月のひかり
「おばさん、こうちゃんって今どこに住んでるんでしたっけ」
「通ってた大学の近くよ。……ああ、そういえば紗綾ちゃんも同じ大学なのよね」
おばさんの言葉に、紗綾は笑顔でうなずいた。
パソコンを終了モードにして、孝は息をついた。電源が切れるのを待ちながら大きく伸びをする。
土曜日、つまり昨日中には仕上げるつもりだった報告書と見積書。できるはずだったのだが、完成の間際になって、両方ともに間違いがあることがわかった。幸い手元や同僚の資料で確認と修正はできたものの、どちらも最初のページから作り直さなければならなかった。
その時点で、会社が入っているビルが閉まる十五分前だったため、仕方なく途中で切り上げた。土日と祝日は、管理会社が午後五時で帰ってしまうのである。月曜の朝に提出する書類で、かつ社外にデータは持ち出せない規定があるとなると、日曜に出てきて仕上げるしかない。
それを説明すると、母親は電話の向こうで不満そうな声を出した。
前日の金曜の夜、『日曜に訪ねていくから絶対部屋にいなさい』と言われていたので、それが無理になったと伝えるための連絡だった。何度かそういうことはあり、いいかげん母親も慣れっこになったと思っていたが、そうでもないらしい。
だがそれにしても、やけに熱心な物言いだったような気もする。
『こっちにも都合があるのよ。仕事、午前中には終われるの? それとももっとかかる?』
と、いつになったら戻れるのかを矢継ぎ早に尋ねてきた。何か、納得できそうな答えを返さなければ治まってくれそうにない勢いだった。
『……わかった、昼には終わらせるようにする』
そう言ってようやく、母親の声の調子はやわらいだ。ただし最後に『約束はちゃんと守りなさいよ』と釘を刺すことは忘れなかった。
通話を終えた後に一瞬感じた、うんざりした気持ちを思い返して、あらためて自己嫌悪を覚える。
思えば、この何年か、実家にはまともに帰っていない。今年の正月休みも、元旦に半日立ち寄っただけだった。
その数日前に彼女と別れたばかりで、両親に紹介こそしていなかったものの、付き合っている相手がいることは話していた。その時の心境では、別れたことをうまく説明できると思えなかったから、あまり長居したくなかったのである。
だが母親にしてみれば、そういう自分の行動は、寂しく感じるものなのではなかろうか。そんなことを考える時も、ないわけではない。
だから、どうにか二日前の約束を守れそうな今は少なからずほっとしていた。『せめて月一回ぐらいは電話しなさい』という言葉にさえきちんと応えられていない身だから。