極愛初夜-血脈だけの婚姻-
遡ること一週間前。私はいつものように神月百貨店の企画部に出社していた。
私以外誰もいないような早い時間だったが、私はこの時間が好きだった。
いつものように自分の席に着き、仕事を始めようとした時だった。スマホに一つの着信が入った。祖父の名前が表示されているのを確認して、電話に出る。
「はい。琴子です。」
「おお、元気にしているか。」
「はい、お陰様で元気に過ごしております。お祖父様はいかがでしょうか。」
「私も元気にしているよ。…今大丈夫か。」
「はい、問題ありません。何かありましたか?」
「あぁ、込み入った話でな。今日の夜、会ってくれないか。」
「今夜、ですか。少々お待ちください。」
手帳をめくって今日のスケジュールを確認する。幸い、予定は入っていなかった。祖父が急な用件を作るのは珍しい。一体どんな話なのだろうか。いろいろと聞きたいが、今夜会いにいけばわかることだろう。
「わかりました。どちらに伺えばよろしいでしょうか。」
「助かるよ。場所は…そうだな、琴子の勤務先に近いところにしよう。あとで場所を送る。予約は私が取っておくから、その時間に来てくれ。」
「はい。了解しました。」
「琴子、無理はするな。では今夜。」
ピッという電子音とともに通信が切れる。要件とは一体なんのことだろうか。私はあれこれ思案しながらも、今日の業務内容を整理し始めた。
待ち合わせ場所は勤務先からさほど遠くない料亭だった。いかにも祖父が選びやすそうな雰囲気の料亭はとても一般の人は入れないようなものではなかった。
「綾瀬琴子様でしょうか。」
ぼうっとその風貌を眺めていると着物を着た女性が話しかけてきた。慌てて返事をする。
「は、はい。どうも。」
「綾瀬宗一様がお待ちです。こちらへどうぞ。」
着物の女性に案内されるがまま、私は料亭の中を進んだ。久々に会う祖父に少し緊張する。着物の女性が開けた襖の先には、スーツ姿の祖父がいた。
「お祖父様、お久しぶりです。琴子でございます。」
「おお、大きくなったなぁ。まあまあ座りなさい。」
私は静かに一礼して、祖父の前に座った。祖父はもう既に酒を飲んでいるようで、ほのかに赤ら顔だ。ニコニコとしている祖父を見ると、緊張が少し解れた。祖父が瓶を傾ける仕草をしたので、私はグラスを一つとり、ビールを注いでもらった。
「ありがとうございます。」
「そんなに畏まらなくていい。お前は私の孫なのだから。それに呼び出したのは私だ。」
「いえ、お祖父様に無礼はできません。」
「ふふ、変わらないな。琴子は。一体誰に似たのか…。ここは私の奢りだ。遠慮せず食べてくれ。」
祖父が控えている女性に合図を送ると、豪華な料理が私の前に並び始めた。祖父に促され、盛り付けられた色とりどりの料理を口に運ぶ。見た目通り、上品な味がした。
料理を楽しみながら、自分の仕事のことを話した。どれもあまり面白くもない話だが、祖父はそれを楽しそうに聞く。
ある程度料理が進むと、祖父が口を開いた。
「…本題に入ろう。」
「はい。」
「お前も、綾瀬呉服店が経営危機であるのは知っているだろう。」
「…存じております。」
「明治から続くこの店を、私の代で終わらせたらご先祖様に顔向けができない。息子に引き継がせられるかも怪しい…そこである企業が私たちに支援をしたいと言ってくれたんだ。」
「その企業はというのは…?」
「神月グループだ。」
「神月…?」
「ああ。琴子の務めるグループだ。」
思わぬ企業の名前が飛び出して驚く。たしかに神月グループなら綾瀬呉服店を支援してもおかしくはない。ありえない話ではない。
「それは素晴らしいですね!良いお話です。」
「問題はその条件なんだ。」
「条件、ですか。」
「ああ…その支援の条件なんだが…」
言いづらそうに祖父が口をもごもごと動かす。一体どんな条件をつけられたのか。思わずごくりと唾を飲み込む。
「琴子、お前だ。」
「わ、私ですか?それはどういう…」
「単刀直入に言おう。神月百貨店の代表、神月蒼さんと結婚してくれ!」
「け、けけ結婚!?」
今度こそ、本当に驚いた。あまりに突拍子もないことでビールがこぼれる。タオルを差し出されて礼を言って、スカートにこぼれたビールを拭いた。祖父は申し訳なさそうな声で話を続けた。
「神月家は最近頭角を現した比較的新しい企業だ。そこの代表はまだ歴史がない神月家を憂いていてな。」
「それでも十分な企業なのでは…?」
「代表はそうは思わないらしい。そこで百年以上の歴史を持つうちに声がかかった。」
ちびりと祖父がビールで口を潤す。
「業績はさっぱりだけど歴史だけは長いからな…そこでうちと神月家が家族になるという話が持ち上がった。ちょうど神月家には今年三十になる長男がいて、うちにも若い女性がいるとなったら話がとんとん拍子で進んで、それに子供まで設けようという話まで…」
「こども、ですか。」
「むしろ向こうはそっちが目的だ。きっと綾瀬の血が入った子供が欲しいんだろう。ゆくゆくは綾瀬の跡取りになるかもしれないからな…」
祖父ががばっと頭を下げた。これにもまたびっくりして目を丸くした。
「頼む!お前を売るような形になってしまったこと、本当に申し訳ない!だが、うちが生き残るためにはそれしかないんだ!どうか、神月家と結婚してはくれないだろうか!」
「ちょっとお祖父様!頭を上げてください!」
「駄目だ!息子が亡くなってからというもの、お前のことは大事に育ててきた…それなのに家のために売るような真似なんて、とても許されるべきじゃない!」
「お祖父様、本当に頭を上げてください!」
そう言うと少しだけお祖父様が頭を上げた。目には涙が浮かんでいる。
「お祖父様。私はお祖父様とお店が大好きです。守りたい気持ちはお祖父様と同じです。」
「琴子…」
「お祖父様はお父さんの分も私を大切にしてくださったじゃありませんか。その恩を今、ぜひ返させてください。」
「うぅ、うぐっ…ことこぉ…!」
「泣かないでくださいお祖父様。私はお祖父様のお役に立てるなら嬉しいのです。」
「すまない!本当にすまない…!」
祖父が思い切り私を抱きしめる。酒の匂いと少し擦れた匂いが祖父だと感じさせてくれた。
「琴子、嫌になったらいつでも戻ってきてくれて構わないからな。」
「ふふ、大丈夫ですよ。お祖父様。私は頑張り屋さんなんですよ?」
「ありがとう琴子…ほんとうに…っ!」
抱きしめられながらおいおいと泣く祖父の背を撫でる。だが私に中には漠然とした不安がぐつぐつと湧いてきた。
(私、男の人と付き合ったことないなぁ…)
それなのに結婚、子作りか。それも自身の会社の代表だ。いまいちピンと来ない。
(まあお祖父様の為だし、頑張ろう。)
そんなことを適当に考えながら、私は祖父の背を、祖父が落ち着くまで摩った。
私以外誰もいないような早い時間だったが、私はこの時間が好きだった。
いつものように自分の席に着き、仕事を始めようとした時だった。スマホに一つの着信が入った。祖父の名前が表示されているのを確認して、電話に出る。
「はい。琴子です。」
「おお、元気にしているか。」
「はい、お陰様で元気に過ごしております。お祖父様はいかがでしょうか。」
「私も元気にしているよ。…今大丈夫か。」
「はい、問題ありません。何かありましたか?」
「あぁ、込み入った話でな。今日の夜、会ってくれないか。」
「今夜、ですか。少々お待ちください。」
手帳をめくって今日のスケジュールを確認する。幸い、予定は入っていなかった。祖父が急な用件を作るのは珍しい。一体どんな話なのだろうか。いろいろと聞きたいが、今夜会いにいけばわかることだろう。
「わかりました。どちらに伺えばよろしいでしょうか。」
「助かるよ。場所は…そうだな、琴子の勤務先に近いところにしよう。あとで場所を送る。予約は私が取っておくから、その時間に来てくれ。」
「はい。了解しました。」
「琴子、無理はするな。では今夜。」
ピッという電子音とともに通信が切れる。要件とは一体なんのことだろうか。私はあれこれ思案しながらも、今日の業務内容を整理し始めた。
待ち合わせ場所は勤務先からさほど遠くない料亭だった。いかにも祖父が選びやすそうな雰囲気の料亭はとても一般の人は入れないようなものではなかった。
「綾瀬琴子様でしょうか。」
ぼうっとその風貌を眺めていると着物を着た女性が話しかけてきた。慌てて返事をする。
「は、はい。どうも。」
「綾瀬宗一様がお待ちです。こちらへどうぞ。」
着物の女性に案内されるがまま、私は料亭の中を進んだ。久々に会う祖父に少し緊張する。着物の女性が開けた襖の先には、スーツ姿の祖父がいた。
「お祖父様、お久しぶりです。琴子でございます。」
「おお、大きくなったなぁ。まあまあ座りなさい。」
私は静かに一礼して、祖父の前に座った。祖父はもう既に酒を飲んでいるようで、ほのかに赤ら顔だ。ニコニコとしている祖父を見ると、緊張が少し解れた。祖父が瓶を傾ける仕草をしたので、私はグラスを一つとり、ビールを注いでもらった。
「ありがとうございます。」
「そんなに畏まらなくていい。お前は私の孫なのだから。それに呼び出したのは私だ。」
「いえ、お祖父様に無礼はできません。」
「ふふ、変わらないな。琴子は。一体誰に似たのか…。ここは私の奢りだ。遠慮せず食べてくれ。」
祖父が控えている女性に合図を送ると、豪華な料理が私の前に並び始めた。祖父に促され、盛り付けられた色とりどりの料理を口に運ぶ。見た目通り、上品な味がした。
料理を楽しみながら、自分の仕事のことを話した。どれもあまり面白くもない話だが、祖父はそれを楽しそうに聞く。
ある程度料理が進むと、祖父が口を開いた。
「…本題に入ろう。」
「はい。」
「お前も、綾瀬呉服店が経営危機であるのは知っているだろう。」
「…存じております。」
「明治から続くこの店を、私の代で終わらせたらご先祖様に顔向けができない。息子に引き継がせられるかも怪しい…そこである企業が私たちに支援をしたいと言ってくれたんだ。」
「その企業はというのは…?」
「神月グループだ。」
「神月…?」
「ああ。琴子の務めるグループだ。」
思わぬ企業の名前が飛び出して驚く。たしかに神月グループなら綾瀬呉服店を支援してもおかしくはない。ありえない話ではない。
「それは素晴らしいですね!良いお話です。」
「問題はその条件なんだ。」
「条件、ですか。」
「ああ…その支援の条件なんだが…」
言いづらそうに祖父が口をもごもごと動かす。一体どんな条件をつけられたのか。思わずごくりと唾を飲み込む。
「琴子、お前だ。」
「わ、私ですか?それはどういう…」
「単刀直入に言おう。神月百貨店の代表、神月蒼さんと結婚してくれ!」
「け、けけ結婚!?」
今度こそ、本当に驚いた。あまりに突拍子もないことでビールがこぼれる。タオルを差し出されて礼を言って、スカートにこぼれたビールを拭いた。祖父は申し訳なさそうな声で話を続けた。
「神月家は最近頭角を現した比較的新しい企業だ。そこの代表はまだ歴史がない神月家を憂いていてな。」
「それでも十分な企業なのでは…?」
「代表はそうは思わないらしい。そこで百年以上の歴史を持つうちに声がかかった。」
ちびりと祖父がビールで口を潤す。
「業績はさっぱりだけど歴史だけは長いからな…そこでうちと神月家が家族になるという話が持ち上がった。ちょうど神月家には今年三十になる長男がいて、うちにも若い女性がいるとなったら話がとんとん拍子で進んで、それに子供まで設けようという話まで…」
「こども、ですか。」
「むしろ向こうはそっちが目的だ。きっと綾瀬の血が入った子供が欲しいんだろう。ゆくゆくは綾瀬の跡取りになるかもしれないからな…」
祖父ががばっと頭を下げた。これにもまたびっくりして目を丸くした。
「頼む!お前を売るような形になってしまったこと、本当に申し訳ない!だが、うちが生き残るためにはそれしかないんだ!どうか、神月家と結婚してはくれないだろうか!」
「ちょっとお祖父様!頭を上げてください!」
「駄目だ!息子が亡くなってからというもの、お前のことは大事に育ててきた…それなのに家のために売るような真似なんて、とても許されるべきじゃない!」
「お祖父様、本当に頭を上げてください!」
そう言うと少しだけお祖父様が頭を上げた。目には涙が浮かんでいる。
「お祖父様。私はお祖父様とお店が大好きです。守りたい気持ちはお祖父様と同じです。」
「琴子…」
「お祖父様はお父さんの分も私を大切にしてくださったじゃありませんか。その恩を今、ぜひ返させてください。」
「うぅ、うぐっ…ことこぉ…!」
「泣かないでくださいお祖父様。私はお祖父様のお役に立てるなら嬉しいのです。」
「すまない!本当にすまない…!」
祖父が思い切り私を抱きしめる。酒の匂いと少し擦れた匂いが祖父だと感じさせてくれた。
「琴子、嫌になったらいつでも戻ってきてくれて構わないからな。」
「ふふ、大丈夫ですよ。お祖父様。私は頑張り屋さんなんですよ?」
「ありがとう琴子…ほんとうに…っ!」
抱きしめられながらおいおいと泣く祖父の背を撫でる。だが私に中には漠然とした不安がぐつぐつと湧いてきた。
(私、男の人と付き合ったことないなぁ…)
それなのに結婚、子作りか。それも自身の会社の代表だ。いまいちピンと来ない。
(まあお祖父様の為だし、頑張ろう。)
そんなことを適当に考えながら、私は祖父の背を、祖父が落ち着くまで摩った。