ふたりは謎ときめいて始まりました。



「その柴犬、かわいいデザインですね。ペアで着ていらっしゃるから、ちょっと目を引きました」

 棚から出したカップの側で紅茶の缶を持ちながら瑞江はロクに話し掛けた。

「あっ、こ、これですね、えっと、仕方なくといいますか」

「いいじゃないですか、ペアで着られるってそうないですよ。それにかわいらしさをそのままにリアルっぽく描かれているから、却っておしゃれな感じがします。私もそういうのほしいくらいです」

「谷原さんは柴犬が好きなんですか」

「はい、大好きなんです。飼いたいとずっと思っているんですけど、義父がペットを飼うことに反対でして、我慢しているんです。でも、もうすぐ飼えるかも……なんて言ったらアレなんですけども、ほほほ」

 義理の父親だから嫁いだものとしては、悲しみは実の肉親よりも薄くなるのかもしれない。介護の疲れもあって、それくらいのことは言っても罪はないだろう。ロクも合わせて愛想笑いしておいた。

 先ほど火にかけたケトルから湯気が立ち始めていた。ピーと音が鳴り始める。

 瑞江は棚からお菓子を出している最中だった。箱をテーブルに置くや否や、慌てて火を消していた。

 ロクはその箱をじっと見ていた。

 お湯をティーポットに注ぎながら瑞江は呟く。

「夫は腹立ち紛れに捨ててしまえといったんですけど、チョコレートには罪はないので、置いておいたんです」

 まだ封を切っていないハワイの神話のティキ像の絵が描かれた茶色い箱のそれは、定番土産のマカデミアンチョコレートだった。

 なぜ忠義はこれに反応したのか。ロクは見つめながら考えていた。

 その時、ミミがトイレから戻ってきて瑞江を呼んだ。

「部屋から呼ぶような声が聞こえているんですけど」

瑞江はすぐに義父の部屋に駆けつける。ロクもミミもその後を追った。

「正常な状態なら、直接本人から訊けないかな」

 ミミが呟く。

 瑞江は部屋に入って、義父に話しかける。失礼を承知ながら、ロクとミミは入り口で覗いていた。

「お義父さん、なんですか」

「水、水を……」

 震えるような声が聞こえる。

 谷原はすぐにキッチンへと戻っていった。

 ミミはそっと部屋に入り、やせ細った年老いた男性を見つめ、名前を呼んでみた。

「忠義さん」

「ああ……」

 喉から音が漏れたような声が微かに聞こえた。困惑しながらミミを見つめ、やがて息が乱れて目を見開いた。

「カズコー、カズコー」

 弱々しく手を突き出しミミに迫ろうとしていた。

「えっ、私がカズコに見えるの?」

 ミミは近づく。

「おい、ミミ」

 ロクが嗜めるも、忠義はミミにもっと近づいてほしそうだ。

「カズコー、カズコー、迎えに来てくれたのか。すまんかったのう。許してくれ」

「あら、お義父さん、どうしたの?」

 水呑器を片手に、瑞江がベッドに駆け寄った。

「私を見てカズコって叫んだんです」

 ミミが説明する。

「カズコー、カズコー」

 ロクは忠義の叫ぶ様子を見て違和感を覚えた。忠義の視線が何かおかしい。

「ミミ、ちょっとこっちに来い」

 ミミが忠義から離れたところで、代わりにロクがベッドに近づいた。

「カズコー、カズコー」

 ロクを見てミミのときと同じように反応している。

「やっぱりそうか。忠義さんは、柴犬に反応してます」

「えっ」と瑞江はロクのパーカーを見つめた。

「お義父さん、カズコって犬なの?」

 瑞江も確かめるが、その質問に忠義は答えようとせず、パーカーに描かれた柴犬を悲しそうに見ていた。

 その後忠義は再び眠りにつき、それ以上の情報は引き出せなかった。

 先ほどの出来事を考えながらダイニングテーブルを囲み、ロクとミミは瑞江からお茶を差し出される。

「昔、忠義さんは犬を飼っていたんでしょうか?」

 ロクが訊いた。

「いいえ、夫がいうには、ペットは一度も飼ったことがないそうです。犬が欲しいと子供の頃ねだっても絶対だめだとか言うくらいだったんです」

 瑞江はわからないと眉間に皺を寄せた。

「それじゃ、『迎えに来てくれたのか。すまんかったのう。許してくれ』とはどういうことなんでしょう。犬を飼ってたような親しみを持った言い方ですよね」

 とミミ。

 ロクはテーブルに置かれていたチョコレートの箱を見ながら考え込む。

「カズコを最初に思い出したのはその箱をみたときですよね」

 まだチョコレートを開封していなかったと、瑞江は慌てて手にした。

「チョコレートの箱が犬に見えた?」

 ミミがそう言うも、絵は描いてあるが犬には見えない。どう見てもマカデミアンチョコレートが入っている箱にしかみえなかった。

 瑞江はコーティングされていた透明のフィルムをはがしていたとき、ふいに動きを止めた。

「あっ、そういえば、マカダミアナッツとチョコって、犬にとったら中毒を起こす食べ物ですよね」

「そうなんですか?」

 ミミは驚いていた。

「あと、玉ねぎ、レーズンなどもダメで、色々と食べてはいけないものがあって、犬を飼ってる人は与える餌に注意をしないといけないんです。私も小さいとき犬を飼っていたので、犬には毒になるものがあって死んじゃうから勝手に人間のおやつをあげじゃだめよって両親から言われました」

 瑞江は再び手を動かして、チョコレートの箱を開け、それをロクたちの前に差し出した。

「忠義さんはもしかしたら、小さいときに犬を飼っていたんじゃないでしょうか。そして間違ってマカダミアナッツ入りのチョコを犬に与えてしまった……」

 ロクが言ったあと、ミミが続けた。

「そして、それが原因で死んでしまったってこと? だから罪悪感をもっていつまでもトラウマになっていたってこと?」

「それが原因なら、それに越した事はないです。でも夫は信じてくれるでしょうか」

 瑞江は心底喜べなかった。

 ここまで繋がったというのに、疑り深い瑞江の夫はそれで納得するだろうか、ロクにも自信がなかった。

「だれか、忠義さんの昔を知る人はいないでしょうか。犬を飼っていたと証言できる人が見つかれば、ご主人も納得されるのではないでしょうか」

「しかし、義父の妹にもカズコの話をしたとき、何も反応がありませんでした」

「でも、その時は女性の話として尋ねられたんじゃないですか?」

「そうですが、カズコという名前を聞いたら、同じ名前の犬のことも普通連想しません? そういう名前の犬を飼っていたくらいの事をいいそうな気がするんですけど」

「それもそうですね」

 ロクは渋い顔つきになっていた。

「とにかく、ここで話していてもどうすることもできないと思います。とりあえず旦那さんに、犬の事を言って反応を見てはどうでしょうか。それで納得すれば、証拠がなくてもこの件はひとまず落ち着くのではないでしょうか」

 ミミが補った。

「それもそうですね。今晩、夫が戻ってきましたら話してみます。あっ、それから依頼料ですが、どうすればよろしいでしょうか」

 瑞江はどこか心配している節があった。

ロクはまたお金の事を面と向かって言われると、始めたばかりの商売で基準がわからずに遠慮がちになってしまう。

「えっと、その、たまたま無料相談中に偶然にこういう結果になりましたので、今回はいらないです」

「ええ、そんな、逸見さんたちがお越しになってくれたお陰で分かったんですから、ちゃんととって下さい」

 ロクはミミをチラッと横目で見てどうしようと無言で相談を持ちかける。

「あの、そしたら、もし旦那さんがこの件について納得されたら、解決料として三千円を頂くということでいかがでしょうか。納得されなかったら、これ以上私たちは解決できなかったということで、無料ということでいいです」

「そ、そうですか。じゃあ、まずは夫に話してみます」

「後ほどで結構ですので、お電話でその後の事をお知らせしてもらえると幸いです。よろしくお願いします」

 ミミはペコリと頭を下げると、ロクも慌てて頭を下げた。

「こちらこそ色々とありがとうございました」

 瑞江も頭を下げていた。

 テーブルにはマカダミアナッツがまだ誰にも手をつけないまま箱にきっちりと入っていた。

 忠義は過去に誤ってマカダミアナッツのチョコを犬に与えてしまい、その後その犬は死んでしまったに違いない。そう思うと、罪深いものをそこにいたものは感じてしまっていた。


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