ふたりは謎ときめいて始まりました。

 その次の日の朝のこと。ミミがキッチンで片付け物をしていると、ロクはスツールに座って自分の淹れたコーヒーを飲みながら考え事をしていた。

「一体どうなっているのか、さっぱりわからない」

「何、昨日の祥司君の話?」

「うん、なんか要領をあまり得てないのと、不思議な展開ですごくこんがらがった」

「子供だから、仕方ないよ。直接久ちゃんに訊けばいいんじゃないの? 参観日に会えるよ」

 ミミはご機嫌だった。

 瀬戸に誘われた参観日に、ロクに買ってもらったワンピースを着ていくつもりだからだ。

 ロクは熱いコーヒーをすすり、まだ「うーん」と唸っていた。それとは対照的にミミは能天気に独り言を呟く。

「プリンいつ食べようかな」

 昨日、プリン作りに失敗したことを瀬戸に言えば、アドバイスを貰ってその日のうちにもう一度作ったのだった。

『プリンを極めるには、まず自分がどの固さを作りたいかはっきりさせるんですわ。究極の滑らかさを好む人もいれば、昔懐かしい固めを好む人もいる。そこから卵と牛乳の比率も違ってきますし、味わいも変化する。ミミさん、プリン作るときはなめたらあかん。覚悟が相当いりまっせ』

 凄みを利かせた瀬戸の顔つきはぞくっとするものがあった。ミミはしゃきーんと背筋を伸ばしてコツを聞いていた。

「液を注ぐ時は泡立たないように慎重に流し込んだ。入れ物は熱が均等にいきわたるようにガラスの耐熱器、湯煎するときも下には温度を和らげるための布巾を敷いた。表面が乾燥しないようにアルミホイルで蓋を作った。もちろん温度も焼き時間も気をつけた。もう、完璧! ああ、食べるのが楽しみ」

 すでに昨晩、荒熱が取れたのを試食し、舌触りも滑らかですも入らず上手く焼けていた。それを一晩冷蔵庫に入れて冷やしている。

 お菓子が上手く作れたときのミミはご機嫌だ。キッチンで踊るように洗い物をしていた。

 その時、インターホンのベルの音が部屋に響き渡った。

「あっ、依頼のお客かな?」

 タオルで手を拭きながら、ミミはモニターへ近寄り、画面を覗き込んだ。

「あら、あの子は」

 ミミはスタスタと玄関へ向かい、ドアを開けて直接対応した。

「こんにちは、えっと、たしか葉山さん……だよね」

 母親に連れられてやってきた楓。顔を上げるなりミミを見て泣きそうになっていた。

「はじめまして。私、母親の葉山美佐子と申します。この子が娘の楓です」

 頭を下げた美佐子のセミロングの黒髪がつややかに揺れた。そういえば娘も同じ髪型でよく似た親子だ。

「お忙しいところ失礼します。是非ともこちらの探偵さんとお話がしたいのですが」

「は、はい。どうぞ、お入り下さい」

 美佐子の思いつめたその表情が深刻な問題を抱えていそうだ。楓が辛そうに母親の後をついていく。

 ミミに勧められて、ふたりはソファーに緊張して座った。

「楓ちゃん、何か飲む? オレンジジュースかアップルジュースがあるよ」

 ミミが優しく問いかけるも、楓は厳しい顔をしながら首を横に振った。

「どうぞ、お構いなく」

 美佐子もまた硬い表情を崩さない。

「どうも、初めまして。逸見ロクと申します」

 ロクがさりげなく現れ、美佐子が立ち上がって挨拶しようとするのを制してソファーに腰を掛けた。

「ええと、楓ちゃんは久太郎君のお友達だよね」

 ロクの言葉が引き金となって、楓はいきなり泣き出した。

「これ、楓」

 美佐子がそれをやめさせようとする。

「お母さん、とにかく、楓ちゃんのしたいようにさせてあげてください。泣く事は必ずしも悪いことじゃありません。ストレスの解消で心を軽くしてくれるものでもあります」

「楓ちゃん、大丈夫だからね。全然怖くないよ」

 ミミも宥める。

「もしかしたら、消しゴムのことかな」

 ロクが訊くと、楓は泣きながらコクリと首を振った。

「一度娘とお会いしているそうですね。逸見さんの事を娘が伝えてきたんです。逸見さんなら助けてくれるかもと娘がいうもので、それでこの探偵事務所にいらっしゃることを知ってお話だけでもと思って伺いました」

 美佐子が補足している間、前日の祥司の話をロクは思い出していた。

 ミミと瀬戸が飲み物を買いにいっているとき、ロクが祥司とテーブルについて聞いた話だ。

 久太郎の消しゴムは結局は戻ってこなかったが、その代わり、朝登校すれば、すごい数の新しい消しゴムが久太郎の机の中に入っていたと祥司は言っていた。

『それで消しゴムから手紙が入っていたんだけど』

『ちょっと待って、消しゴムから手紙?』

 ロクは祥司の言い方が間違っていると思って問い質す。

『うん。〝今は帰れません。でも心配しないで。とても楽しんでる。それまでこれを使って。消しゴムより〟みたいな事が書いてた。これってお兄ちゃんが魔法を掛けたからでしょ。久ちゃんがそうだってみんなに説明してた』

 祥司の話がありえなさすぎて、ロクは困惑していた。誰かが故意にやったに違いない。だが、一体誰がそんなことをしたのかがわからない。たくさんの消しゴムを子供が簡単に用意できるわけがないから、必ず大人が絡んでいる。しかしいくら考えても、この展開の謎は心当たりがなく解けなかった。

『みんなもびっくりして、うらやましいっていう子もいたから、久ちゃん、クラスのみんなと消しゴム分けたの。僕ももらったんだけど、そしたら、数がピッタリだった。久ちゃんも奇跡だってすごく喜んでた』

 祥司は久太郎がとても優しい子で、いつも人を助けているという話をし、クラスでも人気者の様子が窺えた。当然女の子にももてているのだろう。

 楓が久太郎を好きになるのも頷ける。そして他の女の子との張り合いで久太郎の消しゴムをつい握り締め、身近に感じたい要求が高まってしまった。それが悪い事とわかってもそこまでして久太郎のものがほしかったとロクは心理を推測する。

 その気持ちは分別が曖昧な子供にはつい魔がさしてしまうようなものだ。

 楓が泣き止んで落ち着いてきている隣で美佐子が口を開いた。

「あの、実は、楓がクラスの子の消しゴムを盗ってしまったんです」

「先日、久太郎君からなくした消しゴムを探してほしいと相談を受けたんです。その時、楓ちゃんも側にいて、話を聞いているうちに、楓ちゃんが久太郎君の消しゴムを持っているのではと俺も思ってました」

「さすが、探偵さんですね」

 美佐子は恥ずかしさの裏で話が通じると安堵した。

「そのとき、楓ちゃんに返すチャンスをと思って、久太郎君に消しゴムが戻ってくるといいました。そうすることで楓ちゃんに良心を問いました。楓ちゃんは気がついて、返そうとしたんだよね」

 ロクに言われて楓はまたコクリと頷いた。

「でもなんらかのハプニングで返せなかったんだね。一体何があったのかな?」

「消しゴムをなくしたの……」

 楓の声が震えている。

「あらっ」

 ミミも驚いて声が漏れた。

「どこでなくしたかわかるかな?」

 ロクは質問を続ける。

「わからない」

「じゃあ、消しゴムを手にしたとき、どこに入れてたの?」

「ポケット」

「なくなったと気がついたのはいつ?」

「家に帰ったとき」

「それまで、ポケットを触ったとか、ハンカチを出そうとしたことなかったかな?」

「覚えてない……」

 本当にそうだろうか。無意識に楓はどこかでポケットを触って、その時落としたに違いない。

「不思議なことに久太郎君の机になぜかたくさん消しゴムが入っていたとかで、クラスの皆に配ったそうです。楓は良心の呵責からもらえないと断ったんです。何も知らない久太郎君は楓の手を取って、『これは葉山さんの分、だから受け取って』と直接消しゴムを握らせてくれたそうです。久太郎君はクラスでも人気者だから、楓だけ丁寧に渡されたのを見た女の子たちが嫉妬して、後でわざとそうなるようにしたとか責められたそうです。それをまた久太郎君が『葉山さんはそんなことわざとしないよ。遠慮しただけだよ』って庇ったんです。自分の事を信じてくれるのに、消しゴムを私欲で盗ってしまった事を非常に後悔して、それ以来毎日ずっと悩んでいるんです。それでなんとしても消しゴムを見つけて、久太郎君に返して謝りたいんです」

「お兄ちゃんは魔法使いですよね。お願いです。消しゴムを見つけて下さい」

 赤く目を腫らした楓はロクに必死に頼み込む。その隣で美佐子も頭を下げていた。

「んー、これは難しいな。手がかりがなくて、落としたにしろ範囲が広すぎて、探しきれない」

 今までは偶然であったにせよ、謎を解決してきたが、落としたものを見つけるのは至難の業だ。ロクは腕を組みソファーの背もたれに深くもたせかけた。

「楓ちゃん。消しゴムを手にしたのは、四時間目が始まる前かな? その時のこと詳しく話してくれる?」

 ミミは力になりたいと質問する。

「はい。休み時間に久太郎君が男子たちとおしゃべりしてすごく盛り上がってたの。そのとき、祥司君っていう子が加わったの。急にこそこそと固まって真剣に話し出して、何を話しているのだろうと思ってさりげなく近づいたら、机の端に消しゴムが落ちそうになってて、それで咄嗟に掴んでしまったの。それをまた机に置けばよかったのに、つい握り締めちゃって、机に戻すタイミングがずれてすぐ横切ってしまったの。あとで落し物箱に入れておけばいいと思ったのに、周りに人がいて出来なくて、なぜか落し物箱に入っているんだ、自分は盗ってないって思い込んだら、独り言みたいに『落し物箱に消しゴム入ってる』って言ってしまって」

「じゃあ、そこから楓ちゃんはどんな行動をした?」

「消しゴムをポケットに入れたまま、給食食べて、休み時間友達と過ごして五時間目と六時間目の授業を普通に受けた」

「ポケットの中を触るようなことした?」

「消しゴムが入っていると思うと、触れられなかった」

 楓は下を向いてしまった。

「だけど放課後、久太郎君に消しゴムを返したかったんじゃない? だから久太郎君の後を追っていた。なかなか勇気が出せなくて躊躇っていたその時、私たちがそこで久太郎君と出会ったために、益々出来なくなったんじゃないのかな?」

 ミミはあの時、電柱の陰で様子を窺っていた楓を思い出していた。

「うん……」

 楓にとったらロクとミミの存在は邪魔だった。折角返そうと思っていた気持ちをしくじられた。そこに魔法の話になって、話が変な方向にいってしまい、ロクの助言がただのお節介になって、すぐその場で返せなくなる裏目にでてしまった。挙句の果てになくしてしまい、ロクの助言通りにもできずどれだけ辛かったことだろう。

 ミミは申し訳なくなってしまう。

「楓ちゃん、大丈夫だよ。消しゴムは自分で飛び出しちゃったんだよ。それに、消しゴムは楓ちゃんに魔法をかけたのかもしれない」

「私に魔法?」

「そうだよ。わざと楓ちゃんに握るように魔法を掛けたの。時々あるんだよ、物がね、意思を持って人間をコントロールすること。人間はその時なぜそんな事をしたかわからないの。楓ちゃんは消しゴムに利用されたの」

 ミミの話を横で聞いてたロクは複雑な心境だった。

 でも楓は真剣にその話を聞いていた。

「消しゴムは広い世界に飛び出したかったの。だから、そのうち帰りたくなったら、久ちゃんの元に帰ってくる」

「ほんと?」

「うん。だから帰ってくるまでちょっと待とう。その時、久ちゃんに訳を話して謝ればいいよ」

「久太郎君、許してくれるかな」

「絶対、許してくれると思う。それに消しゴムも悪いと思って代わりの仲間を呼び集めたんだろうね。だからあんなにいっぱい机に入ってたんだと思う。クラスのみんなはその時たくさんの消しゴムを見てどうだった?」

「すごくびっくりしてた。それから、みんなひとつずつ久太郎君からもらって、とても喜んでた」

「久ちゃんはどうだった?」

「びっくりしながらも、楽しそうに笑ってた」

「でしょ。だから、楓ちゃんは心配することないって。もし、消しゴムが戻ってきたら、一緒に久ちゃんに説明しよう」

「消しゴム戻ってくるかな」

「戻ってくるよ、きっと」

 ミミが強く言うと、楓の顔が弛緩し気持ちが軽くなったのが窺えた。

「ねぇ、楓ちゃん、プリン好き?」

「うん、大好き」

「お姉ちゃんが作ったのがあるんだけど、一緒に食べない?」

「うん、食べる」

 顔が明るくなった楓を見て、美佐子はほっとしていた。

 ロクだけが複雑な気持ちを抱いてひっそりとため息をついていた。


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