冷徹ドクターは懐妊令嬢に最愛を貫く
「あの日、ぷつりと糸が切れちゃって衝動的に離婚届を書いて家を出たわ。房総に向かったのは、おじいちゃんがあの場所が好きだったから」
「房総……そんな近くにいたなんて」

 蝶子も晴臣と同じ感想を抱いたようだ。小夜子は房総での日々を語った。

「あそこの人はみんな親切でね、いろいろと世話をやいてくれた。でも私は廃人のように死を願うばかりだったわ。立ち直るのに五年くらいはかかったかしら」

 いい精神科医に出会い、ようやく生きる気力を取り戻せたのだと小夜子は言う。

「仕事を始めて元気になると、蝶子のことが気になってたまらなくなった。でも、今さらどんな顔してと思うと勇気が出なくて……」

 公平はきっと再婚しているだろう、再婚後の家庭がうまくいっているなら自分はこのまま姿を消すほうが蝶子のためなんじゃないか。小夜子はそんなふうに考えたそうだ。
 小夜子はすっと顔をあげると、蝶子の目をじっと見つめた。

「でも、そんなのは全部言い訳ね。ただ、怖かったのよ。蝶子にもういらないと言われるのが――ごめんさい、蝶子。弱くて卑怯な母親で、あなたを守ってあげられなくて」
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