月のひかり

 だが今の紗綾には、彼女たちの反応を気にしている余裕はなかった。このまま進めば二人と鉢合わせする、それだけは避けなければと考えていた。
「ごめん、わたしコンビニ寄ってく。じゃあね」
 言い終わるか終わらないか、菜津子たちの答えを聞くか聞かないかのうちに紗綾は飛ぶように走り出して、来た道を戻る──地下鉄の入口から見えないあたりで大通りを避けて脇道に駆け込み、数歩入ったところで足を止めた。
 準備中の札がかかった店の壁と向かい合い、深くうつむく。誰にも今は声をかけられたくないし、顔を見られたくもなかった……幸い、数歩横の道を行く人々が、立ち尽くしている紗綾を気に留める様子はない。
 七月なのに、周りの空気だけが冷たくなったような心地だった。自分を抱きしめるように腕に力を込めても、体の震えは抑えられなかった。
 ……あの二人が出てきた道の、先にあるもの。
 小さくて一見目立たない、けれどこのあたりでは有名なホテル。ただし、そこそこきれいなわりには安くて学生カップルには重宝しているという、その意味で名の知れたホテル。
 もちろん全部、話でしか聞いたことはない。だが「そういう場所」だということは知っている。
 二人は、見るからに恋人同士のように腕を組んで……孝の表情はよくわからなかったけれど、彼女の方は、間違いなく笑っていた。
 思い出すと、急に立っていられなくなった。その場にしゃがみ込み、目まいをこらえる。
 やっぱり、わたしの気のせいと、あの場の雰囲気でしかなかったみたいだ──ほとんど確信に近い思いは胸の中で勢いよくふくれあがり、たちまち一杯になってあふれ出る。頭の中、喉の奥までその思いがぎゅうぎゅうに詰め込まれたような気分で、頭痛と吐き気さえ感じる。けれど、涙は出てこない。
 ショックが大きすぎると泣けないらしい、ということを紗綾は初めて実感した。
 誰にも声をかけられないまま、どのぐらいそうしていたのか。かなり長かったように思えたが、再びのメール着信に気づいて携帯を見た時には、五分程度しか経っていなかった。
 差出人は、今日二度目の相手。飲み会の時のメールと同じ……あの、久御坂氏。これまで一日に二度以上送ってきたことは、なかった。
 しばらく、紗綾はメールの文面を見つめ──数分後、震える手でおもむろに返信の操作を始めた。


「……いいかげんにしてくれないか」
 耐えかねて絞り出した言葉を、彼女は最初、きょとんとした表情で受け止めた。次いで、何度もまばたきを繰り返し、孝をじっと見つめてくる。今の発言の意味を探るように、首をかしげて。
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