ふたりは謎ときめいて始まりました。
3
思い返せば不思議な出会いだとその記憶はやがてフェードアウトし、次にキッチンで必死に卵を泡立てているミミがフェードインしてくる。九重とミミが重なりロクは思わず言ってしまった。
「お前のおばあちゃんもお菓子作りが好きみたいだぞ。やっぱり遺伝かな」
「なんで私のお祖母ちゃんのこと知ってるのよ。もしかして裏で糸を引いてるのってお祖母ちゃんってことなの? ん、もう……結局、お祖母ちゃんからは逃げられないってことか」
あからさまに落胆してミミの手元が止まった。
「どうしたんだよ」
ロクに訊かれて顔を上げるも目が虚ろなミミ。
「うちは色々と厳しいしきたりがあって、私はそれに縛られて生活してきたの。お祖母ちゃんは特に厳しい人でね、家では一番の権限をもっているの。孫の私が生まれたら、母親よりもあれをしろ、これをしろって、いつも言われて自由なんてなかった。学生時代は仕方なく我慢していたけど、短大を卒業してこれから自分のために生きようとしたときに、急にお見合いさせられそうになってさ、それで逃げて来たの」
「お、お見合い? そんなに嫌ならはっきりと断ればいいじゃないか」
「それが出来たらどんなにいいか。出来ないから逃げたのよ。一度顔を合わせたら、もう私には権限がなくて相手のいいなりになるしかないの」
「だけど、相手がミミの事を気に入らない可能性もあるじゃないか。わざと嫌われる事をすればそういうの問題ないだろ」
ロクは簡単なことのように茶化していた。
ミミは「はぁ」と大きく呆れたため息をつく。
「そんな簡単なことじゃないの。相手も断れないのよ。お互いの家のためにね」
「それって、まるで政略結婚みたいだな」
「みたいじゃなくて、まさにそういうこと」
「えっ、一体どんな家柄なんだよ」
「だから、そういう家柄なの」
ミミは力なく泡立てながら、家を飛び出したときの事をぼんやりと頭に浮かべる。
どこか知らない土地で、自分の力だけで生きていこう。逃げるんだ。それだけで電車を乗り継いで、何の計画もなく無謀に行動を起こしていた。
この先一体どうすればいいのかと不安を抱きながら見知らぬ駅に着いたとき、突然名前を呼ばれた。
『九重……ミミ……さんだね』
一瞬にして体が強張り、心臓が早鐘を打つ。いざとなったら逃げよう。そう思って恐る恐る振り返ったとき、泣きそうな顔をした初老の男性が震えるように立っていたから意表をつかれて暫く突っ立ってしまった。
相手はミミをよく知っているかの振る舞いにミミは邪険に出来ず、暫く成り行きを見守っていた。
その男性は声にならない詰まった息を何度か吐いて、ミミにどう接していいのか逡巡していた。恐れているのか、喜んでいるのか、どっちにも取れた。あの時はあの年取った男性の意図がわからなかったけど、今になってミミは理解した。
「だからか」
あの時の事が腑に落ちてつい声が出ていた。
「何だよ、急に叫んで」
「どおりで事が上手く出来すぎていたはずだ。お祖母ちゃんが仕組んだから、その命令に怯えていたんだあの人は」
「何の話だよ」
「あたかも味方のようなふりしてさ、結局は私騙されたの? どうしてよ」
ミミはぶつぶつと文句を垂れていた。
「あのさ、もっと分かるように話してくれないか」
「だから、私が逃げる事を知っていて、その逃げ場所を最初から用意されていたってことよ。私を案内した年寄りの男性もお祖母ちゃんに命令されて仕方なく私をずっと尾行して、そしてここに来るように誘導したってこと」
「年寄りの男性?」
「そうよ、家の事情を知っていたし、私は全然覚えてなかったんだけど、向こうは私の事をずっと知っていたらしくて、しばらく邪魔されずに過ごせる場所があるからってここを紹介してくれたの。そこに間抜けだけど力になってくれる探偵がいる、私を待っているから面倒を見てやってほしいって言われた」
「ちょっと待て。間抜けっておい、どこのじじいだよ、俺の事をそういう奴は」
「こっちが知りたいわよ。文句があるなら私じゃなくて全てを計画したお祖母ちゃんに言ってよ」
シャカシャカと再び泡立てるミミ。投げやりでやる気が見られない。
ロクもまた、自分が間抜けといわれたことで気分を害すも、何かしっくりこない違和感を抱いていた。
自分が出会った九重のおばあさんはミミが言うような厳しい人にあてはまらない。寧ろミミを守りたいとここを用意したように思えてならなかった。
ミミは何か勘違いしているのかもしれない。
『世の中の事が全くわかってなくて、ちょっと記憶が飛んでるの』
確かそんな風に九重が言っていたとロクは思い出す。
「なあ、今は暫く様子をみてみないか。それからどうすればいいのか考えたらいいじゃないか」
「だったら、ロクはいざというとき私の味方になって助けてくれる?」
「何を助けたらいいのかわからないけども、それはミミ次第だな」
「どういう意味よ」
「だから、俺に優しくして、何でも言う事をきいてさ」
何かがしゅっとロクに向かって飛んできた。ロクはそれをひょいと避ける。
「おい、木べら投げるなよ。手裏剣じゃあるまいし」
「じゃあ、こっちもロク次第だわ。あなたが優秀な探偵なら敬意を持って接します。そうじゃなかったら、見切ってどこかへ逃げるわ」
「おー、言ってくれるじゃないか」
鼻でフンと笑うも、内心気が気でなかった。
ミミの前だからとロクは少しばかり虚勢を張っていかにも自分がいい探偵だと演じようとしている。今まで一度も謎解きなどした事がないというのに。
ミミに馬鹿にされるのも嫌だったが、九重との約束を破るのも嫌だった。ロクは九重を放っておけない。
喫茶店でご馳走になった後、このマンションを紹介され、設備の説明を受けているとき、九重は感極まって少し涙ぐみ、必死に泣くまいと力を入れていた姿が印象的だった。
ミミとの間で何か言えない事情がありそうだと、ロクは見て見ぬフリをする。
『ミミは気の強い子だと逸見さんの目に映ることでしょう。だけど、あの年頃は素直になれずについ意地を張ってしまうのです。どうかその辺を理解してやって下さい。決して逸見さんのことを嫌いとかじゃないんです。ずっと籠の中に閉じ込められていたので、男の人と接することに慣れてないのです。それでも精一杯にあの子は逸見さんと向き合おうとすることでしょう』
『九重さんはとにかくミミさんの事が心配なんですね』
『そうかもしれないわ』
九重は口元を軽く上げてくすっと笑った。そしてじっとロクを見つめる。
『ま、任せて下さい』
期待されていると思ってついつい調子にのってしまうロク。
『それじゃ、お願いします』
九重は右手を差し出した。
ロクがその手を取って握手すると、九重はもう片方の手を添えロクの手を握って力を込めた。
『ありがとう』
涙を堪えた震える声がか細く九重の喉から搾り出された。九重は暫くロクの手を離さなかった。
思い返せば不思議な出会いだとその記憶はやがてフェードアウトし、次にキッチンで必死に卵を泡立てているミミがフェードインしてくる。九重とミミが重なりロクは思わず言ってしまった。
「お前のおばあちゃんもお菓子作りが好きみたいだぞ。やっぱり遺伝かな」
「なんで私のお祖母ちゃんのこと知ってるのよ。もしかして裏で糸を引いてるのってお祖母ちゃんってことなの? ん、もう……結局、お祖母ちゃんからは逃げられないってことか」
あからさまに落胆してミミの手元が止まった。
「どうしたんだよ」
ロクに訊かれて顔を上げるも目が虚ろなミミ。
「うちは色々と厳しいしきたりがあって、私はそれに縛られて生活してきたの。お祖母ちゃんは特に厳しい人でね、家では一番の権限をもっているの。孫の私が生まれたら、母親よりもあれをしろ、これをしろって、いつも言われて自由なんてなかった。学生時代は仕方なく我慢していたけど、短大を卒業してこれから自分のために生きようとしたときに、急にお見合いさせられそうになってさ、それで逃げて来たの」
「お、お見合い? そんなに嫌ならはっきりと断ればいいじゃないか」
「それが出来たらどんなにいいか。出来ないから逃げたのよ。一度顔を合わせたら、もう私には権限がなくて相手のいいなりになるしかないの」
「だけど、相手がミミの事を気に入らない可能性もあるじゃないか。わざと嫌われる事をすればそういうの問題ないだろ」
ロクは簡単なことのように茶化していた。
ミミは「はぁ」と大きく呆れたため息をつく。
「そんな簡単なことじゃないの。相手も断れないのよ。お互いの家のためにね」
「それって、まるで政略結婚みたいだな」
「みたいじゃなくて、まさにそういうこと」
「えっ、一体どんな家柄なんだよ」
「だから、そういう家柄なの」
ミミは力なく泡立てながら、家を飛び出したときの事をぼんやりと頭に浮かべる。
どこか知らない土地で、自分の力だけで生きていこう。逃げるんだ。それだけで電車を乗り継いで、何の計画もなく無謀に行動を起こしていた。
この先一体どうすればいいのかと不安を抱きながら見知らぬ駅に着いたとき、突然名前を呼ばれた。
『九重……ミミ……さんだね』
一瞬にして体が強張り、心臓が早鐘を打つ。いざとなったら逃げよう。そう思って恐る恐る振り返ったとき、泣きそうな顔をした初老の男性が震えるように立っていたから意表をつかれて暫く突っ立ってしまった。
相手はミミをよく知っているかの振る舞いにミミは邪険に出来ず、暫く成り行きを見守っていた。
その男性は声にならない詰まった息を何度か吐いて、ミミにどう接していいのか逡巡していた。恐れているのか、喜んでいるのか、どっちにも取れた。あの時はあの年取った男性の意図がわからなかったけど、今になってミミは理解した。
「だからか」
あの時の事が腑に落ちてつい声が出ていた。
「何だよ、急に叫んで」
「どおりで事が上手く出来すぎていたはずだ。お祖母ちゃんが仕組んだから、その命令に怯えていたんだあの人は」
「何の話だよ」
「あたかも味方のようなふりしてさ、結局は私騙されたの? どうしてよ」
ミミはぶつぶつと文句を垂れていた。
「あのさ、もっと分かるように話してくれないか」
「だから、私が逃げる事を知っていて、その逃げ場所を最初から用意されていたってことよ。私を案内した年寄りの男性もお祖母ちゃんに命令されて仕方なく私をずっと尾行して、そしてここに来るように誘導したってこと」
「年寄りの男性?」
「そうよ、家の事情を知っていたし、私は全然覚えてなかったんだけど、向こうは私の事をずっと知っていたらしくて、しばらく邪魔されずに過ごせる場所があるからってここを紹介してくれたの。そこに間抜けだけど力になってくれる探偵がいる、私を待っているから面倒を見てやってほしいって言われた」
「ちょっと待て。間抜けっておい、どこのじじいだよ、俺の事をそういう奴は」
「こっちが知りたいわよ。文句があるなら私じゃなくて全てを計画したお祖母ちゃんに言ってよ」
シャカシャカと再び泡立てるミミ。投げやりでやる気が見られない。
ロクもまた、自分が間抜けといわれたことで気分を害すも、何かしっくりこない違和感を抱いていた。
自分が出会った九重のおばあさんはミミが言うような厳しい人にあてはまらない。寧ろミミを守りたいとここを用意したように思えてならなかった。
ミミは何か勘違いしているのかもしれない。
『世の中の事が全くわかってなくて、ちょっと記憶が飛んでるの』
確かそんな風に九重が言っていたとロクは思い出す。
「なあ、今は暫く様子をみてみないか。それからどうすればいいのか考えたらいいじゃないか」
「だったら、ロクはいざというとき私の味方になって助けてくれる?」
「何を助けたらいいのかわからないけども、それはミミ次第だな」
「どういう意味よ」
「だから、俺に優しくして、何でも言う事をきいてさ」
何かがしゅっとロクに向かって飛んできた。ロクはそれをひょいと避ける。
「おい、木べら投げるなよ。手裏剣じゃあるまいし」
「じゃあ、こっちもロク次第だわ。あなたが優秀な探偵なら敬意を持って接します。そうじゃなかったら、見切ってどこかへ逃げるわ」
「おー、言ってくれるじゃないか」
鼻でフンと笑うも、内心気が気でなかった。
ミミの前だからとロクは少しばかり虚勢を張っていかにも自分がいい探偵だと演じようとしている。今まで一度も謎解きなどした事がないというのに。
ミミに馬鹿にされるのも嫌だったが、九重との約束を破るのも嫌だった。ロクは九重を放っておけない。
喫茶店でご馳走になった後、このマンションを紹介され、設備の説明を受けているとき、九重は感極まって少し涙ぐみ、必死に泣くまいと力を入れていた姿が印象的だった。
ミミとの間で何か言えない事情がありそうだと、ロクは見て見ぬフリをする。
『ミミは気の強い子だと逸見さんの目に映ることでしょう。だけど、あの年頃は素直になれずについ意地を張ってしまうのです。どうかその辺を理解してやって下さい。決して逸見さんのことを嫌いとかじゃないんです。ずっと籠の中に閉じ込められていたので、男の人と接することに慣れてないのです。それでも精一杯にあの子は逸見さんと向き合おうとすることでしょう』
『九重さんはとにかくミミさんの事が心配なんですね』
『そうかもしれないわ』
九重は口元を軽く上げてくすっと笑った。そしてじっとロクを見つめる。
『ま、任せて下さい』
期待されていると思ってついつい調子にのってしまうロク。
『それじゃ、お願いします』
九重は右手を差し出した。
ロクがその手を取って握手すると、九重はもう片方の手を添えロクの手を握って力を込めた。
『ありがとう』
涙を堪えた震える声がか細く九重の喉から搾り出された。九重は暫くロクの手を離さなかった。