ふたりは謎ときめいて始まりました。



 ロクが手に荷物を持って「ただいま」と戻ってくると、キッチンのカウンターで頬杖をついて、スツールに座って落ち込んでいるミミの姿が目に入る。

「どうしたんだミミ」

 ロクが側に近づけば、振り返って見上げるミミの目が赤く睫毛が湿っていた。次第にひくひくと肩を揺らしだした。

「一体何があったんだよ」

 ロクが周りを見れば、ボールや鍋がシンクにおかれ、何かを作った痕があった。

 その隣のカウンターの上には、数個の小さな丸いアルミカップが置かれている。中身が黄色いことから、プリンだとすぐにわかった。

「ああーん」

 とうとうミミは泣き出した。

「おい、ミミ、泣いていたら分からないじゃないか」

 ミミはひっくひっくとしながらロクを見つめる。そのときなぜか八つ当たってきっとにらんでしまった。

「なんだよ、そんな顔して。もしかしてプリン失敗したのか?」

 ミミの機嫌が悪くなるのはお菓子作りが上手く行かない時だと察知したロクは、ひとつプリンを手にした。

 まだ温かなそれに、スプーンを取り出して一口食べた。

 それは家庭でよく作る一般的なプリンの味だ。

「結構美味しいじゃないか。何も失敗してないぞ」

 慰めるロク。

「それは失敗。お皿にひっくり返したらわかる」

 ミミが言うままに、お皿を取り出し、スプーンで入れ物とプリンの端に溝をいれ、隙間に空気を流した。お皿を上に置き、ひっくり返して、軽く二、三度上下に振れば、型から落ちる気配を感じた。

 そっと型を持ち上げてみれば、カラメルがプリンを伝わってお皿に流れていく。しっとりと琥珀色のソースを纏った柔らかな黄色に、ぶつぶつと空気の穴が入っていた。多分、これが原因だとロクはミミに振り返った。

「焼きすぎたってことか」

 プリンは火が通り過ぎると、すがはいって穴がぶつぶつとあいてしまう。これが食感を悪くして美味しくなくるなるのだ。

「なんで、上手くいかないのよ」

 今日全てにおいて、ミミはついてない。

「そうだな。この型はアルミ製だな。アルミは熱を伝えやすい。それで温度が高くなるのが早くて焼きすぎに繋がったんだろう」

「それだけじゃないもん」

「湯煎せずにオーブンにいれたとか?」

「それはした」

「じゃあ、他に何があったんだよ」

 ロクもいい加減あきれ返ってくる。

「電話」

「えっ? 電話?」

「朝の七時半くらいに女の人から電話があった」

 ミミはロクの反応を注意深く見ていた。

「仕事の依頼か?」

「違う。私がここに住んでいる事が信じられないって、驚いている電話」

「何だよ、それ?」

 ピンとこないロクに、ミミはありのままの電話の受け答えを再現する。

 それでもロクは訳がわからない顔をして、頭に疑問符を浮かべていた。

「なんで、ミミがここに住んでいる事が信じられないと驚くんだろう」

「えっ、心当たりないの?」

「なんの心当たりだよ」

「だから、ロクの知っている女の人とか」

 ミミは上目使い気味にちらっと様子を窺う。

「白石さん?」

「なんでそこで、白石さんがでてくるのよ。白石さんなら私がここで一緒に住んでいること知っているでしょ」

「だから、心当たりがないっていってるじゃないか」

 ロクの言葉でミミの顔が晴れて行く。

「じゃあ、ストーカーでロクの様子を探っている人?」

「そんな女がいたら、怖いよ。でも、それもないと思う。その電話、本当にここにかかってきたのか」

「掛かってきたから私が受話器とったんじゃない」

「そういう意味じゃなくて、ここの電話番号に掛かったけど、本当は他の違う人に掛けたんじゃないかってことだ」

「間違い電話?」

「そう、それ!」

 ロクは紙とペンを用意し、この家の電話番号を書いた。それをじっくり見つめ最後の数字に丸をする。

「最後のこの『6』は書きようによったら『0』に書き間違えるときがある。電話番号を書いたメモを見ながら電話をかけたなら、見間違えることもありうる」

 ロクは電話機に近づき、受話器を手にした。そこで操作し始める。

「電話するの?」

「ああ、確かめた方が間違った人のためにもなる」

 ロクが最後の数字だけ変えてナンバーをプッシュする。最後にスピーカーボタンを押せば、呼び出し音がミミにもはっきり聞こえた。

 ――もしもし。

 男の人の声がした。その後ろで女の人が騒いでいる声もする。

 ――もしかして女の人からなの、ちょっとその電話貸しなさいよ。

 ――だから誤解だっていってるだろ。ちょっと待て。

 男女が受話器を取り合っている様子が伝わってきた。

 ――もしもし!

 怒った女性の声。ミミには聞き覚えがあった。

「あの、恐れ入りますが、今朝、七時半くらいにこちらに電話をかけられた方ですか?」

 ――えっ?

「うちの助手が取りまして、何やら誤解されて切られたとあったので、そちらも勘違いして大変なことになっているんではと思って電話させて頂きました」

 ――あっ、あの。

 電話口の女性の怒りがすっと消えたのが伝わってくる。

 ロクはミミに受話器を渡した。

「もしもし、今朝、ここに住んでいるのかと訊かれたものです」

 ――ああ、あなたは。あの時の?

「そうです。そちらも勘違いで何かもめているんじゃないですか?」

 ――あ、そ、その、そうです……。

「間違って掛けてこられたみたいですよ」

 ――そ、そうですか。その節はどうもすみませんでした。

「いいえ、いいんですけど、どうか、誤解といて下さいね。それでは失礼します」

 お互いどう言っていいのかわからないけども、どちらの心もすっかりと軽くなっていた。電話を切った後、ロクを見れば何だか恥ずかしい。きっと間違った女性も同じ気持ちだろう。

「ロク、ごめん」

「別に構わないけどさ、間違って掛けてきてキレられたら、やっぱりムッとするよな」

「あの、そういう意味じゃないんだけど……」

 これ以上ロクに本当のことはいえなくなった代わりに、ミミは質問する。

「ところで、朝から一体どこに行っていたの?」

「ああ、笹田さんとモーニングセット食べてきた」

「笹田さんって、白石さん宅に住んでる変態?」

「変態はいい加減忘れろ。あれでも大変そうだぞ。昨日会ったとき、白石さんとあまり顔を合わせないようにかなり気を遣っているの見ただろ。白石さんのスケジュールは朝早くの出勤、遅番、夜勤、そして休みとローテーションなっているから、それに合わせてかち合わないようにしているんだって。朝の出勤のときは白石さんがゆっくり身支度できるように早朝に喫茶店で過ごすらしいんだけど、それを昨日会った時きいていたから、ちょっとお供してみた」

「笹田さんと喫茶店ってもしかして『エフ』?」

「そうだよ」

「だったら、私も行きたかった。あそこの喫茶店好き。マスターもすごくいい人そうで、ああいう大人な人、魅力的」

「おい、かなりの年寄りだぞ、あの人」

「でも年取っても素敵な人にはかわりない。若いときはもてただろうな」

 ミミの一言で、九重がマスターと仲良く話している様子が思い出される。ミミの前では祖母の事は言えないからロクは黙っておいたが、あれはふたりともいい感じに見えた。

「ああ、そうそう、そのマスターだけど、お土産もらった」

「えっ、何々? もしかしてケーキ?」

 ミミは期待する。

 苦笑いしながらロクはロゴもはいっていない茶色の紙袋をミミに渡した。

 ミミが中を覗けば、そこにはパックに入った卵があった。

「あっ、卵だ」

「今朝、産みたての卵らしい」

「この卵、なんか青くない? 青色なんて初めてみた」

 紙袋から取り出し、珍しそうにミミは眺める。宇宙戦艦ヤマトのデスラー総統のようだと思ったが、口にはしなかった。

「幸せの青い卵?」

 ロクがぽろっと呟く。

「それ、幸せの青い鳥をもじったの?」

「なんか閃いた、へへへ」

 照れくさそうにロクが笑う。その笑顔がミミを幸せにする。

 ずっとついてないとひとりで嘆いていた事がばからしくなってしまった。電話も誤解で、ロクは見事にそれも推理して解決してくれた。

 不安やネガティブに負けちゃダメだ。ミミは強くなろうと自分を奮い立たせ、失敗したプリンをじっと見ていた。

「そんなに気にしないでさ、この卵でまたプリン作ればいいんじゃないか? 失敗は成功の元というだろう。次はきっと上手く作れるよ」

「もう失敗は気にしてないけどもさ、この卵で作るのは勿体ないな。これはこのままご飯に掛けて食べたい」

「それいいね。卵かけごはん」

「じゃあ、お昼はそれだね。ご飯を炊かなくっちゃ」

 ミミは急に元気が出てくる。急いで支度を始めた。

「でも、ロクって本当にすごいな。間違い電話の番号ですら見つけるんだから」

 鼻歌交じりにさらりと褒めるミミ。

 ロクは持っていた受話器を本体に置きながら、そこにあるディスプレイをみていた。誰がかけてきたかは、操作ボタンを押せばそこに出てくる。普通ならそれを調べればいい。ミミは機械音痴で気がついてなかった。

「まあ、いっか」

 正直に話すのを諦めた。


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