酔いしれる情緒
そしてどこか遠くに行ってしまった意識は、
その建物から出てきた橋本さんによって引き戻されて。
「仕事終わりでお腹が空いているでしょう?
好きなだけ召し上がってくださいね」
只今の時刻は21時半になる少し前。
外で唖然と立ち尽くしていた時から数分もしないうちに
今までの人生で見たことも食べたこともないような、たっっっっかそうな料理が目の前にズラリと並んでいる。
(美味しそう…)
お昼を食べ損ねた……いや、食べる気にならなかった私にそんな豪華な料理を目の前にされては、ゴクリと唾を飲む。
そしてその料理達を挟んで向かい側には、
約束した通り橋本さんの姿があって。
「食べないんですか?」
目前にある箸を取ろうとしない私に「これとか美味しいですよ?」と、勧めながらとても優雅に食べ進めている。
この通り、目的地は間違いなくこの高級料亭であっていたのだ。
(食べたい、けど……)
お腹は非常に空いている。
お腹が空きすぎてさっきから小さくお腹が鳴っているくらいに。
だからこそ橋本さんからの誘惑に負けてしまいそうになったが、
そうであっても私はこの高級料亭にご飯を食べに来たわけじゃなくて。
この高級そうな料理を味わうこともなくパクパクと食べる橋本さんと、話をするために来たのだ。
「生魚は嫌いですか?」
「いや、そうではなくて…」
キラキラと輝いている刺し身。絶対美味しいんだろうな、ってことは見て分かる。
お腹空いたし食べたいのは山々だけど……
食べる手を止めないこの人を見ながら、もはや自分から話を切り出してしまおうかと考えた。
が。
「そんなに気を張らなくても大丈夫ですよ。
僕はただ、あなたに確認を取りたいだけですから」
「確認…?」
「そう。確認」
言って。ようやく橋本さんは刺し身を食べる手を止める。
「────安藤さん。
あなたにとって春はただの家主であり、そしてあなたはその家で働く" ただの "家政婦。
それで間違いないですね?」
ずっと料理にあった目線を上げて
どこか威圧的な目で私を見た。
その視線といい、
『ただの』という言葉の強調。
────ドクン、と。
心臓が嫌な音をたてる。