月のひかり
その表情でゆっくりと振り向いた紗綾は、束の間孝を凝視した。そしてまた、同じ程度にゆっくりと顔の向きを戻す。
自分が発した質問をこの上なく後悔しつつ、孝は口を動かそうと努めた。徐々に強まってきている、焦りの念を懸命に抑えながら。
「とにかく、それ飲んだら帰れよ、送ってくから。おばさんきっと心配して」
「今日お母さん、夜勤でいないの」
突然遮った声と、三たびこちらを振り向いた目。
その唐突な強さを保ったまま、孝が何か言うより先に、紗綾はこう続けた。
「だから帰らない。ここにいる」
──心臓が跳ねる音が、体中に響く。
何秒か全ての感覚が麻痺し、我に返った時には、紗綾が目の前まで歩み寄ってきていた。
思い詰めたまなざしに直視され、本能的な危険を感じざるを得なかった。思わず後ずさると、その分だけ紗綾が足を踏み出し迫ってくる。
さらに間を縮めようとする彼女を、孝は辛うじて押しとどめた。乾ききった口の中をなんとか湿らせる。
「なに、バカなこと言ってんだよ。そんな冗談は」
「冗談なんかじゃない」
相手の二の腕をつかんでいる手は振りほどかれ、今度は紗綾の手が、孝の肘のあたりを強くつかむ。
「わたしのこと嫌い?」
「そういう問、────」
言葉はまた遮られた──つま先立ちに伸び上がった紗綾が押しつけてきた、やわらかな唇によって。
……離れる瞬間、唇はかすかに震えていた。
「わたしのこと、嫌いじゃないでしょう?」
震える声と、さっきよりは弱い語調で、それでもはっきりと視線は合わせて、紗綾は繰り返す。
「ちょっとでも意識してくれてるなら、今日はここにいさせて。……一人で家にいるのはいや。ひとりでいたくないの」
言いながら頭を、そして徐々に体をも預けてくる紗綾を、押し戻すことができない。濡れたように光る髪から、甘い匂いがただよう。
「今日だけ、朝まででいいから──だからお願い、こうちゃんのそばにいさせて」
胸から直接響く声を、はねのけるだけの気力は、もはや残っていなかった。できるのはただ、腕の中にいる彼女が願う通りにすることだけだった。