第一、電話するのなら今日のことを謝るべきだ。けれど声を聞いたが最後、会いたいと口走ってしまいそうで……
 部屋の時計を見上げると、もうすぐ日付が変わるところだ。彩乃は言い訳を見つけて安堵した。こんな時間に、まして入試を10日後に控えた相手に、電話なんかするものではないと。
 そう自分に言い聞かせながらも、宏基に会いたいという気持ちは、その日眠りにつくまで彩乃の中でくすぶり続けていた。


 2月上旬──K大入試3日前。
 あと3日で今後が決まるわけだと宏基は思う。合格発表はさらに10日ほど後だが、試験がどれだけ解けるかが問題なのだから。念のため他の大学もいくつか受けるが、正直それらへの関心は薄かった。
 相当に頑張ってきたつもりではあるが、100パーセント合格の自信があるわけではない。ここまで来たら後はせいぜい、苦手分野の問題が少ないことを祈るぐらいしかなかった。
 急に落ち着かない気分になってきて、シャープペンシルを机の上に放り出す。部屋を出て、台所で片付けものをしている母親に声をかけた。
 「ちょっと、コンビニ行ってくる」
 「え、こんな時間に? もう11時過ぎてるわよ。勉強は?」
 「気分転換。すぐ帰ってくるから」
 外へ出ると、肌を刺すような鋭い冷気が、一気に顔の表面から熱を奪った。それを心地よく感じながら、宏基はマンションの階段を降り、歩いて10分ほどのコンビニエンスストアへと向かう。
 缶飲料と雑誌を買って店を出たものの、そのまま家へ戻る気にはならなかった。すぐに帰ると母親に言った手前、あまり遅くなるわけにもいかなかったが、少しだけのつもりで方向転換し、近くの公園に足を向けた。
 住宅街の中の小さな公園には、当然ながら誰の姿もない。敷地の隅にあるベンチに腰を下ろし、夜空を見上げた。街灯のせいもあるが、今日はかなり曇っていて、ほとんど星は見えない。満月か新月か知らないが月も隠れている。
 先ほど買った缶コーヒーを飲みながら、宏基は考えた。3日後の入試ではなく、彩乃のことを。
 あの翌日、携帯に従姉からメールが届いた。
 『昨日はごめん。入試がんばって』だけの短いものだった。安心すると同時に、少しの物足りなさも感じた。
 泣きやんだ後、講義に行くために『急がないと。じゃあね』とだけ言って別れた彩乃が気になりつつも、電話できずにいた──自分ではなく彩乃が、今は気まずいのではと考えたりして。だからメールが届いた時は嬉しかったのだが、簡素な文面を物足りなく思ったのも確かだ。
 何か、もっと違う反応を期待していたのだろうか……いったい何を期待していたんだ、と自嘲ぎみに思ってしまう。
 彩乃が泣いたことに関しては、驚きはしたけど、全然気にしてはいなかった。むしろ、あれほど正直に抱えていた気持ちを話してくれたことが、宏基は嬉しかった。それだけ自分を頼ってくれたということだから。
 しかし、頼られることと、特別な相手として見てもらうことは、当たり前だが別の問題である。前者イコール後者に単純に結びつくとは考えていない。
 とはいえ、従姉があんなふうに気弱な様子を宏基に見せたのは、覚えている限りでは初めてだった。だからつい、余計な期待までしてしまったらしい、と自己分析する。
 それに、本人に自覚がなかったとはいえ、彩乃は何年も親友の彼氏が好きだったのだ。その気持ちが簡単になくなるとは思えないし、今後どうするかは彩乃が判断するにまかせるしかない。
 宏基自身の方針は変えないとしても、否定の可能性をかなり多めに考えておかないとダメだな、という気がしている。そうなったら落ち込むだろうし悔しいけれど、それはそれでしょうがない。
 ずっと思っていることだが、無理強いでつき合ってもらうつもりはなかった。あくまでも自然な形で好きになってもらいたかった。
 どう考えても宏基を弟みたいにしか思えない、と彩乃が言うのなら、それを受け入れる覚悟でいる。きっと、諦めるのはものすごく難しくて時間がかかることだろうけど。
 ──ふと気づいて携帯の時計を見ると、あと数分で0時だった。やばい、と思ってベンチから立ち上がる。いまだに母親は、一人息子には甘いと同時にやたらと心配性なのだ。
 空き缶をゴミ入れに放り込み、宏基は家路を急いだ。


 2時限目の試験終了のチャイムが鳴った。彩乃は見直しをしていた解答用紙から顔を上げ、大きく息をつく。後期試験4日目はこれでいちおう終了だ。
 一番後ろの席だったので、同じ列の用紙を集めて担当講師に提出し、席に戻る。筆記用具と問題用紙を片付けていると、奈央子が荷物を持って近づいてきた。
 「おつかれさまー。どうだった?」
 「うーん……なんとか単位落とさない点数は取れてると思うけど。あ、問5の3番、選択肢aとbどっちにした?」
 「えーっと、わたしはaにしたけど」
 「あ、あたしも同じ。直前まですごい迷ったんだけど。奈央子と同じでよかったー」
 「でも、合ってるかどうかわからないよ?」
 「たぶん大丈夫だと思う。……テキスト見てみようか、ちょっと怖いけど」
 本を開き該当箇所を探してみると、解答はaの選択肢で間違いなかった。二人して胸をなで下ろす。
 こうやってごく普通に奈央子と話をしていることに、彩乃はいまだに軽い驚きを感じる。けれど心底、安心もしていた。
 奈央子に自分の暗い気持ちを気づかれなくて、本当にほっとしているのだ。
 講義の最終日の後、入試休みでしばらく会う機会がなかったのがよかった、とも思う。その間に自分の気持ちに、ある程度の整理がつけられたような気がする。ほぼ半月ぶりに顔を合わせた時には、自分でも意外なほどに胸は痛まなかったからだ。
 たぶん、人に話すことでちゃんと自覚して、かつそれを自分で認められたことが、区切りを付けるために一役買ったのだろう。
 完全に気にならなくなるにはもう少し時間が必要かも知れないが、いずれは、二人を見ていても平気な日が来るという予感がしていた。それがあまり遠くない未来であればいいと彩乃は思う。
 「彩乃、今日はこれで試験終わり?」
 「うん、語学は明日だし。そっちは?」
 「教育心理学の試験が5限にあるんだよねえ……これから4時間半もどうしようって思っちゃう」
 奈央子は教員免許取得を目指しているので、教職課程として余分に数科目の講義を取っている。
 「卒業の必要単位に加算されないのに、手間だけ取らされるって割に合わないよね。そう思わない?」
 と愚痴りつつも、全科目サボらずにしっかり受けて、単位を一つも落としていない奈央子を、彩乃は素直に偉いと思っている。一度は考慮したものの、教職にそれほど魅力を感じなくて結局取らなかった課程だから、なおさらだ。
 「4時間半かぁ……厳しいねー。サークルの練習がなければつき合うんだけど」
 「んー、まあなんとか時間つぶし考えるよ。サークルって今、新入生歓迎コンサートの練習だっけ」
 「そうそう。実は今度、ちょっとだけどソロの部分があってね」
 と言いかけた時、ピピピッと甲高い音が3度続けて鳴る。彩乃の携帯のメール受信音だった。
 慌ててカバンの中を探る。
 「メール?」
 「たぶん……うわー電源切り忘れてたんだ」
 「試験中に鳴らなくてよかったね。で、誰から?」
 奈央子の問いを聞きながら、ようやく取り出した携帯を操作し、受信メールリストを開く。
 差出人を見て一瞬固まった彩乃に、奈央子が不思議そうに尋ねた。
 「どうしたの。ひょっとしてイタメールとか」
 そうじゃないけど、と返す自分の声が、微妙にこわばっていることに気づいた。
 「──『今どこ?』だって」
 「それだけ? 差出人は知ってる人──」
 その時、彩乃と奈央子は文学部棟の入り口を出たところ、中央芝生を囲む垣根のそばにいた。
 彩乃の返答にますます不思議そうな顔をした奈央子が、芝生の方角のざわめきに気づいて目をやり、「あ!」と小さく叫んだ。そして、
 「彩乃彩乃、あれ」
 奈央子が示す方向を見て、彩乃もぎょっとする。
 彩乃が立っている位置のちょうど反対側から、芝生を突っ切ってこちらに走ってくる人物がひとり。
 見間違えようもなくメールの差出人……宏基だった。
 そう思った時にはすでに、従弟は彩乃の前に到着していた。元陸上部代表選手だけにものすごい速さである。
 気づくと、宏基の俊足に驚いた学生の目が、あちこちから遠慮なく向けられている。あまりの唐突さに「えぇ!?」としか頭に浮かばない彩乃でも、周囲の注目を一身に集めていることはよくわかった。
 しかし宏基の方は、全く関知していないようだった。わかっていて無視しているのかも知れないが、ともかく、彩乃が驚愕のあまり口がきけずにいるのにはかまわず、息を切らしながらも話し始めた。
「──受かったよ、俺」
 何のことか一瞬わからなかったが、あぁそういえば合格発表やってたっけ、と思い出す。その場所がちょうど、中央芝生を挟んだ向こうの広場だった。
 どうやら発表を見に来て合格を確認して、できれば彩乃に直接伝えるために居場所をメールで聞いた直後、本人を発見したのでここまで走ってきた……らしい。そこまで考えて驚きがおさまってくると、今度は周りがひどく気になり始めた。
 目線を宏基から外して見回してみると、立ち止まってこちらを見ている学生も少なくない。彼らにつられて新たに立ち止まる学生もおり、彩乃たちを中心に、徐々に人の輪ができつつあった。
 心底「どうしよう」とは思ったが、周囲を意識しすぎて、自分からは動くこともできそうにない。宏基が何を言う気にせよ、早く終えるか場所を変えるかしてほしいと考え、目で訴えてみる。それを願うあまり、合格おめでとうと言うことも忘れていた。
 しかし彩乃の希望は通じなかった。それどころかさらにとんでもない方向へ行きそうだと気づいたのは、宏基の次の発言だった。
 「夏に俺が言ったこと、覚えてる?」
 「え?」
 と反射的に聞き返しはしたが、彩乃はすぐに思い出した。いやそもそも、忘れてはいなかった。
 この数週間、会いたい気持ちを抑えながら、何度も思い返していたことだ。
 (そうだ、会いたかったんだった)
 自分も試験に気を取られて、抑えることに慣れかけていたけど、宏基に会いたいと思っていた。とはいえ、それはもっと普通の状況というか……こういう、衆人環視の中でとは想像もしていなかった。
 嬉しいと思うよりも、パニックが先に立つ。
 おまけに、いったい何を言い出す気なのか。
 ──この状況で「夏に言ったこと」が関連してくるなら、ひとつしかない。
 連想はできたが、余計に頭の中の混乱が加速し、返事ができなかった。同じく何事か察したらしい奈央子は、宏基に遠慮してか数歩離れている。
 彩乃は一言も答えなかったが、「まさか」と思ったのを表情から読み取ったのか、それで覚えていると判断したらしく、宏基は答えを待たずに続けた。
 「あれ、冗談じゃなくて本気だから」
 冗談の入る余地など無い、この上なく真剣な表情だった。口調も、最初の興奮ぎみな調子から、熱意をこめながらも静かなものに変わっている。
 「そういうふうに考えられない、って彩姉が思うんだったら諦めるけど──もしそうじゃなかったら、考慮してくれたら嬉しい。入学式ぐらいまで待つから、どっちの場合でも返事聞かせてくれる?」
 自分が頷いたのかどうか、彩乃にはわからなかった。だが宏基がほっとした表情になったので、たぶんそうしたのだろうと後で思った。
 「ありがとう。それと、驚かせてごめん。じゃ」
 くるりと背を向け、正門の方角へと歩いていく。その背中が急に、大人びたものに見えた。
 遠ざかっていく宏基から、その場に残った彩乃へと周囲の視線が移動する。途端に緊張の糸が切れて目眩を引き起こし、足がふらついた。
 離れていた奈央子が慌てて駆け寄り、彩乃の肩を支える。半ば茫然自失状態だった彩乃をその場から連れ出してくれたとわかったのは、学生会館前の広場にたどり着いてからだった。なるべく遠ざかろうと考えた結果なのだろうが、否応なく数週間前のことを思い出して、少しだが複雑な気持ちもした。
 奈央子が買ってきた缶紅茶を受け取り、ベンチに座る。一口二口飲んだところで、「……大丈夫?」と恐る恐る奈央子が聞いてきた。
 「……うん、たぶん」
 とは言ったが、いまいち自信はなかった。まだ頭は混乱しているし、緊張のせいでひどく疲れた気がする。いっそサークルの練習に行かずに帰ってしまおうか、と思うぐらいだった。
 しばらく無言が続いた後、再び奈央子が遠慮がちに口を開く。
 「──まさか、また冗談とは思ってないよね?」
 ひたすら心配そうな口調に、彩乃は逆におかしくなって微笑んだ。彩乃ってば、と奈央子が少し怒ったように言う。
 「笑いごとじゃないでしょ。……どうするの」
 そう聞かれて、どう答えるべきか困った。
 迷った末に、彩乃が最初に口に出したのは、
 「……どうしよう、かな」
 という呟きだった。
< 4 / 5 >

この作品をシェア

pagetop