月のひかり

 意見を押し通すには気力が必要だし、意地の張りどころを間違えると面倒なことになってしまう。たとえ程度は小さくても、他人との諍いは気分のいいものではない。それを思うと、自分の希望を通せなくても一歩引いておく方が、ある意味では楽だと考えてしまうのである。
 けれど、裏を返せば我慢することでもあるから、結果的に疲れる場合も多い。……昔から、そんな時におろそかになるのは、身の回りのことだった。
 自分は、実はかなり薄情な人間なのかも知れないと、たまに思う。日々の忙しさを片付けるので一杯になると、自分自身のことだけでなく、身近な人間もあまり顧みなくなる。どんな時も多方面に気を回せる器用さにも欠けている──というのはきっと言い訳にならない。それなのに、心配されるとうっとうしい、とさえ時には思ってしまう。
 ……思い返せば、別れた彼女に対してもそういう変化はあったのではないか。付き合い始めた頃は気を遣いすぎるほどに遣っていたが、ここ一年ぐらいは、よく考えると自信がない。
 粗略にしていたつもりはなかったが、長く付き合っていることで変に安心して、言葉や態度が不足してはいなかっただろうか。
 気の弱さが嫌だと言われたけど、彼女が言いたいことは、本当は他にもあったかも知れない。
 今ならそう考えることもできるが、あの時の自分にそんな余裕はなかった。彼女に告げられた事実にただショックを受けて──ふられた自分を憐れんでさえいた。
 変わったのは彼女の方だけではなく、きっと孝自身もだった。それを考えようともしなかったあの時の自分は、今思えば、ひどく子供じみている。
 紗綾の子供っぽさを笑える身じゃない。もうすぐ二十六になるというのに、自分が見えず、子供並みに勝手な捉え方しかできないようでは。もっとも、孝の勝手さと比べてしまっては紗綾に悪いが。
 紗綾の幼さには罪がない。内面が変わらないことに安心を覚えさせられる、そういう可愛らしいものだから。
 ふと顔を上げると、むくれ顔から一転して、不安そうな表情の紗綾がこちらを見ている。目が合った瞬間、びくっとしたように少し肩を揺らしたのは、笑みをひっこめて黙り込んだ孝が、怒ってでもいるように思えたのか。
 立ち上がり、冷蔵庫のそば、つまり紗綾のすぐ前に移動した。こちらを見上げて硬直状態の幼なじみの手から、煮物の入ったタッパーを取り上げ、驚きを浮かべた顔に向かって掲げてみせる。
「さーや、昼食べてきた?」
「……ううん、まだだけど」
「なら、これ食べてけよ。飯なら昨日炊いた残りがあるし。二杯分ぐらいは」
「……え?」
「持ってきてもらった食い物、全部片付ける自信はさすがにないけど、なるべく食べきりたいからさ。捨てたらやっぱ悪いだろ、お袋に。それに、さーやも手伝ってくれたんだし」
 不意をつかれたような、ぽかんとした表情。その顔でしばらくこちらを見つめた後、唐突に紗綾はうつむき、両手で口を覆った。かと思うとまた、すぐに顔を上げる。
 その瞬間の紗綾は、目を見張らずにはいられないほどの、嬉しそうな笑顔。
「じゃあ、わたしが準備するね。あ、煮物だけじゃ足りないからポテトサラダとか出そっか……何、変な顔して。あっためて並べるぐらい一人でできるよ。何ならお味噌汁も作ったげるけど……だから、何でそんな疑わしそうな顔すんの、もう」
 そういうわけではなかった。紗綾の表情の変わりようが、驚くほど目まぐるしくて明快で──それがなんだか、まぶしいように感じられただけで。
 しまったばかりのタッパーや、辛うじて残っていたらしい味噌を冷蔵庫から取り出しながら、やけにはしゃいでいる様子の紗綾は、幼なじみでありながら、初めて会った女の子のようにも見えた。
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