ふたりは謎ときめいて始まりました。


 ミミははっとして、玄関から顔を出して中を覗き込む。

「ロク、大丈夫なの?」

 床に転げ落ちたドタバタする音と何を言っているのかわからない叫びが激しく聞こえる。

「お兄ちゃん、怪物に襲われているの?」

 久太郎がミミと同じように玄関から恐々と覗き込んでいた。

「ロク!」

 いてもたってもいられずに、ミミは慌てて靴を脱いで框を駆け上がる。それにつられて久太郎も後を履いていた靴を降り飛ばしてついていった。

 廊下を走り襖が開いた部屋に入り込めば、畳の上でロクが男を押さえ込んでいた。

 ミミは圧倒されて、おろおろしていると、久太郎が叫んだ。

「あっ、この男の人だ。人間に戻れたんだ」

 あどけない子供に、ロクと男の動きが止まる。ロクに押さえ込まれていた男はあっさりと抵抗するのをやめると、ロクも捕まえていた手を離した。

 男は観念して畏まり正座をする。久太郎は近寄って声を掛けた。

「お兄ちゃん、人間に戻れてよかったね」

「えっ? 何のこと?」

「あっ、もしかして記憶がないの? あのね、お兄ちゃんは魔法で猫に変身させられていたんだよ」

「猫?」

 男の頭に大きな疑問符が見えるようだった。だが、久太郎は自分が間違っていなかったと大喜びだった。

「うん、そうだね。魔法が解けてよかったよね。言ったでしょ、ロクはすごいって」

 ミミが取り繕う。

「うん、ロク兄ちゃんすごいな」

 目をキラキラさせた尊敬の眼差しを向けていた。

「さあ、もう解決したから、早くおうちに帰った方がいいよ。あとのことは私たちに任せて」

「ええ、もうちょっと一緒に居たいな」

「そしたらさ、また今度一緒に会おう」

「ほんと? 約束だよ」

「うん、約束」

 ミミは久太郎を玄関へと連れて行く。久太郎が家に帰るのを見届けて暫くしてから、再び家の中に入っていった。

 ロクとその捉えられた男はすでに話をしている最中だった。

「今、話を聞いていたけど、こいつこの家の倅だって」

「どうも、笹田聖と申します」

 ミミにペコリと頭を下げた。

「実家に帰ってきたら、両親がいなくて代わりに白石さんが住んでいてびっくりしたんだと」

「はい、久しぶりだったので、両親を驚かそうとして開いていた窓から忍び込んだものの、知らない女の人がいて咄嗟に押入れに隠れてしまいました。仕事に追われた生活でここへは戻ってくる予定がなかったんですが、最近仕事が上手く行かず、それで両親を頼ろうと戻ってきたんです。まさか家を貸しているなんて知らなかったんです」

 体のでかさとは裏腹に、情けない顔をした笹田が気の毒に思えてくる。

「それで、いく当てもない笹田さんは、黙ってここに寝泊りすることにしたのさ。ちょうどこの天井裏にスペースがあるんだと。静かにそこに隠れて、白石さんが仕事に出かけると好きに羽を伸ばしてたわけだ。そのうち出て行くつもりでいたらしいけど、ずるずると今に至るというわけさ。そうだな」

「はい、その通りです」

 ロクに代弁してもらい、笹田は虚しく笑った。

「そっか、やっぱり久ちゃんは見間違えてたんだ。人間が猫に変身するわけないもんね」

 ミミが笑った。

「猫? そういえば、私が入ったとき、猫が家の中で走りまわってました。」

 笹田が言った。

「そこだよ。猫は時々入ってくるって白石さんも言ってたし、ちょうど追い出そうしているときに笹田さんが忍び込んで外で見ていたものには偶然が重なって変身したように思えたんだろう。そこで久太郎が見た男というのが浮いてくる。猫が出て男が出てこないなら、もしかしたらこの家のどこかに隠れているんじゃないかって思ったんだ。実際住んでるものに気がつかれずに屋根裏で潜む事件とか過去にあったのを思い出して、そしたらビンゴだった」

「はい、ちょうどトイレに入って油断してました。まさかドアを開けられるとは」

 トホホとでも聞こえてきそうに笹田はうな垂れた。

「謎は解決したけども、白石さんにはどう伝えればいいの?」

 ミミはロクに視線を向けると、姿勢を正した笹田が発言した。

「あの、自分で正直に話します。それで、申し訳ないですがおふたりも一緒にいてくれませんか。その方が彼女も安心するかと」

「それは構わないが、白石さん、今日は夜勤のシフトじゃないかな」

 ロクは相談に来た時間帯からそう推測する。

「夜勤の時は翌朝大体十時くらいに帰ってきます」

「じゃあ、その頃にもう一度来るよ。どうせ俺たちも報告しないといけないし」

 全ての謎が解けたロクは少しだけ肩の荷がおりていた。でもまだどこか不安が残っていそうだ。

 「よろしくお願いします」と帰りに笹田から頭を下げられ、ロクとミミは去っていく。


 陽が落ちかかるセピア色の風景の中、ふたりはゆっくりと歩いていた。

「ああ、これで一件落着」

 ロクは両手を空に突き出して伸びをしていた。

「まさか、こんな落ちがあるなんて思わなかった」

 ミミも今になっておかしくなってきた。

「だけどさ、ひとつだけまだわからないんだ」

「何が?」

「『猫になーれ』っていう呪文。なんで白石さんはそんなこと言いながら猫を追い出したのだろう」

「久ちゃんも言ってたじゃないですか。そこだけしか聞き取れなかったって。多分だけど、その前に『かしこい』とか『言う事をきく』とか『迷惑かけない』とかそういう言葉を言ってたんじゃないかな」

「そんなこと言うかな」

「手にスティックみたいなのを持つと、女の子って呪文を唱えたくなるの」

「ミミもか?」

「うん、私の場合はお玉や木べらとか持って、料理をしてるときかな。『おいしくなーれー』って」

「なるほど。そういわれたら、俺もだ。コーヒー作るときはそんな気分だ」

「あっ!」

 ミミは突然声を上げた。

「どうした?」

「私、ケーキ、放りっぱなしだった。あれ、魔法きかなかった。へへへ」

「心配するな、片付けておいたから」

「そっか、ありがとう……」

 急にミミの元気がなくなっていった。ロクはそれを横目に口元を上向けていた。

 そして家に帰ると、すっかり日が暮れていた。一日の疲れがそこでどっと押し寄せる。

「お腹すいたね。今日何食べよう」

 家に入りながらミミが呟く。

 共同生活なので、臨機応変にどちらかが何かを作ったり、または自由に自分だけ食べたりと、その辺は家にある材料を使いながら好きにしていた。

 当分は困らない量のお米、無農薬野菜や果物、お肉やソーセージなどのギフトセットなど、九重がロク宛に勝手に送ってくることもあり、キッチンは食材で溢れていた。

 ミミが冷蔵庫を開けて中を覗いた時だった。ラップに覆われた丸いケーキ型が入っていた。

 ミミはそれを取り出し、ラップをはがした。

 表面が白いクリームで覆われているそれにミミは驚いた。

「ロク、これ、どういうこと?」

「ああ、それ。ちょっと手を加えておいたよ。まあ、一口食べてみな」

 ミミは引き出しからスプーンを取り出し、それをケーキの端に突っ込んだ。不思議なことに、それはすっと中へ入っていった。スプーンを持ち上げて取り出せば、ミルキーな液体がジュワっとスポンジから染み出している。生クリームとミルクに浸されたスポンジ。それがとてもおいしそうでミミはパクッと口にいれた。

「えっ、おいしい。何これ、口の中でジュワッてとろけて、なんて柔らかいの。それにミルキーなこの味が優しくて病み付きになる。なんでこんなにクリーミーでおいしいの?」

「それ、トレスレチェっていうメキシコのケーキさ」

「トレスレチェ?」

「スペイン語だ。英語にするとスリーミルクっていって、三種類のミルクにスポンジケーキを浸しているんだ。レシピも様々だけど、基本はエバミルク、コンデンスミルク、生クリームのこの三つのミルクを使うのさ。さらに上にはホイップした生クリームで飾りつけさ」

「私のあのケーキを作り直してくれたの?」

「ああ。俺もちょっとデリカシーに欠けたよな。一生懸命に作っていたのに貶しちゃってさ」

「ううん、そんなことない。お陰でこんなおいしいケーキになるなんて、すごいよ、ロク。本当にありがとう。こんなの初めて。メキシコのケーキなんだ。よく知ってるんだね」

 ミミはまたスプーンを突っ込んで食べていた。

「まあね、小さい頃にそれを食べた事があるんだ。って、おいおい、夕食前にそれはちょっと食べすぎなんじゃ。それ全部食うつもりか」

「ど、どうしよう。おいしすぎてとまらない。スポンジを口に入れると、優しいミルクが舌の上でじゅわって広がるのがたまらない」

「あれ? そういえば牛乳嫌いとか言ってなかった?」

「そのままでは飲めないの。だけどお菓子やスープに入れると大丈夫なの」

 ミミはまたスプーンを突っ込んでいる。

「独り占めにするなよな」

 ロクもスプーンを取り出し、ケーキをすくうと口に入れた。

「おっ、これはうまいな。このスポンジケーキの硬さがいい感じにミルクで柔らかくなってる」

 ふたりは笑い合ってお互いを見つめていた。その時、ミミの鼓動はとても速く動いていた。

「ミミ……」

 ロクに名前を呼ばれ、ミミはドキッとする。

「は、はい」

「このケーキ、なんだか俺たちみたいだな」

「えっ」

「ミミの失敗は俺が尻拭いしてさ」

「ちょ、ちょっと何、それ」

「だから、俺がどうしていいかわからないとき、ミミも色々と質問してその場を繋いで助けて尻拭いしてくれた。ふたりで協力すればこのケーキみたいに探偵事務所も何とかなって最高になるってことさ。だから諦めずにふたりで頑張っていこうぜ」

 ロクは白い歯を見せてにっといたずらっぽく笑った。その笑顔がミミには眩しい。

「も、もちろん」

 ミミは持っていたスプーンを握り締めてそれを宙に掲げた。恥ずかしさと嬉しさと興奮が複雑に入り混じっていく。まるでトレスレチェケーキで使った三種類のミルクのようにそれらが合わさると気持ちよく体に沁みていくようだ。

「じゅわ~」

「なんか、ウルトラマンみたいだぞ」

 ロクに突っ込まれるのも心地いい。

 どちらも成り行きで出会い、成り行きで仕事する。その成り行きはこの先どこへ行くのかふたりはわくわくと楽しくなっていた。

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