死ぬ前にしたい1のコト
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「おかえり。洗濯とか掃除はしといたよ。ねえ、俺、偉くない? ヒモの鑑じゃない? 褒めて」
ヒモに鑑なんかいるのか、実くんがそうなのか、果たしてそれが褒められることなのかはさておき。
あんなことがあって、上手く顔を見れないかも……そんな心配がどこかへ消えた。
何日経っても、相変わらず訳分かんない状況なのに、玄関のドアを開けて正面から出迎えられてほっとしてる。
それを見て、あ、帰ってきたって気が緩んで。急に息苦しくなってきたブラウスのボウタイを解く。
別に胸元が開くわけじゃないし、普段ならさっさとブラすら楽にしたいくらいだけど、そこはまあ自重しとく。
「お疲れ。会社どうだった? あいつ、大騒ぎしてたでしょ。何て? 」
「ん? そりゃ、早く追い出せって」
適当にパンプスを脱いで、玄関でコンッて音を立てたり。
上着を掛けるとか、何てことない合間も自分じゃない誰かの声がする。
作り物でしかなくても、紛い物でしかなくても――つい、安心しちゃう。
「それだけ? てっきり、今日一緒に乗り込んでくるんだと思ってた。へーえ、ふーん、あっそ」
「なに、その意味のない相槌の連発。そして、さも自分のホームみたいに言うよね」
聞いときながら、興味のない感じ。
ほらね、ユウ。
まあ、ちょっとばかり信じられない出来事だけど、ほんと心配するだけ損だってば。
「意味? あるよ、もちろん。ま、でもいいや。それより……」
枝の形をしたコート掛けに、ふいに後ろから腕が回る。
雑に掛けられたコートを不憫だと笑って、丁寧に掛け直して。
「……泣いたんだ? 」
ついでとばかりに、親指をびっくりして振り返ってしまった私の頬に当てた。
「何て言われたの。若い男に手を出して、って? それとも、子供に手を出されて、って……どっちがショック? 」
「……実くんのことじゃないよ。私が、実くんといることが意外すぎたの」
涙の跡なんかない。
乾いて痛むほど、号泣なんてしない。
それなのに、丁寧にその痕跡を辿るように這う指が優しすぎて、『泣いてなんかないよ』っていう嘘すら忘れてた。
「答えになってない。……いいけど、じゃあ明日、ランチ付き合ってよ」
「いきなりだな。なんで? 大体今までの会話なに? 今日そんなことがあったばかりで無理だよ」
その腕をぺしっと叩いても、当たり前だけどびくともしない。
「昼飯浮かせたいから? 」
至極真顔で言われ、何も言い返せない。
あー、そうですか。そうですよね。
それしかないですよねー。
「そんな理由で、いろいろ面倒なことに……」
なるなんて、絶対嫌!!……なのに。
「まーた。そんなこと言っちゃうんですかね? お姉さん。状況、忘れんの早すぎじゃね。んー、どうしたら思い出せるかな。この、悪いおねーさんは……」
――ねえ、こう?
ぶらんと下がっていたタイを、見せつけるようにゆるゆると指に巻いて。
そうかと思えば、突然別の遊びを思いついたみたいに、すぐ後ろにあったコート掛けのブランチ部分に括りつけた。
「なっ……ま、また、そういう意味のないことを……」
「だーかーら、意味あるって。何言われたか正確には分からないけど、一華さん本人だけだよ? なーんにも分かってないの」
「だっ……だから。なんなの、それ……」
意味があるって言うなら、遊ばないで教えてよ。
ユウもあの子たちもみんな、私の知らない何か――私にない経験値があるのなら。
「――男が側にいるってことだよ」
開いてない。絶対、開いてなんかない。
そう信じていたブラウスとタイの隙間。
実くんの人差し指が楽に入って、錨みたいに掛かった瞬間、くっと引き上げられる。
「~~っ……!! 」
「んじゃ、明日ごちそうさま。楽しみにしてるね? 一華さん」
誰が偉いの。何がヒモの鑑だ。
そもそも、それ名誉にすんな、居候。
脅迫だって、立派な犯罪じゃない。そういえば。絶対、褒めてなんかやるもんか。
文句たらたら、タイをきゅっと結んだくせに。
最初からなーんにも興味なんかなかったみたいに、ゲームを始めた背中に心の中で毒吐くしかできなかった。