月のひかり

 たまには母親の訪問ぐらい受けないと、親不孝が過ぎる。そんなことを考えながら足早に帰途についた。時計を見ると、十二時十五分。遅くとも一時頃には家に着けるだろう。
 ……そして、一時までに七分ほど残して自宅マンションに着いた孝は、階段を上がったところで立ち止まった。三階の奥から二番目、つまり自宅の前にいるのは若い女。扉を背もたれにしてよりかかり、大きくふくらんだ百貨店の紙袋を抱えた上で、右手には同じデザイン・サイズの紙袋を下げている。
 母親が早く来て待っているならわかるが、知らない女がなぜいるのか。だが、誰だろうと思いながらも、記憶に引っかかる何かも感じる。その正体は、正面の壁を見つめていた相手がこちらを向き、目が合った時にわかった。
 十日ほど前、居酒屋の前に集まっていた学生の中にいた娘だ。さらに。
「こうちゃん、よね?」
 相手が少し不安そうに、しかし笑顔で口にした問いで、確信する。
「……やっぱり、さーやか」
 そう呼ぶ相手は、お互いに一人しかいなかった。

 どちらの呼び方も、言い出したのは紗綾だった。正確な年は忘れたけど、確か彼女が小学生の時。ある日帰ると家に紗綾がいて、いきなり『これからは「こうちゃん」て呼ぶね』と言ったのだ。それまではごく一般的に「おにいちゃん」と呼ばれていた。
 その日の国語の授業で「親孝行」という言葉が出てきて、その字が孝の名前と同じであったのが面白かったらしい。当初は「親孝行のこうちゃん」などと呼ばれる時もあり、非常に恥ずかしい思いがした──その場に親がいると、必ずニヤニヤされたからでもある。幸い「二つ名」は数ヶ月で外してくれたものの、「こうちゃん」自体は変える気配がなかった。
 一度、呼び方を元に戻してほしいと言ったこともあったが、紗綾は頑として譲らず、挙句に『じゃあわたしも別の名前にしたらいいよね。「さあや」って書く字だからこれからはそう呼んで』と提案したのだった。
『これでおあいこだよね?』とにこやかに言う紗綾に、孝は結局負けた。七歳も下の女の子に。
 孝の母親は紗綾に甘い。娘がほしかったらしく、何かと口実をつけては家に呼んでいた。両親が留守がちだった紗綾も喜んで来ていて、気が合う彼女たちは、傍目には母娘のように映らなくもなかった。
 だから昔から、二人が揃って家にいると、自分の家なのにやや肩身の狭い思いを感じたものだった。
 今でもきっとそうなのだろう。紗綾が実家に今も住んでいるとしたらだが──と考えてから、そうに違いないと思う。でなければ、母親に託されたという作り置きおかずを、こんなに大量に持って来るわけがない。
 それにしても、驚きである。
< 9 / 70 >

この作品をシェア

pagetop